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1巻

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「いいえ……むしろ、会いに来るのが遅くなってしまって、すみません。ジェフの身体の方も、だいぶ回復されたとか。本当に、良かったです……」

 ジェフは、別荘の椅子に座り寛いでいるパウラに跪き、頭を下げた。

「はい、その節は大変お世話になりました。一度きちんとした御礼を申し上げたいと思っておりました。……パウラ様にはこの命、助けて頂いて感謝しております」
「いいえ……私は主治医に診て貰う手配をしただけで、助けたのは私ではありませんし……」

 実際助けたのは、病に気付いた主治医だったり、療養りょうようのために引っ越しを決意した乳母うばだったり、もっと直接的な働きをしたのは、いていえばこの土地の空気だったりするだろう。
 パウラがふるふると首を振ると、ジェフはすっかり逞しく育った身体をきりっと緊張させ、パウラに宣言した。

「この命、パウラ様に捧げたいと思い……この度、騎士の道を目指すことと致しました。これから魔塔でしっかりと訓練を積んだ後、公爵家で騎士として雇って頂けるよう、そしてパウラ様をお守りできるよう、誠心誠意頑張りたいと思います」
「まぁ……」

 まさかそんな言葉を聞けるとは思えず、パウラは目を丸くする。
 ただ、パウラが気にしている単語が出て、つい口を滑らせた。

「魔塔、ですか?」

 乳母うばは嬉しそうに、パウラの言葉に頷く。

「そうなんですよ、パウラ様。息子はお医者様の勧めで、体力作りのためにこの地域の自警団の訓練に参加していたのです。木刀ぼくとうを振り回していただけなのですけど、息子に剣の才能があるのではないかと、お声が掛かりまして。もうこの通り身体も良くなりましたし、この度魔塔へ推薦すいせんを頂けることになったのです」

 そう話す乳母うばは嬉しそうで、そして息子を誇らしく思っているようだった。
 パウラから離れ、息子と一対一で過ごす時間ができたのは、ジェフにとっては勿論、乳母うばにとってもとてもいいことだったと感じ、パウラは自分まで嬉しくなる。

「魔塔は才能がないと入れないアカデミーです。素晴らしいですね」

 いくつかの貴族向けのアカデミーでは賄賂わいろ次第で入学できるところもあるそうだ。しかし魔塔の上層部は腐っておらず、どんなに金を積んだとしても、能力がないものは魔塔に入れないという。

「と言っても、しっかり試験はあるみたいなので、合格できるようこれからも訓練に励みたいと思いますが」
「そうなのですね、応援しています。是非、立派な騎士になって下さいね」
「はい!」

 ジェフがにっこりと笑ったところを見て、パウラは変なデジャヴを覚えた。
 ……騎士。
 そういえば、パウラと因縁いんねんのある護衛騎士が、乙女ゲームの攻略対象者にいたような気がする。
 最初からパウラのことを毛嫌いしているキャラなため、ヒロインが攻略する難易度はとても低いのだ。筋骨隆々きんこつりゅうりゅうなキャラだったので転生前のパウラの好みから外れ、ゲームをやり込んだ割には、その護衛騎士のルートは一度さらりとメインのストーリーをなぞっただけだった。
 名前すらすっかり忘れたその護衛騎士だが。

(……似ている気がする……)

 今はまだ筋肉がそこまで付いていないが、もっと成長すれば、まさにあの護衛騎士そのものの姿になるだろう。

(ということは……彼に殺されるルートは一先ず、外れたということかしら……?)

 ジェフが攻略対象者であったならば、放っておいても死ぬことはなかったのだろう。
 けれども、パウラに心酔しんすいする母親から見放された状態が続いた息子であれば、パウラを恨みながら、自分を顧みない母親に見切りを付けて、ある日公爵家を去ったとしてもおかしくはない。
 というより、少しだけ触れたその護衛騎士の過去はそんな感じだった気がする。
 そして、ヒロインと護衛騎士が結ばれれば、ヒロインをめて殺そうとしたパウラは、ヒーローである護衛騎士自身の手によって葬られるのだ。
 ヒーローはパウラに深い憎悪を抱いていたけれども、今目の前にいるジェフの瞳には、憎悪よりも尊敬や崇拝すうはいといった、母親である乳母うばがパウラに抱くものと同じ感情が色濃く映っていた。

