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第四章 人の噂も七十五日
8 電球をください
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寮長室のある五階に行くのははじめてだった。ここですれ違う人がいるとすれば勝利しかいない。そうだとわかってはいても、何となく左側に寄ってしまう。康太は、ドアフォンを押して勝利が出たら云うべき台詞を、頭のなかでくり返しながら、一歩ずつ階段を上がった。
五階に着いた。雰囲気は四階と変わらなかった。違うのは、階段からすぐ近くにドアがひとつだけあることだ。ちょうど四階の武志たちの部屋のドアがあって、自分たちの部屋のドアがないという具合だった。
——部屋も広いんだろうなあ。寮長だし。
康太は、胸の犬笛を両手で握りしめ、三度深呼吸をしてから呼び出しボタンを押した。
しばらくして応答があった。
「暗証番号」
シャキッとした勝利の声。
「硬式野球部一年の……」康太は云いかけて、勝利の忠告を思い出した。堅苦しいことは抜きにしなければならない。「大野先輩、康太です」
「暗証番号」
もう一度勝利の声がした。こんどは少し笑っているようだった。
揶揄っているのだろうか。康太は、こんなとき武志ならどうするか考えた。きっと暗証番号を押してドアを開け、ずんずんと這入っていくだろう。
康太はどうすべきかを考えて、
「暗証番号は5555です」
と応え、さらにこう付け加えた。「今井先輩に教えてもらいました。これで合っていますか?」
「押してみな」
康太が暗証番号を押すと、アラーム音が鳴って施錠が解除された。ドアノブに手を掛ける。しかし開けることは躊躇われた。
——本当に開けても好いのかな……。
康太が考えていると、ドアの向うからノックされた。早くしろ、ということらしい。康太は思い切ってドアを開けた。
「大野先輩……あの……」
「康太、どうした? 用があるなら早く這入れ」
康太は、反射的に勝利の着衣枚数を数えた。Tシャツと短パンといったラフな姿だ。靴下は履いていないので三枚だ。
「なるほど……」勝利が、ドアの前で立ちつくす康太を見て片眉を爽やかに吊りあげた。「部屋のなかに這入らなければ、マイナス・ワンをしなくてすむって考えたんだな?」
「い、いえ。そうじゃなくて、ちょっと急いでいて……」康太はここで一度深呼吸して、ゆっくりと云った。「一階と二階の踊り場の電球が切れているんです。換えの電球が大野先輩の部屋にあるって聞いたので、取りに来たんですけど」
「おう、ちょっと待ってろ」
勝利は、意外にもあっさりと引きさがって部屋に戻った。康太は、足を踏み入れないように顔だけを突っ込んで、こっそりと部屋の奥を覗きこんだ。廊下の先にある縦長の四角い枠の向うが見える。大樹と使っている部屋と同じような奥行きだが、ベッドは見えず、すっきりと片付いているようだった。
——この調子だと、今井先輩たちの部屋と合わせた感じなのかも……。
康太がこう当たりをつけたとき、奥から例のノッシノッシと響く足音が聞こえてきて、康太は慌てて顔を引っこめた。
「康太、這入ってきても構わないぞ」勝利が電球をふたつ手に戻ってきた。「取り換えたら古いやつ持ってこいよ」
「はい。でも切れてるのは、ひとつだけなんですけど……」
「ここは男子寮だろ?」
「あ」
「球はふたつでワンセットだ。まあ、験担ぎみたいなものだけどな」
康太は驚いた。普通なら、かなりの下ネタジョークだ。けれども勝利が云うとどうだろう。その精悍なマスクのせいか、爽やかに聞こえるのだ。勝利の口からどんな下ネタが出たとしても、風がさっと通り抜けたような心地がする気がして、すっかり戸惑ってしまった。
勝利は康太に電球を手渡すと、
「このくらいの下ネタは、さらっと受け流さないとな」
と云い、白い歯を見せて快活に笑った。「オリエン合宿のとき、風呂でおれの球を触らせてやったろ? それからデカ猪の球も磨いているって話じゃないか。今さらオドオドしてどうする」
「は、はい」康太は、両手で電球を捧げ持つようにして云った。
「そういや、もうひとり球技をやってるヤツがいたなあ……」
そのとき犬笛の音がした。康太はドキリとして周囲を見渡した。しかし大樹の姿はなかった。
「康太、今のはおれの口笛だ」勝利が康太の反応を面白そうに見て云った。「おまえ、森のヤツに相当仕込まれているみたいだな」
「あ、いや。その……」康太は狼狽えた。どう応えるのが正解なのかわからない。
「森とおまえは同じウルフ同士だから、気が合うんだろうな」
また始まった。
「森のヤツが『あとふたつコンドームくれ』って云ったとき、ほんと驚いたぞ」勝利はたくましい胸の前で腕を組んだ。「森を信じて、二度目の確認はしなかったけどな」
そうだった。康太は、勝利が怖くて朝まで大樹のベッドに寝ていた。しかし朝の点呼もなく、なし崩し的に『貫通式』はすませたことになっていた。
康太は、作り笑いをして曖昧に頷いた。「あの、すみません。下で新入生たちがぼくを待っているので、これで——」
