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第五章 ワン・モア・チャンス

23 いいものは「カーカーカー」

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「あら、康ちゃん。お帰りなさい」
 寮母の水野さんに声を掛けられたのは、部室の片づけをすませて男子寮にひとりで戻ってきた康太が、階段を昇ろうとしていたときだった。ふり返ると、食堂の入口のところで寮母さんが康太を手招いていた。
「あっ、水野さん。ただいま」康太は挨拶をして階段を降り、食堂に這入った。「何かお手伝いしましょうか?」
 夕食までにはまだ時間があるので、食堂はガランとしている。康太と寮母さんのふたりだけだ。
「それは大丈夫よ。重いものを運ぶのは、タケちゃんと健ちゃんが担当なの。さっきやってもらったわ」
 康太が厨房の隅に目をやると、段ボール箱がいくつか積み上げられていた。
「それじゃあ……」水野さんは何か云いたそうにしている。康太は考えを巡らせた。「何かいいことがあったんですね?」
「そうなの」
 水野さんは、うふふ、と笑いながら厨房に行くと、こんどはカウンター越しに康太に話しかけた。「いいものがあるのよ。ヒロくんと康ちゃんだけ特別にね」
 ——よほど嬉しいことがあったんだなあ。
 ——でも、どうしてぼくたちにだけ?
 康太がともかくお礼を云わなければと口を開こうとしたとき、先に水野さんが話を続けた。「観たわよ。お昼の番組」
 ——お昼の番組……?
 康太は首を傾げた。「ええと、それって……」
「ヒロくんと一緒にインタビューを受けていたでしょう? 駅前の商店街で」
「あっ——!」
 武志にいつオンエアなのか伝えなければならなかったのだ。しかもデッドラインはとっくに過ぎている。あれから武志が何も云ってこなかったのをいいことに、すっかり忘れていた。
「ふたりとも緊張していたみたいね」水野さんが片目でウィンクをした。まるで少女のような可憐さだ。
 康太は耳が熱くなるのを感じた。「そう……だったんです、か?」
 うふふ、と微笑んで水野さんが冷蔵庫に向った。「それにふたりとも兄弟みたいだったわ」褐色の長太いポットを棚から取り出してカウンターに戻り、洗い立てのコップに中身を注いで康太の前に置く。「はい、どうぞ」
 カフェ・オ・レだった。
 康太は、いただきます、と云ってひと口飲んだ。
 ——これって……。
「ミルクのオーナーにお裾分けしてもらったのよ。お店ではホットだけど、アイスでも美味しいんですって。どうかしら?」
 康太は顔を上げて水野さんを見た。
 水野さんが嬉しそうに云った。「ヒロくんとふたりで仲良く飲むのよ」

 礼を云って食堂を出ると、康太は階段を昇りながら考えた。
 ——今井先輩にどう云えばいいんだろう……。
 セカンド・ミッションのまえに重要なミッションがあったのだ。かといって、大樹が武志に揶揄われるのも申し訳ない気がする。武志がこの失態を無罪放免にしてくれる方法は……。
 康太は、ふと両手で抱えているカフェ・オ・レのポットを見た。
 ——貫通式!
 浴室でのバット磨きが康太の脳裏に泛んだ。まだ目にしていない、大きくなった大樹のものを想像する。男子寮の四大バズーカ砲の、それも最上級の代物は、こんな感じなのだろうか。
「おっ、リトルウルフ!」
 そのとき、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。康太が顔を上げると、数段先の踊り場に寮長の勝利が颯爽と立っている。いつもの大学のジャージ姿ではなかった。すっきり晴れわたる青空のようなカラーのデニムを穿き、上半身は軽やかな白いシャツを、そのボタンをすっかりほどいて羽織っている。そのしたには白いろのタンクトップを着ているらしかったが、それは薄手のものなのだろう。勝利の見事な筋肉の鎧を精細にレリーフしているように見えた。
「あ、大野先輩……」
 勝利がシャツをなびかせながら階段を舞い降りる。ふわりとなびくシャツは翼のようで、まるではやぶさが獲物を目掛けて天から降りてくるかのようだ。そして康太の二段上に降りたつと、翼を休める間もなく猛禽類のような目つきで康太の手元を見て、
「いいもん、持ってるな」
「あ……あの、その、これは……」手のなかのものは、すでにカフェ・オ・レのポットに戻っていた。「カーカーカー……」
 声が震えている。ちゃんと最後まで云わなければ、伝わるものも伝わらない。
「たーたーたー?」勝利が片眉を、ぐいっ、と吊り上げた。
 案の定聞き違えたらしく勝利が発したのは、よりによってあの言葉だった。すると康太の手のなかのものが一瞬にして大樹のものに戻った。長くて太い。色もこんな感じだ。いや、もっと焦げ茶いろをしていた。そしてずしりとした重量感がある。唯一違うのは、今手にしているものが冷たいということだけ。
 康太はますます焦った。「カーカーカー……」
 勝利が快活に笑った。「カフェ・オ・レだろ? ミルクの」
「え」
「ウルフのやつ、びっくりするだろうな。おまえがそれを持っていったら」勝利は何やら知っているような口ぶりだ。そして康太がこくりと頷くと、こう云い足した。「デカ猪に見つからないようにしろよ」
「は、はい……」
 康太が辛うじて返事をすると、精悍な隼は颯爽と階段を舞い降り、男子寮のエントランスへと飛んでいった。
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