(別件で来たのだけど……結果として、とてもいい方向に話が向いたのかもしれない……)

 パウラと乳母うばとジェフは、その日一日、昔話に花を咲かせた。


「まぁ! パウラ様のご婚約ですか?」
「はい。婚約が嫌で、父に抗議するために、ここまで逃げて来たのです」

 本当は、破談にするための理由を作りに来たのだが、それは伏せておく。
 今回の旅は公爵家の護衛騎士を二人連れてのプチ家出であるため、父親が本気を出せばいつでも連れ戻されてしまうような可愛らしいものだ。
 書き残した手紙には抗議よりもお願いを強調してしたためたので、恐らくパウラに甘い父親ならば護衛騎士もつけていることだしと少し大目に見てくれるのではないかという目論見もあった。
 そして、パウラが思いついた破談の理由を確かなものにするためには、パウラの状態を証言する客観的な存在が必要で、場所的にも人的にも護衛騎士や乳母うばが最適だと考えたのだ。

「道理で、先触れもなくパウラ様がいらっしゃるなんておかしいと思ったのですよ。公爵家の馬車ではございませんし、護衛の数も少ないですしね」
「……迷惑を掛けてごめんなさい」

 パウラが謝ると、乳母うばはにっこり笑って言う。

「パウラ様が私のことを思い出して、頼って来て下さり嬉しいですよ。最近の貴族は恋愛結婚も多いですしね」

 母親代わりだった乳母うばに頭ごなしに怒られることなく、パウラは顔を綻ばせる。

「旦那様も、パウラ様の嫌がるお相手とご婚約の話を進められるとは思いませんでしたわ。パウラ様のお相手ならば、完璧なお相手でないとなりませんのに」

 けれども乳母うばのパウラ節は相変わらずで、懐かしく感じたパウラは、ふふと小さく笑ってしまう。

「ところで、パウラ様が嫌がるお相手とはどなたなのですか?」
「……第一王子殿下、です……」

 パウラが正直に答えると、乳母うばは椅子からひっくり返り、ジェフもぎょっとしたような顔でパウラを見た。

「こ、これ以上ない良縁りょうえんではございませんか! どうかパウラ様、お考えを改め下さい!!」
「い、嫌です……!」

 百八十度意見を変えた乳母うばと、譲らないパウラの攻防は続く。
 そして、そんなパウラに助け船を出したのは、ジェフだった。

「ほら母さん、もうこんな時間だ。パウラ様にお出しする料理の食材、自分が目利きするってさっき料理人に言ってたじゃないか。行かないでいいの?」

 この別荘は、普段家族で利用する時は公爵家の料理長を連れて行く。
 今回は乳母うばが作ってくれる食事を楽しめるのかと思っていたが、どうやらこの別荘全体の管理人が請け負っている、身元のしっかりとした料理人を派遣するサービスを利用するらしかった。

「まぁ大変! もうこんな時間になっていたのね。急いで見に行かなきゃ、配達の時間に間に合わなくなってしまうわ。申し訳ございません、パウラ様。私は少し失礼致しますね」
「はい、気を付けて」

 後ろ髪を引かれる思いといった様子の乳母うばが去り、ジェフは乳母うばとその料理人が少し好い仲になっているんだ、とこっそり教えてくれた。
 料理人は平民であり、乳母うばの平民嫌いもその人のお陰でだいぶ収まったらしい。
 ジェフは「さて」とテーブルの上に地図を広げながらパウラに尋ねる。