「おう、行ってこい」勝利は、満足したような顔つきで云った。「古い電球を持ってくるの忘れるなよ。ドアチェーンは掛けないでおくから、暗証番号を押してそのまま這入ってこい。わかったな?」
康太は、失礼します、と勝利に頭を下げてドアを閉め、ダッシュで階段を駆け降りた。
五階に着いた。雰囲気は四階と変わらなかった。違うのは、階段からすぐ近くにドアがひとつだけあることだ。ちょうど四階の武志たちの部屋のドアがあって、自分たちの部屋のドアがないという具合だった。
——部屋も広いんだろうなあ。寮長だし。
康太は、胸の犬笛を両手で握りしめ、三度深呼吸をしてから呼び出しボタンを押した。
しばらくして応答があった。
「暗証番号」
シャキッとした勝利の声。
「硬式野球部一年の……」康太は云いかけて、勝利の忠告を思い出した。堅苦しいことは抜きにしなければならない。「大野先輩、康太です」
「暗証番号」
もう一度勝利の声がした。こんどは少し笑っているようだった。
揶揄っているのだろうか。康太は、こんなとき武志ならどうするか考えた。きっと暗証番号を押してドアを開け、ずんずんと這入っていくだろう。
康太はどうすべきかを考えて、
「暗証番号は5555です」
と応え、さらにこう付け加えた。「今井先輩に教えてもらいました。これで合っていますか?」
「押してみな」
康太が暗証番号を押すと、アラーム音が鳴って施錠が解除された。ドアノブに手を掛ける。しかし開けることは躊躇われた。
——本当に開けても好いのかな……。
康太が考えていると、ドアの向うからノックされた。早くしろ、ということらしい。康太は思い切ってドアを開けた。
「大野先輩……あの……」
「康太、どうした? 用があるなら早く這入れ」
康太は、反射的に勝利の着衣枚数を数えた。Tシャツと短パンといったラフな姿だ。靴下は履いていないので三枚だ。
「なるほど……」勝利が、ドアの前で立ちつくす康太を見て片眉を爽やかに吊りあげた。「部屋のなかに這入らなければ、マイナス・ワンをしなくてすむって考えたんだな?」
「い、いえ。そうじゃなくて、ちょっと急いでいて……」康太はここで一度深呼吸して、ゆっくりと云った。「一階と二階の踊り場の電球が切れているんです。換えの電球が大野先輩の部屋にあるって聞いたので、取りに来たんですけど」
「おう、ちょっと待ってろ」
勝利は、意外にもあっさりと引きさがって部屋に戻った。康太は、足を踏み入れないように顔だけを突っ込んで、こっそりと部屋の奥を覗きこんだ。廊下の先にある縦長の四角い枠の向うが見える。大樹と使っている部屋と同じような奥行きだが、ベッドは見えず、すっきりと片付いているようだった。
——この調子だと、今井先輩たちの部屋と合わせた感じなのかも……。
康太がこう当たりをつけたとき、奥から例のノッシノッシと響く足音が聞こえてきて、康太は慌てて顔を引っこめた。
「康太、這入ってきても構わないぞ」勝利が電球をふたつ手に戻ってきた。「取り換えたら古いやつ持ってこいよ」
「はい。でも切れてるのは、ひとつだけなんですけど……」
「ここは男子寮だろ?」
「あ」
「球はふたつでワンセットだ。まあ、験担ぎみたいなものだけどな」
康太は驚いた。普通なら、かなりの下ネタジョークだ。けれども勝利が云うとどうだろう。その精悍なマスクのせいか、爽やかに聞こえるのだ。勝利の口からどんな下ネタが出たとしても、風がさっと通り抜けたような心地がする気がして、すっかり戸惑ってしまった。
勝利は康太に電球を手渡すと、
「このくらいの下ネタは、さらっと受け流さないとな」
と云い、白い歯を見せて快活に笑った。「オリエン合宿のとき、風呂でおれの球を触らせてやったろ? それからデカ猪の球も磨いているって話じゃないか。今さらオドオドしてどうする」
「は、はい」康太は、両手で電球を捧げ持つようにして云った。
「そういや、もうひとり球技をやってるヤツがいたなあ……」
そのとき犬笛の音がした。康太はドキリとして周囲を見渡した。しかし大樹の姿はなかった。
「康太、今のはおれの口笛だ」勝利が康太の反応を面白そうに見て云った。「おまえ、森のヤツに相当仕込まれているみたいだな」
「あ、いや。その……」康太は狼狽えた。どう応えるのが正解なのかわからない。
「森とおまえは同じウルフ同士だから、気が合うんだろうな」
また始まった。
「森のヤツが『あとふたつコンドームくれ』って云ったとき、ほんと驚いたぞ」勝利はたくましい胸の前で腕を組んだ。「森を信じて、二度目の確認はしなかったけどな」
そうだった。康太は、勝利が怖くて朝まで大樹のベッドに寝ていた。しかし朝の点呼もなく、なし崩し的に『貫通式』はすませたことになっていた。
康太は、作り笑いをして曖昧に頷いた。「あの、すみません。下で新入生たちがぼくを待っているので、これで——」
「おう、行ってこい」勝利は、満足したような顔つきで云った。「古い電球を持ってくるの忘れるなよ。ドアチェーンは掛けないでおくから、暗証番号を押してそのまま這入ってこい。わかったな?」
康太は、失礼します、と勝利に頭を下げてドアを閉め、ダッシュで階段を駆け降りた。
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