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第四章 人の噂も七十五日
5 ランドリールームの前で
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康太は、こくりと頷いた。頷くしかなかった。
「大野さん、食事中ですよ」大樹がそっとたしなめた。「それに声が大きいです。周囲に聞こえたらどうするんですか?」
康太はドキリとした。もし他の寮生たちに聞かれていたら……。後ろをふり返って確認したくても、その勇気はない。
勝利は腰を泛かせて首を伸ばした。「聞こえていないようだ。安心しろ」
大樹が箸をそっと置いた。音はまったく立たなかった。沈黙が一瞬、流れた。
「大野さん、あんまり康太を揶揄わないでくださいよ」大樹は念を押すように云って、康太の頭を左手でポンポンと叩いた。「さあ、喰うぞ」
大樹が味噌汁のお椀を持ちあげ、箸でくるくると掻きまわした。康太もすぐ同じようにした。大樹は右手に箸を持ち、康太は左手に箸を持っている。鏡写しのように息もぴったりだった。ふたりは同時にお椀に口をつけて、味噌汁を啜った。
勝利が立上がった。「康太、明日は練習休みだったよな。駅前の商店街にでも行ってみな。ちょうど週末だし、気晴らしになるぞ。じゃあな」云うが早いか、フィールドを駆けぬけるように消えていった。
「あ、大野先輩……」
康太は、勝利の後ろ姿にでも挨拶をしなければと立上ろうとしたが、大樹に頭を上から抑えられた。康太をプールの底に沈めるような勢いだった。康太は思わず大樹の顔を見た。
「おれも明日休みだから、附合ってやるよ」
「好いんですか?」
「だっておまえ、迷子になったらどうするんだ?」大樹が康太の皿からアジフライを一枚取った。
「あ」
「案内料だ。安いもんだろ?」大樹は樺いろの茹で卵を康太の右手に握らせた。「お釣りだ。水野さんの茹で卵、美味いぞ」
康太は茹で卵を凝っと見つめた。
大樹が、
「殻は自分で剥けよ」
と云ってアジフライの尻尾を康太の皿の上に置いた。
「あっ、今井先輩……」
康太が、ランドリールームへ続く廊下で武志を見かけたのは、食事のあと、健司のようすを見にいくと云って、部屋に戻る大樹と別れたあとだった。
「おう、康太」武志は右手を上げて康太が駆け寄ってくるのを待った。そしてハイタッチがすむと周囲を見回した。「森はどこだ? おまえ迷子になったのか?」
「森先輩なら先に部屋に戻っています。ぼくは健司のことが気になって……」
「もうすぐ乾燥が了るころだ。ユニフォームの畳み方を教えてやってくれ」
「はい」
康太が快活に応えると、武志は康太の頭を鷲掴みにしてガシガシと揺すった。
「うわっ、今井先輩!」
「たっぷりガシガシしてやる」
久しぶりの頭ガシガシに、康太は嬉しくなった。
ところが、もうちょっとガシガシしてもらおうと思ったとき、
「善ッし!」
と云って、武志は康太の頭から手を離し、
「今のちから加減、よく覚えておけよ」
と耳打ちした。
康太は小首を傾げた。
武志は両手を腰に宛て、康太の前にすっくと立った。
「泡立てのちから加減だ。練習しておけ」
武志は、片眉を吊りあげてニンマリと笑うと、じゃあな、と云って盗塁王らしい瞬足でその場を立去った。
康太は、しばらく口をぽかんと開けたまま武志の残像を追っていたが、あれは武志なりの下ネタジョークだろうと思いなおし、ランドリールームの入り口に目を移した。
新入部員が数名出てきた。所属する部はバラバラだが、すでに面識のある新入部員たちだ。彼らは大きなコンビニ袋いっぱいに洗濯物を詰めていた。
「あっ、リトル・ウルフ!」
とひとりが康太に気づいて声を掛け、
「林くん、どうしたの?」
と別のひとり——同じ硬式野球部の新入部員——が、最初に声を掛けた部員の腰を肘で突いた。
康太は、面と向かって『リトル・ウルフ』と呼ばれても平然を装い、
「いや、健司がいるかなと思って」
と応えた。
「健司なら今、乾燥機回しているぜ」