「パウラ様が母に案内して欲しいと言っていた場所は、どこですか?」
「ええと……」

 パウラは転生前の記憶を呼び起こしながら、ジェフが広げた地図をじっと見つめた。
 パウラの住むロマリレン王国は、現在隣国ジェイホグと多少の小競り合いがある以外は、大きな衝突やトラブルのない、比較的平和な時代に突入している。
 ただ、それとは別に、ロマリレン王国だけでなく、世界中の国で大きな問題として取り上げられているのが闇化していく土壌問題と、その土地に棲み着いたり根付いたりする、魔性の動植物達である。
 今の時代はそれらを聖属性の力で抑え込み浄化しているのだが、その力を持った人間は世界的に見ても少ない。全世界、九十六ある国の中で、そうした稀有けうなる力を秘める人間を保有している国はおよそ七十。ひとつの国に一人いない計算となり、そのことから、ヒロインが如何に特別で貴重な存在であるかわかるだろう。
 そしてそんなヒロインは、魔塔に所属し開花した能力を更に高め、闇化が進む土壌を浄化していくうちに、闇化の源である魔王と深くかかわるようになるのだ。
 風変わりなものや愉快なことが好きな魔王は、自分が闇化した土壌を浄化するヒロインに苛立ちながらも興味を持ち、直ぐには殺さず、魔塔に潜入して様子を見るという選択をする。
 当然、魔王攻略の難易度は一番高く難しいのだが、魔塔に潜り込んだ魔王とヒロインが交流することで好感度があがるようになっている。
 ヒロインが魔王ルートを辿ると、遥か昔、パウラ達人間と魔性の者達は上手く折り合いをつけて共存し、共にこの世界を構築してきたことが明らかになる。それがいつからか、魔性の者達は悪で人間が善という宗教的な教えが人間の間に広まってしまい、魔性の者達は滅ぼされるべきという極論に至ったという歴史的事実を知ることになるのだ。魔性の者達もまた一方で人間から差別をされ続けた側であるという真実が明らかにされた時は、胸が痛くなったものだ。
 その事実を知るまで、ヒロインは自分の故郷を闇化しようとした魔王を絶対悪だと信じて疑わないというストーリーも、今思うと心苦しい。

「ここです。この、テーレボーデン地区に行きたいのです」
「珍しいところですね。なんの名物もなく、目ぼしい観光地などもない長閑のどかな田舎ですが、本当にこちらでよろしいのでしょうか?」
「はい。……乳母うばは忙しいみたいだけれど、無理かしら?」

 パウラがおずおずとジェフに尋ねると、ジェフはにっこりと笑って胸を叩いた。

「私にお任せ下さい、パウラ様。明日にでも早速ご案内致します」
「ありがとうございます、助かります」

 再会してからのジェフの反応を見る限り、乳母うばではなくジェフを連れて行ったとしても、パウラにとって有利な証言をしてくれるだろうとパウラは期待する。
 テーレボーデン地区。
 そこは、バラーダ伯爵の治める、今のところ長閑のどかな田舎町だ。けれど、もう直ぐ魔王がこの地帯を闇化させ、長閑のどかな田舎町は一変して恐怖と混乱に陥ることとなる。
 そして、その地に住んでいるヒロインはこのピンチをきっかけに自分の能力を目覚めさせ、この地帯の浄化に成功するのだ。
 その後、浄化の報告を受けたオレゲールに連れられ、やがて魔塔の門をくぐることになる……という、ヒロインの能力の開花に、魔王やオレゲールとの出会いというイベント盛り沢山の、所謂ヒロインにとっての「始まりの場所」でもある。

(万が一魔王と遭遇したとしても、悪役令嬢であるパウラはまだ殺されない、はず……)

 テーレボーデン地区に行くのは、パウラにとって賭けのような行動だった。自分の想像通りに全てが上手くいくとは限らないのだ。
 しかし、パウラにとって、この行動は自分が生き延びるために欠かせないことで、その後の人生にもかかわる、とても大事な行動であった。


「ではジェフ、また後で」
「はい、パウラ様。気を付けて行ってらっしゃいませ」

 今日もまた、パウラはテーレボーデン地区を訪れていた。
 パウラは目的地に到着すると直ぐにジェフとは別れ、公爵家から付いてきた二名の護衛騎士だけ連れて歩く。

(ジェフが攻略対象者である限り、この場所では死なないとは思うけど……危険なことには変わりないし)

 パウラはここ数日、ヒロインにはバレないよう、彼女の家を見張っていた。

(それにしても、流石ヒロイン。こんな田舎では可愛すぎて目立つから、捜すのに苦労しなくてすんだわ……)

