[R-18] おれは狼、ぼくは小狼

山葉らわん

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第三章 貫通式

1 壁の向う、スマホの向う、テレビの向う

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 硬式野球部の新入生たちと一階の風呂に入り、康太はひとり401号室まで戻ってきた。二階で別れた部員もあれば三階で別れた部員もあった。
 大樹は、康太が風呂に行くとき、ミーティングがあると云って、武志と連れ立って寮長の勝利の部屋に行ったきり、まだ戻ってきていない。健司は部屋にいるだろうか。康太は、テレビのあるほうの壁に耳をあてた。女のあえぎ声が聞こえた。どうやら健司が、アダルトビデオを観ているらしかった。
 ――健司のやつ、変なもの持ちこんで……。それとも、今井先輩のかな……?
 ここは、体育会系の男たちが集まっている学生寮だ。部屋にアダルトビデオがあってもおかしくはないし、ひょっとしたら数人で、わいわい云いながら観たりすることがあるのかもしれない。康太は、壁越しに艶めかしい音声を聞きながら、ふと思った。もしかして大樹がアダルトビデオを一緒に観ようと誘ってくることがあるだろうか。健司となら一緒に観たこともあるし、ふざけて一緒に自慰をしたこともある。けれどもそれは、気心の知れた幼馴染同士だから出来ることであって……。
 ――今井先輩は、そういうイメージあるけれど、森先輩は……。
 今日一日をふり返っても、大樹は面倒見の好い先輩でしかなかった。新しい環境に興奮している自分の失態を、大樹は大目に見てくれた。洗濯室で思いっきりぶつかっても、怒ることなく抱きとめてくれたし、バナナの皮にしても、勝利が武志にパスし、武志から健司の手に渡り、そして健司が自分に押し付けてきたのを、さりげなく引きとって、トレーニング室のゴミ箱に捨ててくれた。
 大樹の自分に対する態度のどれもが、親切な先輩というイメージに集約され、とてもアダルトビデオ鑑賞会のイメージとは結びつかなかった。
 康太は壁に張りつくのをやめて、テレビを点け、こたつテーブルのまえに坐った。夜のバラエティー番組が流れる。出演者のなかで康太の目を引いたのは、キー局の女性アナウンサーだった。北海道にいた頃は、ただ憧れているだけの遠い存在だった彼女と同じ東京にいる。テレビを観ながら康太は、ついに上京したんだ、と実感した。
 ――それにしても、ほんと恵まれているなあ、この部屋。
 康太は立上り、部屋のなかを、あらためて見廻した。スウェットの上着ポケットからスマホを取りだして写真を数枚撮り、そのなかから厳選した三枚にメッセージを添えて、LINEの親子三人で開設したチャットルームに送った。すぐに既読になり、ほどなくしてスマホが振動した。バナーに『お母さん』の文字が、ぽん、と泛ぶ。
 康太はテレビのボリュームを下げ、自分のベッドまで行って腰を下ろした。緑のアイコンを押して応答するや否や、母の声がした。
「康太、写真見たわよ。素敵なお部屋ね」
「ふたり部屋なんだ。先輩と一緒に使うんだよ」
「わかっていると思うけど、毎日ちゃんとお掃除するのよ。ちょっと、お父さん!」
「お母さん、どうしたの?」康太は、スピーカーをオンにして話しかけた。
「康太、お父さんだ。先輩後輩のけじめだけは、ちゃんとつけるんだぞ。そうしたら可愛がってもらえるからな。識っていると思うが、体育会系の男ってのは――」父の饒舌な声が流れる。今ごろ両親は、居間のソファに寄り添うように坐って、母のスマホに向って話かけているのだろう。父は、母と一緒にスマホを契約したが、未だに使いこなせていないので、連絡を取るのは、もっぱら母のスマホを通してだ。
「うん。わかっているよ。同じ部屋の先輩はね、硬式野球部じゃなくて水球部なんだけど、とても優しくて面倒見が好い人なんだ」
「そうか。同じ球技だから、通じ合うものもあるのかもしれんな」
「ねえ、康太。そっちに送ってほしいものない?」母が割りこんできた。「あれはどうかしら? やきそば弁当、好きだったでしょう? キッチンもあるみたいだし、ポットでお湯を沸かすぐらいなら、康太にもできるわよね」
「ええと――」いきなり訊かれても、すぐには思いつかなかった。コンビニで北海道フェアをやっていたような気がしたが、それも先週までだったのかもしれない。「そうだ、お母さん。あと、ビタミンカステラとも」
「わかったわ。スポーツのあとは、甘いものが欲しくなるものね」母は、明日にでも段ボールにあれこれ詰めこみそうな口調だ。声がうきうきしている。
「康太、ひとりで食べるんじゃないぞ」こんどは父にバトンタッチだ。「体育会系の男ってのは――」

 康太の父は、大学まで剣道をやっていた。今でも休日ともなると道場に通っている。体育大学に学費全額免除の特待生として進学したひとり息子のことを誇りに思っているようだが、康太は少しだけ父に対して申し訳ないという気持ちがあった。
 小さいころ、康太は父に連れられて剣道の道場に通っていた。父は自分を同じ剣士にしたかった違いない。しかし康太は、小学三年生にあがると同時に竹刀からバットに持ちかえた。袴のしたに何も身につけないのが恥ずかしかったのだ。父を含め、何も気にせずにすいすいと着がえる道場の男たちから、こそこそと手で隠しながら着がえていた康太は何度も揶揄われた。
「柔道だって、何も穿かないんだぞ。明日学校で、健司くんに訊いてみなさい」
 ある日、父が云った。
 康太は、つぎの日の休み時間に健司に訊いた。そして剣道をやめようと決めたのだ。

「わかっているってば。心配性なんだから、お父さんは」康太はスマホの向うの父に云った。
 父が声を張りあげる。「投げて打って、大リーグに行って、お父さんとお母さんに楽をさせてくれ」
「お父さん、気が早いよ。まず大学野球で実績を積まないと」
 スマホの向うで父が豪快に笑う声がした。その声をかき消すのは、母の声だ。
「それじゃあ、康太。がんばるのよ。今日はゆっくり寝なさいね」
「うん。そうする。それじゃあ、お父さん、お母さん。おやすみなさい」
 父と母の返事のあと、しばらくあって向うから通話が切れた。
 康太はスマホを片手に、こたつテーブルのところに戻った。壁の向うから微かに女の声が聞こえるような気がする。康太はテレビのボリュームを上げた。
 そのとき、ぴっぴっぴっぴっ、と暗証番号を押す電子音がなった。ドアの開く音がして、大樹が部屋に戻ってきた。右手に白い紙袋を持っている。
「森先輩。お疲れさまでした」康太は、立上って大樹を迎えた。
「坐ってろ。それと夜食だ」大樹は、白い紙袋を掲げてみせた。
「森先輩。テレビ、消しますか?」
 大樹はテレビをちらりと見て、
「あっ」
 と小声を上げて、固まった。
 大樹の目線は、あの女性アナウンサーに注がれていた。
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