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乃木坂、青山、赤坂、日暮里。
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「私の責任です。責任をとって辞めます」
部下の転職に赤坂は腹の底から悔しさを滲ませ拳を握りした。
めんどうを見ていた部下が水面下で動いていたことに気づいていれば、逸材をむざむざ逃すことはなかったのに、と彼女は自分を責た。
そうか、と言えるはずはなかった。
赤坂の発言は責任感の強さによるものだということはわかっている。そして仕事もできる。でなければ、30を前にして彼女をマネジメント職に就かせはしなかっただろう。
「だめ」
「でも」
いったん口火を切ったのだ。ここで引いては女がすたる。おいそれと「わかりました」と言ってくれるとは思わなかった。
「でもなんだ」
「私のミスですから」
言ったそばから、俯いた顔から床に広がるほど大粒の涙が落ちた。
あれ? なんで泣いちゃうんだろう?
聞こえるか聞こえない声で、赤坂が自問した。
いつもの赤坂なら、昂った緊張が要らぬ想像を引き出したからです、と分析するところだった。それができないということは、それだけ決意が固いということだろう。
彼女の心中には、これまでやってきた仕事の辛さ、乗り越えたときの歓喜、そうしたものが渦を巻いているに違いなかった。
彼女には、こんな誉め言葉がよく似合う。
企画を愉快に悩める人材のベスト1。そんな人材、赤坂以外に見あたらない。それだけ仕事を前のめりで楽しみながらやってきたのだ。
その彼女が辞職するということは、これまでの濃厚で大事にしてきた時間を捨ててしまうことになる。これから待ち受ける仕事の辛労辛苦を楽しめなくなる。
そんな理不尽、彼女はこれまで一度だって考えたことはあるまいに。
だからこそ、部下に浴びせられた冷水が青天の霹靂ほどに膨張し、愕然とし顎と肩を落とし、涙を流した。
「だめだよ。それは許さない」
は?
俯いていた顔を、赤坂はやっと上げた。
「どうしてですか?」
目が腫れていた。
少しの時間しか泣いていないのに瞼がぼわっと腫れたのは、涙のひと粒がよほど重かったからに違いない。
「部下のめんどうを見ることだけがキミの仕事じゃないからだよ」
どういうことですか? と刺す眼差しのまま傾げた首が訊いてきた。
赤坂は同期連中の中でも飛びぬけて優秀だった。メンズ・ウエアの知識もあったし、センスも備えている。思慮も深く的を射た意見を考えた先に口にする。
同期の男連中も一目置くほど、彼女は踏ん張って仕事をしていた。
その裏で、たゆまぬ努力のあとが垣間見れることもあった。
他社の情報を集め、流行を追い、社会人になることで交流の幅が広がる多層年齢の攻略までもつかみ取ろうとしていた。
入社面接での彼女の発言を、面接官だった私はよく覚えていた。
「女性だからといって、ひいき目はいっさいなしでお願いします。その代わり、成果とスキルは認めていただきたいんです」
男勝り、と言えばパワハラになってしまうが、男女評価均等法なるものがあれば、真っ先に飛びつきそうな勢いがあったことを今でもよく覚えている。
女だからといって、差別されたくない。
そうした思いはきっとある。
なにがそうさせたのかはわからない。
そのように思い込まざるを得ないなにかが過去に起こったのかもしれない。
部の飲み会で「男女平等という言い方には、ジェンダーを意識したいやらしさがあると思いませんか?」なんて詰め寄られたこともあったっけ。
「なにをもってそんなことを訊く?」
そう返したら赤坂、口ごもってしまったけれども。
言えない事情があることだけはわかった。
深くは詮索しまい。
個人的思いは、個々人が胸にしまっておけばいいだけの話だ。会社はプライベートな領域まで介入すべきではない。
「赤坂の仕事は、マネージャーとしてシマをまとめることだ。確かに青山が欠員すれば戦力は落ちるだろう。だけど、まかなえないわけではない。
欠けた人員はすぐに補充する。
青山がいなくなるまで3か月。遅くとも2か月後にはどうにかする。
そうすれば引継ぎ、間に合うだろう。
補充人員には、それなりに意地もあるはずだ。青山とは違った個性を発揮して、助けられないとも限らない。
赤坂はそのときのために、少しでも早く確実に引継ぎができるよう、準備をしておいてくれ」
私は赤坂の気の流れを、マイナス指向の退職から、プラス思考の立て直しに向け直そうと試みた。
「はい」
わかってくれたようだった。
あれから3か月後、赤坂は新しく入ってきた乃木坂とうまく仕事をこなしている。