 魔王ルートは難易度が高いのだが、それには理由がある。
「始まりの場所」であるこの地区の闇化では、ヒロインの活躍により死傷者は出ない。
 しかし、それは表面上のもので、闇化が直接の原因となった訳ではないものの、本当は死者が一人出てしまうのだ。その人物こそがヒロインの弟である。
 間接的にとはいえ、弟を死に追いやった魔王。その存在に向き合っていくことはともかく、恋愛感情を抱くことにヒロインは酷い罪悪感を抱くようになる。彼女が自分の気持ちを受け入れるまでの道のりが、魔王ルートにおける最大の難所だった。

(ともかく、私の目的はふたつ。上手くいけば、世界平和に繋がるはずだし)

 本来であればこの地にいるはずもないパウラの目的はふたつ。
 ひとつは、闇化する土壌の瘴気しょうきを浴びることだ。瘴気しょうきを浴びた人間は死ぬことはないがその他明らかになっていないことも多いため、第一王子の婚約者候補から退くことはできるだろう。
 そしてもうひとつは、ヒロインの弟の命を救うことである。彼を助けられれば、魔王ルートの攻略難易度は格段に下がるだろうし、それはパウラが破滅を免れ生き残った場合の世界平和のためにも有益なことであるはずだった。
 パウラに付き従う護衛騎士達は、パウラに何を尋ねることもなくただ傍に控えていて、こんな小さな子供に振り回されているにもかかわらず文句のひとつも言わない。初日に「どちらへ行かれるのですか?」と聞かれ、パウラが言葉を濁して以来、彼等は空気を読んだのか何も聞かずに付き従ってくれているのだ。
 パウラにとって二人のそんな態度は、ただただ有り難かった。
 そして、恐らくパウラがヒロインの家の誰かを気にしていることにはもうとっくに気付いていて、定位置につくとパウラが疲れないよう、折り畳み椅子や日傘を差してくれていた。

(あら、今日は一人じゃないわ。……あれが弟さんかしら?)

「行ってきまーす」と普段通りの元気な声が聞こえた後、扉から出て来たのは大きな籠を持ったヒロインだった。そこまではいつも通りだったが、今日は、ヒロインの腰までしか身長のない小さな男の子がその後ろをとことこと付いてきている。恐らく、ヒロインの弟だ。

(もしかして、今日かもしれない)

 パウラが緊張に身を固くしながらヒロインの後を付けようとすると、護衛騎士の一人が「パウラ様」と言って前の通りを指さした。

(……あら?)

 パウラが彼と共に思わず身を隠すと、砂でならされた通りに砂埃すなぼこりが舞った。馬が駆けていったのだ。
 パウラ達の目の前を通り過ぎ、ヒロインの家の前で止まった一行。その中心にいるのは、一人の少年だった。色素の薄い水色の短い髪に、濃い青色の瞳をしたその少年を目にした瞬間、パウラの胸がどくんと一際大きな音を立てる。

(もしかして……オレゲール、様……?)

 全ての攻略対象者の幼少期の姿絵は公開されていないが、パウラにはその少年がオレゲールだと直ぐにわかった。
 目の下の隈も、疲れた様子もまだ見受けらない、ヒロインと同じく容姿が突出して優れていることを除けば年相応の、落ち着いた印象の少年である。

(オレゲール様が、何故ヒロインの家に?)

 うるさく鳴り響く心臓の音を聞きながら、パウラはことの成り行きを見守る。
 オレゲールはヒロインの家の扉をドンドンと叩きながら叫んだ。

「誰かいるか? 闇化の兆候がこの辺り一帯で見受けられる! 今直ぐ第三避難ひなん所へ向かうように!」

 慌ててヒロインの家の扉が開き、開いた扉で丁度見えなかったが、中から出て来た誰かとオレゲールが話しているのがわかった。

「……わかった、とにかく子供達は私が捜そう。今直ぐ貴方方は避難ひなんするように」

 オレゲールはそう告げると、周りを固めている大人達に何かを指示する。

(なるほど……ここテーレボーデン地区で死傷者が出なかったというのは、ヒロインの活躍だけでなくて、オレゲール様が直ぐに予兆に気付いて避難ひなんを始めていたからなのね)

 子供達が無事に帰宅するまで避難ひなんしないと言うヒロインの両親に対し、オレゲールやその周りの大人達が説得している隙に、パウラはその場をそっと後にする。

(少年時代の、オレゲール様を見てしまった……!)