「あいつも大変だよな。よりによって今井先輩のユニフォームだろ? もし縮ませでもしたらどうなるか」
「それに柔道着って臭いじゃないか。ニオイが移ったりして」
彼らは口々に云った。明らかに健司よりはるかに多い洗濯物を手にしているのにもかかわらず、誰もが健司のことを気の毒に思っているようすだった。康太は、自分も何か云わなければと思った。もちろん彼らに云われることは容易に予想できた——ウルフ先輩の洗濯物は水着だけだから康太は楽チンだな。
するとそこへ同じ硬式野球部の部員が云った。「康太は康太で大変みたいだけど」彼は康太に同情の目を向けた。「さっき今井先輩から聞いたよ」
「えっ」康太は目をぱちくりとさせた。
サッカー部が口を挟んだ。「こないだランドリールーム使って怒られたんだってな、ウルフ先輩に——」
康太は戸惑った。確かに自分のユニフォームと普段着をまとめて洗ったことがあるので、そのことだろう。あのとき大樹は、右の壁に並んでいる洗濯機が私服用で左の壁に並んでいる洗濯機がユニフォーム用、という暗黙の了解があると云っていた。そして、この無意味な規則を破ろう、と云っていた。
サッカー部が続ける。
「でもおまえ、識らなかったんだろ? 洗濯機が分かれてるって。なのに、いきなりランドリールーム使用禁止だなんて、ウルフ先輩も厳しいよなあ」
新入部員たちが同調した。
「ユニフォームは部室にも洗濯機があるけど、私服もそこでってわけにはなあ」
「私服は全部手洗いか……」
「近所にコインランドリーあったっけ?」
話がだんだん大きくなってゆく。
「ふたり部屋の代償ってやつか……」
誰かがぼそりと云った。
沈黙が流れた。康太を除く誰もが『貫通式』を思い泛べたようだった。新入部員たちは目を見あわせた。三大バズーカ、と誰かが口にした。康太は顔を赤らめた。
硬式野球部が沈黙を破った。
「林くん、今井先輩に頼んでみたら?」
「何んて?」
「今井先輩のユニフォームと私服は、杉野くんとふたりで分担しますって」
そのときだった。
ランドリールームから、
「康太、そこにいるんだろ? 手伝ってくれ!」
と健司の声がした。
早く行ってやれ、と全員が康太に目配せをした。
康太は頷いてランドリールームに駆けこんだ。
「大野さん、食事中ですよ」大樹がそっとたしなめた。「それに声が大きいです。周囲に聞こえたらどうするんですか?」
康太はドキリとした。もし他の寮生たちに聞かれていたら……。後ろをふり返って確認したくても、その勇気はない。
勝利は腰を泛かせて首を伸ばした。「聞こえていないようだ。安心しろ」
大樹が箸をそっと置いた。音はまったく立たなかった。沈黙が一瞬、流れた。
「大野さん、あんまり康太を揶揄わないでくださいよ」大樹は念を押すように云って、康太の頭を左手でポンポンと叩いた。「さあ、喰うぞ」
大樹が味噌汁のお椀を持ちあげ、箸でくるくると掻きまわした。康太もすぐ同じようにした。大樹は右手に箸を持ち、康太は左手に箸を持っている。鏡写しのように息もぴったりだった。ふたりは同時にお椀に口をつけて、味噌汁を啜った。
勝利が立上がった。「康太、明日は練習休みだったよな。駅前の商店街にでも行ってみな。ちょうど週末だし、気晴らしになるぞ。じゃあな」云うが早いか、フィールドを駆けぬけるように消えていった。
「あ、大野先輩……」
康太は、勝利の後ろ姿にでも挨拶をしなければと立上ろうとしたが、大樹に頭を上から抑えられた。康太をプールの底に沈めるような勢いだった。康太は思わず大樹の顔を見た。
「おれも明日休みだから、附合ってやるよ」
「好いんですか?」
「だっておまえ、迷子になったらどうするんだ?」大樹が康太の皿からアジフライを一枚取った。
「あ」
「案内料だ。安いもんだろ?」大樹は樺いろの茹で卵を康太の右手に握らせた。「お釣りだ。水野さんの茹で卵、美味いぞ」
康太は茹で卵を凝っと見つめた。
大樹が、
「殻は自分で剥けよ」
と云ってアジフライの尻尾を康太の皿の上に置いた。
「あっ、今井先輩……」