赤坂に青山に乃木坂。なんでまたこうもブティックの似合いそうな町名と同名のやつらが集まってくるのか、私は滑稽に思いながらも不思議に思うことがたまにあった。
私にしたって、この会社に入社してまだ8年。赤坂が入社する前年に中途で入ったくらいで、社歴は長いとは言えない。細かい作法や嗜好はまだ理解しきってはいない。
私の話をすれば、転職の理由はあった。企画力と営業力が他社と比べて格段に高いことに興味をそそられたのだ。
それでいて、社内環境も悪くない。人間関係面では高評価を得ており、どれだけネットを探しても、悪い評価を見つけたことはなかった。
乃木坂が入社してきて少し経ったころ、人事部長に呼ばれて社内交流制度を利用したいスタッフがいるので受け入れてもらえないかと打診された。
いい機会だから、ネオン街で一献、どうかね? と誘われた。募る話があるやもしれぬし、となにやら含みがある。
夜の席の口実なのかもしれないが、ふだんから深い交流があるわけではない部署のお偉さんとの話である。こちらとしても、ウェルカムの申し入れだった。
ふたつ返事で「もちろんです」。
話は順調に進んだ。
どうやらうちの部は、他部署から多かれ少なかれ、羨望の目で見られているらしい。誇らしいことである。
しかも異動を希望する女子は、赤坂の元で働きたいと名指しできたという。
そう言ってもらえると、私としても鼻が高い。
「どんなところが彼女の琴線にふれたんでしょうね?」
率直に訊いてみた。
「男女評価平等制度を作るのに、もっとも適していると思って、と彼女は言っていたよ」
なるほど。今のトレンドは女尊男尊。少なからず赤坂とはなんらかの方法で交流があったことがなんとなくわかった。
「そうでしたか。わかりました」
そう言うと、受け入れを快諾した私に、部長は彼女の履歴書をカバンから取り出し、私に差し出した。
クリア・ファイルから履歴書を取り出すと、シュッと切れ味のよさそうな音がした。それはどこか、鮮度が高く意欲にあふれた新人の空気感と似通ったところがあった。
年齢は赤坂の2つ下。
待遇としては、新人・乃木坂の上にあたるのか。
まあ、それはいい。
名前は、と。
阿佐部、と書いてある。
「アサベ、ですか。アサベ マキ」
「それでアサブと読むんだよ」
アサブ? → 麻布?
「アザブと読み違えてしまいそうですね」
私は思わず滑稽をこぼしてしまった。
すると部長、真顔でこう言ったのだった。
「営業部隊は、名前が大事なんだよ。日暮君。社長の方針でね。表立って謳ってはいないが、相手に与える印象が違う」
私の顔から笑みが凍って零れ落ちた。
私は、日暮 慧とかいて、ひぐれ さとし と読む。
ひぐれさと → 日暮里 → にっぽり?
「まさか」
「なんだね、今の今まで知らなかったのかね。君の入社は社長が鳴いたからさ。鶴のひと声」
今度は私が会社を辞めたくなってしまった。
部下の転職に赤坂は腹の底から悔しさを滲ませ拳を握りした。
めんどうを見ていた部下が水面下で動いていたことに気づいていれば、逸材をむざむざ逃すことはなかったのに、と彼女は自分を責た。
そうか、と言えるはずはなかった。
赤坂の発言は責任感の強さによるものだということはわかっている。そして仕事もできる。でなければ、30を前にして彼女をマネジメント職に就かせはしなかっただろう。
「だめ」
「でも」
いったん口火を切ったのだ。ここで引いては女がすたる。おいそれと「わかりました」と言ってくれるとは思わなかった。
「でもなんだ」
「私のミスですから」
言ったそばから、俯いた顔から床に広がるほど大粒の涙が落ちた。
あれ? なんで泣いちゃうんだろう?
聞こえるか聞こえない声で、赤坂が自問した。
いつもの赤坂なら、昂った緊張が要らぬ想像を引き出したからです、と分析するところだった。それができないということは、それだけ決意が固いということだろう。
彼女の心中には、これまでやってきた仕事の辛さ、乗り越えたときの歓喜、そうしたものが渦を巻いているに違いなかった。
彼女には、こんな誉め言葉がよく似合う。
企画を愉快に悩める人材のベスト1。そんな人材、赤坂以外に見あたらない。それだけ仕事を前のめりで楽しみながらやってきたのだ。
その彼女が辞職するということは、これまでの濃厚で大事にしてきた時間を捨ててしまうことになる。これから待ち受ける仕事の辛労辛苦を楽しめなくなる。
そんな理不尽、彼女はこれまで一度だって考えたことはあるまいに。
だからこそ、部下に浴びせられた冷水が青天の霹靂ほどに膨張し、愕然とし顎と肩を落とし、涙を流した。
「だめだよ。それは許さない」
は?