 心臓はまだバクバクと高鳴っているし、目にはその姿が焼き付いていたが、それを振り切るようにパウラは頭を振った。

「パウラ様、相方が向かったのはこちらです」
「ありがとう」
(ヒロイン達を見失っては大変……早く付いて行かなくては……)

 優秀な護衛騎士達は、パウラが指示していないにもかかわらず二手に分かれていた。ヒロイン達の後を追った護衛騎士の付けた目印を辿り、もう一人の護衛騎士がパウラを誘導してくれる。
 そして辿り着いたのは濃霧のうむが発生した森で、それは辛気臭く、そして暗かった。

「パウラ様、もう戻りましょう。あの少……貴族の方が言っていたように、本当にこの地で闇化が起こるのでしょう。この濃霧のうむは普通のものではありません」
「あの二人を助けたら戻りましょう。闇化するかもしれないと知らないのだから、誰かが伝えないと。それに貴方の相方を置いては帰れないわ」

 護衛騎士の進言に胸を痛めながらも反論し、振り切って先へ進む。
 しかし、確かに無理は禁物だった。ヒロインの弟を助けるためだからといって、別荘までついて来てくれた護衛騎士達を死なせる訳にはいかない。手遅れになる前に追いつければいいのだが。

「パウラ様、あちらにおりますね。やっと追いついたようです」

 そうして辿り着いた先。

「姉ちゃんはここで待ってて! 母ちゃん達を呼んでくるから!」
「待って! 駄目、危ないから戻って!」

 足をくじいたらしいヒロインを置いて、ヒロインの弟が濃い霧の中へ走り去って行く。

「あの先は崖なの。お願い、あの男の子を助けてあげて!」

 パウラがそうお願いすると、護衛騎士達は逡巡しゅんじゅんしたものの、直ぐに一人が追い掛けていった。
 子どもの足ならば、崖まではまだ距離がある。なんとか間に合うに違いない。パウラは祈りながら、もう一人の護衛騎士と草むらに潜んで帰りを待つことにした。

「待って! お願い、そっちに行っちゃ駄目! 戻って来て……!」

 泣き叫ぶヒロインの悲痛な声が聞こえてきて、胸が締め付けられる。けれども、まだヒロインの前に姿を現す訳にはいかない。
 ヒロインの能力の開花と、それを見る魔王の図が完成する前に干渉してはいけないのだ。
 ぐっと堪えていると、やがて白かった霧が変色し、黒い色へと変化していく。

(これが瘴気しょうきね……いよいよ魔王の出番……? 多分、近くにいるのに……どこかしら?)

 弟を助けようとしたのが問題だったのか。ストーリーに干渉するのは間違いだったのだろうか。ヒロインの能力の開花も魔王の姿もどちらも見えず、パウラが焦燥感に襲われた時だった。

「うっ……」

 隣にいた護衛騎士が倒れた音がし、パウラは慌ててそちらを見る。

「あっ……」

 座り込んだパウラの目の前に、黒い濃霧のうむをその身に纏わせた魔王が、仁王立ちしていた。

「なんだお前達……こんなところで何している? 死にたいのか?」
(目を合わせただけで、心が凍ってしまいそう……)

 パウラは極力ゆっくりとした動きで、首を振った。
 ヒロインに興味を持つまで、魔王は人間全てを憎んでいた。当然パウラのことなど虫けら程度にしか考えておらず、魔塔に入る能力すら持ち合わせていないパウラをどうにかするなんて簡単なことだろう。
 けれどもパウラは、魔王は理由もなく人間を殺さないはずだと考えていた。
 魔王という立ち位置であっても乙女ゲームの攻略対象者なのだから、行動原理はわかりやすく、尚且つプレイヤーに配慮はいりょされたものであるはずだ。無益な殺生せっしょうをするキャラなんて、プレイヤーの好感度が下がる一方に違いない。現に一応、闇化を広げようとする魔王の行動には、プレイヤーも納得できるような理由付けがされている。
 そしてやはり、魔王はパウラを威嚇いかくし、警戒しつつも傷つけるような動きは見せなかった。目の前に倒れている護衛騎士も気を失っているだけのようで安堵あんどする。