康太が、ランドリールームへ続く廊下で武志を見かけたのは、食事のあと、健司のようすを見にいくと云って、部屋に戻る大樹と別れたあとだった。
「おう、康太」武志は右手を上げて康太が駆け寄ってくるのを待った。そしてハイタッチがすむと周囲を見回した。「森はどこだ? おまえ迷子になったのか?」
「森先輩なら先に部屋に戻っています。ぼくは健司のことが気になって……」
「もうすぐ乾燥が了るころだ。ユニフォームの畳み方を教えてやってくれ」
「はい」
康太が快活に応えると、武志は康太の頭を鷲掴みにしてガシガシと揺すった。
「うわっ、今井先輩!」
「たっぷりガシガシしてやる」
久しぶりの頭ガシガシに、康太は嬉しくなった。
ところが、もうちょっとガシガシしてもらおうと思ったとき、
「善ッし!」
と云って、武志は康太の頭から手を離し、
「今のちから加減、よく覚えておけよ」
と耳打ちした。
康太は小首を傾げた。
武志は両手を腰に宛て、康太の前にすっくと立った。
「泡立てのちから加減だ。練習しておけ」
武志は、片眉を吊りあげてニンマリと笑うと、じゃあな、と云って盗塁王らしい瞬足でその場を立去った。
康太は、しばらく口をぽかんと開けたまま武志の残像を追っていたが、あれは武志なりの下ネタジョークだろうと思いなおし、ランドリールームの入り口に目を移した。
新入部員が数名出てきた。所属する部はバラバラだが、すでに面識のある新入部員たちだ。彼らは大きなコンビニ袋いっぱいに洗濯物を詰めていた。
「あっ、リトル・ウルフ!」
とひとりが康太に気づいて声を掛け、
「林くん、どうしたの?」
と別のひとり——同じ硬式野球部の新入部員——が、最初に声を掛けた部員の腰を肘で突いた。
康太は、面と向かって『リトル・ウルフ』と呼ばれても平然を装い、
「いや、健司がいるかなと思って」
と応えた。
「健司なら今、乾燥機回しているぜ」
「あいつも大変だよな。よりによって今井先輩のユニフォームだろ? もし縮ませでもしたらどうなるか」
「それに柔道着って臭いじゃないか。ニオイが移ったりして」
彼らは口々に云った。明らかに健司よりはるかに多い洗濯物を手にしているのにもかかわらず、誰もが健司のことを気の毒に思っているようすだった。康太は、自分も何か云わなければと思った。もちろん彼らに云われることは容易に予想できた——ウルフ先輩の洗濯物は水着だけだから康太は楽チンだな。
するとそこへ同じ硬式野球部の部員が云った。「康太は康太で大変みたいだけど」彼は康太に同情の目を向けた。「さっき今井先輩から聞いたよ」
「えっ」康太は目をぱちくりとさせた。
サッカー部が口を挟んだ。「こないだランドリールーム使って怒られたんだってな、ウルフ先輩に——」
康太は戸惑った。確かに自分のユニフォームと普段着をまとめて洗ったことがあるので、そのことだろう。あのとき大樹は、右の壁に並んでいる洗濯機が私服用で左の壁に並んでいる洗濯機がユニフォーム用、という暗黙の了解があると云っていた。そして、この無意味な規則を破ろう、と云っていた。
サッカー部が続ける。
「でもおまえ、識らなかったんだろ? 洗濯機が分かれてるって。なのに、いきなりランドリールーム使用禁止だなんて、ウルフ先輩も厳しいよなあ」
新入部員たちが同調した。
「ユニフォームは部室にも洗濯機があるけど、私服もそこでってわけにはなあ」
「私服は全部手洗いか……」
「近所にコインランドリーあったっけ?」
話がだんだん大きくなってゆく。
「ふたり部屋の代償ってやつか……」
誰かがぼそりと云った。
沈黙が流れた。康太を除く誰もが『貫通式』を思い泛べたようだった。新入部員たちは目を見あわせた。三大バズーカ、と誰かが口にした。康太は顔を赤らめた。
硬式野球部が沈黙を破った。
「林くん、今井先輩に頼んでみたら?」
「何んて?」
「今井先輩のユニフォームと私服は、杉野くんとふたりで分担しますって」
そのときだった。
ランドリールームから、
「康太、そこにいるんだろ? 手伝ってくれ!」
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