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第二章 401号室

5 犬笛

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「リトル・ウルフかあ……」
 康太がぼそっと呟いたそのとき、
「おい、こら杉野! 鍵ば閉めたやろ!」
 蹴破り戸の向うで武志が怒鳴り声を上げた。
「開けんかったら、ぞ!」
 武志の口から『ボコボコにする』という意味の博多弁が飛びだした。武志がこれを口にすると部員の誰もが震えあがるのだ。康太が隣りのベランダをそっと覗くと、ちょうど健司がサッシを開けたところだった。
 武志が健司の頭をむんずと掴んだ。
「痛っ! 先輩、痛いっす」
「せからしか。この寮の戒律ば、みっちり教えちゃあけん、覚悟しろ」
 武志の豪快な笑い声とともにサッシが閉まった。
 康太は、もしかしてと、自分の部屋のほうをふり向いた。
「よう、康太」
 大樹が窓枠の上部に両手を宛て、ベランダを覗き込むように顔を突きだしていた。上背があるので、両腕は余裕のある角度でもたげられ、はだしの両脚は肩幅にひらかれている。ファスナーをすっかり下ろした大学のトレーニングウェアのトップスのしたから、純白のTシャツが鮮やかに覗かれた。
「あっ。森先輩……」
 大樹は右手を窓枠に宛てたまま左手を下ろし、首から掛けていた銀いろのホイッスルを手にした。そのとき左肩が下がったので、大樹の巨軀は、しなやかな曲線を描いた。左脚を真っ直ぐに伸ばし、右脚は膝を軽く曲げて左脚の踵のうしろにその爪先をつけている。如何にも余裕綽々のていだ。
 康太は、脚の先で湯槽の湯をかき混ぜる大樹の、そして脱衣場で挨拶をしたときの大樹の、あの堂々とした見事な素裸かを思い出した。
 大樹がホイッスルを口にくわえた。その姿はまるでプールの監視員のようだったので、康太は、ベランダが一瞬にしてプールに変わったような気がした。大樹が息を吸いこむと、白いTシャツの胸が雲のように膨らんだ。
 康太は、ホイッスルが鳴るまえに大樹のもとへ駆け寄った。
 大樹がホイッスルを口から離して、
「康太、まだ部屋のなかも見ていないし、荷物もほどいていないだろ?」
 康太は、はい、と応えた。しかし部屋に上がろうにも、大樹が壁のように立ちはだかって、通せんぼをしている。
 銀いろの細長い筒のようなホイッスルが大樹の鳩尾みぞおちにあって、太陽の光を反射してきらきらと揺れていた。
「森先輩。そのホイッスル、いつも持ち歩いているんですか? プールの外でも?」
「こいつは犬笛だ。試してみるか?」
 大樹は、その吹き口を康太の口先につけた。康太が反射的に唇を開いたので、大樹はそれを押しこんで銜えさせた。康太は、その銜えたものを落とさないように両手をそっと添えて支えた。鼻から息を吸うと、洗いたてのTシャツの匂いに混じって、大樹の匂い――プールの匂い――がした。
 近すぎたのだ。康太は、一歩、退いた。
「康太、吹いてみな。隣りには聞こえないから安心しろ」大樹が、空いた左手の人差し指をかぎにして誘った。「この犬笛の音が聞こえるのは、おれとおまえだけだ」
「えっ?」
 康太は、吃驚びっくりして声を上げた。その拍子に犬笛が、康太の口からこぼれ落ちた。康太は、両手を宙に泳がせたまま、大樹の顔を仰ぎ見た。
「森先輩。本当、ですか?」
「だって、おまえ――」大樹が左手で康太の頭をポンポンと叩いた。「『リトル・ウルフ』なんだろ?」
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