(ヒロインより先に、私を見つけてしまうなんて……)

 予定外の出来事であったが、魔王の警戒を解くためにパウラは歯を食いしばりながらフードを取り外して顔を晒す。

「女……?」

 魔王が訝し気な表情を浮かべながら首を傾げた時、パウラは魔王を刺激しない速度でゆっくりと片手を持ち上げ、ヒロインを指さした。

「な……っ!?」

 パウラの示した方向を、最初はつまらなそうな目で見た魔王だったが、その先のヒロインと、ヒロインの周りの空気から浄化が始まっていくのを目撃して、目を見張る。

(良かった……ぎりぎり間に合ったわ……)

 食い入るようにヒロインを見つめる魔王の瞳に浮かぶのは明らかに好奇心である。そのことを確認したパウラは、ホッと息を吐いた。
 重苦しかった周りの空気が、清浄なものへじわじわと変えられていく。
 ひとときヒロインに目を奪われていた魔王だったが、再びパウラに視線を戻した。

「……で? お前は何者だ?」
「私は……ただの通りすがりです」

 は、と鼻でわらう魔王に、「けれども」と続ける。

「貴方の敵では、ございません」
「へぇ……俺の正体をわかっていて、そう言うのか?」

 魔王は爪を長く鋭い物に変化させ、パウラの首筋に当てた。パウラの背中に冷や汗が流れる。失敗したのかもしれないと思いつつ、もう後には引けないパウラは頷く。

「はい。信じられないのであれば……今後、見張りを私に付けて頂いても構いません」
「俺としては、このまま殺した方が楽なんだがな?」

 パウラは必死に、勝手に震えそうになる身体を両手で押さえながら言葉を紡ぐ。魔王と対面する予定は流石になかった。

「……それも、一理あるとは思いますが……今後、もしかすると利用価値があるかもしれませんよね? 人間の中で、一人くらいそうした存在がいても、問題ないのではないでしょうか?」

 パウラは無力である。魔王も、そんなことにはとっくに気付いているだろう。殺そうと思えばいつでも殺めることができる存在が、見張りまで付けてもいいと言うのだ。見逃してくれと祈る。

「……覚えておけ。余計なことを一言でも漏らせば、その命はない」
「……はい、わかりました」
(なんとか、命は繋げたかしら……?)

 パウラがそう思った時、にわかに辺りが騒がしくなった。
 魔王が舌打ちをして、その場から姿を消したのが気配でわかる。
 どっと冷や汗が流れ、パウラの全身がガタガタと震え出した。理性で抑え込んでいた恐怖という本能が暴れ出す。

「オレゲール様! あちらの子供ではないでしょうか?」
「ああ、こちらにも人が倒れているな、誰か来てくれ」
(……オレゲール、様?)

 パウラが振り向くと、オレゲールはヒロインの方を指さしながら何か指示しているところだった。彼女が浄化していることにも気付いたに違いない。気を失ったヒロインの弟とパウラの護衛騎士も周囲の人々が保護してくれているようだ。
 その時、オレゲールは人の視線に気付いたのか、ふとパウラのいる方を見た。先ほどは一方的に見るだけだった濃い青色の瞳と、視線が交わった気がした。

「大丈夫ですか?」

 まだ若いオレゲールに声を掛けられ、心が震える。口を開こうとしても、先ほどの恐怖からか何も発することはできなかった。

(私のことなんて……)

 放っておいていいのに。それより、ヒロインの方がずっと大事なはずなのに。
 パウラはそう思いながら、その場で意識を失った。


「パウラ様……! 大丈夫ですか? 私がわかりますか?」

 パウラが目を覚ますと、ずっと付きっきりで看てくれたらしい乳母うばが目に涙を溜めてそう言った。

「……」

 乳母うば、とパウラは言ったつもりだった。心配かけてごめんなさいと。


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