俯いていた顔を、赤坂はやっと上げた。
「どうしてですか?」
目が腫れていた。
少しの時間しか泣いていないのに瞼がぼわっと腫れたのは、涙のひと粒がよほど重かったからに違いない。
「部下のめんどうを見ることだけがキミの仕事じゃないからだよ」
どういうことですか? と刺す眼差しのまま傾げた首が訊いてきた。
赤坂は同期連中の中でも飛びぬけて優秀だった。メンズ・ウエアの知識もあったし、センスも備えている。思慮も深く的を射た意見を考えた先に口にする。
同期の男連中も一目置くほど、彼女は踏ん張って仕事をしていた。
その裏で、たゆまぬ努力のあとが垣間見れることもあった。
他社の情報を集め、流行を追い、社会人になることで交流の幅が広がる多層年齢の攻略までもつかみ取ろうとしていた。
入社面接での彼女の発言を、面接官だった私はよく覚えていた。
「女性だからといって、ひいき目はいっさいなしでお願いします。その代わり、成果とスキルは認めていただきたいんです」
男勝り、と言えばパワハラになってしまうが、男女評価均等法なるものがあれば、真っ先に飛びつきそうな勢いがあったことを今でもよく覚えている。
女だからといって、差別されたくない。
そうした思いはきっとある。
なにがそうさせたのかはわからない。
そのように思い込まざるを得ないなにかが過去に起こったのかもしれない。
部の飲み会で「男女平等という言い方には、ジェンダーを意識したいやらしさがあると思いませんか?」なんて詰め寄られたこともあったっけ。
「なにをもってそんなことを訊く?」
そう返したら赤坂、口ごもってしまったけれども。
言えない事情があることだけはわかった。
深くは詮索しまい。
個人的思いは、個々人が胸にしまっておけばいいだけの話だ。会社はプライベートな領域まで介入すべきではない。
「赤坂の仕事は、マネージャーとしてシマをまとめることだ。確かに青山が欠員すれば戦力は落ちるだろう。だけど、まかなえないわけではない。
欠けた人員はすぐに補充する。
青山がいなくなるまで3か月。遅くとも2か月後にはどうにかする。
そうすれば引継ぎ、間に合うだろう。
補充人員には、それなりに意地もあるはずだ。青山とは違った個性を発揮して、助けられないとも限らない。
赤坂はそのときのために、少しでも早く確実に引継ぎができるよう、準備をしておいてくれ」
私は赤坂の気の流れを、マイナス指向の退職から、プラス思考の立て直しに向け直そうと試みた。
「はい」
わかってくれたようだった。
あれから3か月後、赤坂は新しく入ってきた乃木坂とうまく仕事をこなしている。
赤坂に青山に乃木坂。なんでまたこうもブティックの似合いそうな町名と同名のやつらが集まってくるのか、私は滑稽に思いながらも不思議に思うことがたまにあった。
私にしたって、この会社に入社してまだ8年。赤坂が入社する前年に中途で入ったくらいで、社歴は長いとは言えない。細かい作法や嗜好はまだ理解しきってはいない。
私の話をすれば、転職の理由はあった。企画力と営業力が他社と比べて格段に高いことに興味をそそられたのだ。
それでいて、社内環境も悪くない。人間関係面では高評価を得ており、どれだけネットを探しても、悪い評価を見つけたことはなかった。
乃木坂が入社してきて少し経ったころ、人事部長に呼ばれて社内交流制度を利用したいスタッフがいるので受け入れてもらえないかと打診された。
いい機会だから、ネオン街で一献、どうかね? と誘われた。募る話があるやもしれぬし、となにやら含みがある。
夜の席の口実なのかもしれないが、ふだんから深い交流があるわけではない部署のお偉さんとの話である。こちらとしても、ウェルカムの申し入れだった。
ふたつ返事で「もちろんです」。
話は順調に進んだ。
どうやらうちの部は、他部署から多かれ少なかれ、羨望の目で見られているらしい。誇らしいことである。
しかも異動を希望する女子は、赤坂の元で働きたいと名指しできたという。
そう言ってもらえると、私としても鼻が高い。
「どんなところが彼女の琴線にふれたんでしょうね?」
率直に訊いてみた。
「男女評価平等制度を作るのに、もっとも適していると思って、と彼女は言っていたよ」
なるほど。今のトレンドは女尊男尊。少なからず赤坂とはなんらかの方法で交流があったことがなんとなくわかった。
「そうでしたか。わかりました」
そう言うと、受け入れを快諾した私に、部長は彼女の履歴書をカバンから取り出し、私に差し出した。
クリア・ファイルから履歴書を取り出すと、シュッと切れ味のよさそうな音がした。それはどこか、鮮度が高く意欲にあふれた新人の空気感と似通ったところがあった。
年齢は赤坂の2つ下。
待遇としては、新人・乃木坂の上にあたるのか。
まあ、それはいい。
名前は、と。
阿佐部、と書いてある。
「アサベ、ですか。アサベ マキ」
「それでアサブと読むんだよ」
アサブ? → 麻布?
「アザブと読み違えてしまいそうですね」
私は思わず滑稽をこぼしてしまった。
すると部長、真顔でこう言ったのだった。
「営業部隊は、名前が大事なんだよ。日暮君。社長の方針でね。表立って謳ってはいないが、相手に与える印象が違う」
私の顔から笑みが凍って零れ落ちた。
私は、日暮 慧とかいて、ひぐれ さとし と読む。
ひぐれさと → 日暮里 → にっぽり?
「まさか」
「なんだね、今の今まで知らなかったのかね。君の入社は社長が鳴いたからさ。鶴のひと声」
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