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第四章 人の噂も七十五日

9 踊り場の雑技団

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「康太、案外早かったな」
 健司が、踊り場に戻ってくる康太を見て云った。人懐っこい笑顔でニコニコしている。そればかりか、すっかりその場に溶けこんでいた。
 ——どうせまた、あることないこと云いふらしてたんだろうな。
 とは云え、社交的な健司が羨ましくもある。
「さすがウルフだな」
 誰かが云った。
 バスケ部がそれに応えた。「先輩、リトル・ウルフっすよ、林は」
 見ると体操部の四年生がこの場にいた。二階の四人部屋を使っている先輩で、確かこのバスケ部と同室だ。背は康太よりもずっと低いが、さすが体操部らしく、ノースリーブの表面がその下にある筋肉をそのままレリーフしたかのように隆起し、裾から筋肉質の丸い肩と太い腕が伸びていた。
 その体操部が、
「おまえら、風呂でカチあったことないだろ」
 と周囲に云い、それから康太に顔を向けてスキャンするように顔を上下させた。「ウルフが二匹もいるんだぜ?」
 健司が笑った。「狼が出たぞー!」
 周囲がどっと湧いた。
 ——笑いたければ笑えよ。陰でこそこそ話をされるよりはマシだ。
 康太は、平然とスウェットの前ポケットから電球を取りだし、バスケ部に手渡した。「はい、これ。あと、古いのは大野さんの部屋に持っていかないと——」
「それは頼んだ。リトル・ウルフ」横から体操部が云った。
 健司が加勢した。「取りに行ったヤツが戻しに行かなくちゃ」
「わかったよ」
 康太はあっさりと降参した。
 それじゃあ始めるか、と体操部が云った。
 するとバスケ部がチカチカ点滅している電球の真下に立ち、両脚を肩幅に展げて腰を少しだけ落とした。
「先輩、こんな感じっすか?」とバスケ部。
「おう、っとしてろ。ふらつくなよ」と体操部。
 体操部がひょいとバスケ部の背中を登り、あっという間に肩車が完成した。まるで中国雑技団のパフォーマンスを見るようだった。バスケ部がすっくと立上がったあとも、体操部は器用にバランスを取っている。
「うおー」
 踊り場を拍手と歓声が包んだ。その場にいた誰もが——もちろん康太も——そのぴたりと息の合った、同室の、先輩と後輩の、曲芸アクロバティックに目を奪われたのだった。
 ふたりは、どんなもんだ、と云わんばかりに揃って腰に両手を宛てて、しばらくその肩車の姿勢のままでいた。
 ——だから体操部の先輩を呼んだんだな。身軽だし、態々重いハシゴを持ってこなくてもすむもんな。
 康太は、なるほど、とひとり納得して両腕を胸の前で組んだ。
 体操部とバスケ部のパフォーマンスは続いた。
 両腕を平行に伸ばし、その場でぐるりと三回ターンした。それがすむと体操部が、こんどはバスケ部のたくましい両肩に両脚を引っ掛けたまま、後ろに倒れた。
「ちょっ、先輩!」
「おれを落としてみろ。ただじゃ置かないぞ!」
 体操部がバスケ部を揶揄っているらしかった。バスケ部は、慌てて体操部の両脚を掴んだ。ゆっくりと腰を落としながら片膝立ちの姿勢をとり、それから前屈みになる。
「先輩、これで好いっすか?」
「オッケー」
 体操部はノースリーブの裾を胸まで捲りあげ、両手を頭の後ろで組むと、見せつけるように腹筋運動をした。カブトムシの腹のような見事な腹筋が披露された。
 また拍手と歓声が上がった。ヒューヒュー、と口笛を鳴らすものもいた。康太は、ここで犬笛を吹いてみようか、とふと思ったが、おれたちにしか聴こえない、という大樹の言葉を思いだし、やらないことにした。それにただでさえ、この犬笛が『リトル・ウルフの象徴シンボル』のようになっているのだから、みだりに人前で見せるようなことは避けるのが良さそうだった。
 体操部が、ノースリーブの裾からほとんど無毛の腋窩をこれ見よがしに晒しながら、悠然と腹筋運動を続ける。康太は、なんだか挑発されているような気分になった。確かに風呂で何度かこの体操部の裸かを見たことがある。小ぶりな道具の上に小さな逆三角形の繁みがあるほかは、まったくのツンツルテンだった。
 ——ぼくが毛深いのは認めるから、さっさと電球交換してくれないかなあ。
 康太が困惑したような顔を作ると、それを見た体操部がようやく起きあがった。バスケ部の頭を掴んで、ぽんと叩く。すると上と下とで巧みにバランスを取りながら、また肩車の姿勢に戻ろうとする。
 拍手喝采——誰もが踊り場のパフォーマンスに期待した。
 そして、つぎの瞬間、
「うわっ! せ、せんぱ——」突然、バスケ部が声を上げた。「むぐぅ……」
 踊り場が爆笑の渦に包まれた。
 体操部が、ひょいと向きを変えて股間をバスケ部の顔に押しつけたのだった。バスケ部は、顔をのけ反らせ、よろけそうになりながらも両手を伸ばし、体操部の腰を掴んで支えた。
「おらおら。しっかりと支えてろ」
 体操部がバスケ部にハッパを掛ける。
 健司があからさまにおだてた。「先輩、さすがっすね。息もぴったり」
「こいつとは『貫通式』やった仲だからな」
 体操部が笑いながら応えた。片手をバスケ部の後頭部に回し、ぐいぐいと股間を押しつける。バスケ部は、モゴモゴとくぐもった声を洩らすだけで、何を云っているのかわからない。体操部が、もっと右だ、もう少し左だ、とスイカ割りのように云う。バスケ部がクレーンゲームのように移動する。
 ますます周囲は笑った。康太は、健司の手を取って引き寄せた。人混みに紛れて今のうちに——。
 健司が、きょとんとした顔で云った。
「康太、どうした? ゴリ野さんに古い電球持っていくんだから、最後までここにいなくっちゃ」
「あ」
 そこへ、なんだなんだ、と騒ぎを聞きつけた寮生たちが集まってきた。先輩も新入生も、康太がいるのに気づいて、おっ、という顔をする。あちこちから『リ……』という声が聞こえたり聞こえなかったりした。
「健司、こっちこっち」
 康太は、健司の手を引いて、壁の隅に移動した。
 
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