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 フィリップがマリアに対し、明らかな拒絶を突きつけてから数時間、フィリップは半地下の私の部屋から動こうとはしなかった。今は使用人が客室を私用に整えている真っ最中。
 妹と父は来賓の相手をするため食堂へ戻っていたから、部屋に残ったのは私と彼だけになってしまった。

「君の家はなぜこのような状況に……一体いつから……いや、今はいい」

 腕を組みながら粗末な壁に寄りかかるフィリップは、絵になるほどかっこいいなあ、なんて思っている私はちょっと緊張感がないかもしれない。

「そうだ、ひとつ確認をさせてもらいたいんだが」
「は、はい!」
 壁に寄りかかっていた彼がこちらに近づいてきた! 私も立ち上がった方がいいのかな? と思って立ち上がろうとしたら、彼に手で制された。

「そのままでいい。その……君は、ファイネン伯から話は聞いているか?」
「話……ですか?」
 妹との話だろうか。フィリップは上げて落とすプロか。などとショックを受けていると、使用人が準備完了を告げにやってきた。


 フィリップは使用人のその言葉だけでは信用できなかったらしい。実際に用意された部屋と、私がそこに案内されたことを確認して、ようやく、納得したような顔をした。
 客間に、客人して座るのは本当に久しぶりだ。柔らかいソファーも、やわらかな花の香りも私好みだ。この部屋を用意した使用人は、私の趣向を覚えていたのかな?
 綺麗な部屋の中を、少しの間ぼーっとして見ていたけど、そそがれる視線にフィリップを振り返る。

「行かなくて、いいの?」
「え? あ、いや」
 部屋の準備は完了して、問題は解決したと思っていたのにフィリップは客間を後にしない。まだ何か問題あるかな?

 まだメイド服姿ではあるけど正餐会が終わったらその片付けもしないといけないだろうし、着替えることはできない。

「私は大丈夫。フィリップが行かないと、また妹が騒ぐかもしれないから」

 フィリップはまだ何かを気にしているようだったけど、私の言葉にも一理あったようで、そのまま食堂に向かってくれた。フィリップがいなくなってから、使用人の誰かが怒鳴り込んでくるんじゃないかと思ってたけど、そんなことはなかった。

 給仕はしなくて大丈夫かな? でも、あの公爵家の嫡男のことを思い出すと憂鬱だ。はっきり言って戻りたくない。
 フィリップの騎士道は素晴らしい。公爵家の嫡男相手にも、彼は物申すかもしれない。彼の立場が悪くなるようなことは、私も望むところじゃない。
 使用人が戻ってくるかもしれないと思って、しばらく待機はしていた。結局使用人が戻ってきたのは数時間後で、給仕は全て終わり片付けも終わったらしいので、私はこのままこの部屋で眠っていい、ということになった。

 フィリップが何かした。いや、してくれた、と考えていいのかな? 眠る前にもう1度彼と話がしたい。はしたない願いだろうか。散々迷って、結局、やめた。こんなに早い時間に眠って良いと言われたのは久し振りだ。明日からは、いつも通りの日常に戻ってしまうかもしれない。お言葉に甘えて、早く寝てしまおう。


 久し振りの温かく柔らかな布団の感触に日頃の疲れも相まって、私はすぐに眠りについた。眠りにつく瞬間まで、私はとても幸せな気持ちに満たされていた。
 久しぶりに会ったフィリップが、あの頃のまま優しく変わっていなかったから。5年間、騎士としてどんな鍛錬を積んだんだろう?
 頼もしく、温かい彼。妹が羨ましすぎて泣きそう。
 妹の方が優遇されてきたことなんて沢山あった。なのに、こんなに、つらいと思ったことなかった。


 つかの間の平穏な眠りが妨げられたことに気づいたのは、眠りに落ちてから数時間後だった。目に入る位置に時計がないから時間は分からないけど……え? なに?

 体に違和感を覚える。

 体の上にが乗ってる?! 重い何かが体を押さえつけてる?!
「はぁ……はぁ……」
 なにッ?! 息遣い?! いやッ! なに?!

 他人の体温まで感じて、私は慌てて目を開いた!
 ……なんでどうしてこんなことになっているの?! 気づいたら目の前にあの男がいる。布団の下に、あの、気色の悪いあの公爵家の嫡男が!

「い、いや!」
 逃げようともがくけど、体が動かない! あの男に取り押さえられている! いや、怖い! 怖い、怖い! 目から涙が溢れる。
「逆らうなよ……俺が誰だか分かってンだろ?」
 下品な言葉と、荒い息づかいが直ぐ傍から聞こえる! 彼が何かを話す度に、顔に息がかかる! いやッ怖いッ!
 あの男が、体の上に体重を乗せてきて息が苦しい。体が動かない! 夜着の上から、男の気持ち悪い指の感触が肌に伝わってくる!

「いやあっ! いや、だ、誰か! 誰か助け――むぅッ!」
 悲鳴をあげても誰も来ない。大きな声を上げようとして、手で口を塞がれる。いやだ、いや、いやッ、触らないで!
 夜着の薄い布地の隙間から、あの男の手が滑り込んでくる!

「むううっ! ふぐぅ! んんんーっ!!!」

 どんなに暴れても男は離れない!

 私は……このまましまうの?!
 あの人が同じ屋敷内にいるのに。同じ屋根の下にいるのに。私はこんなことになってしまんだ。妹はあの人と幸せになるのだろう。聖女とたたえられて、あがめられて、素敵なあの人と結婚して、幸せな生活を送るんだ。

 嫌だ。
 なんで私ばかりがこんな目に。
 なんでこんな目にあわなければならないの?!

 男がゆっくりと覆いかぶさり、私の胸に男が顔を埋める。首筋に気色の悪い息がかかる。
 こんな男に好きにされるくらいなら――!

 舌の上にそっと歯をのせる。そのまま、強く噛み切る――直前、ドアが大きな音を立てて開いた。音と光が同時に室内に満ちる。気づけば私の体の上の重みは完全になくなっていて、光の下に手を引いて連れ出された。

 フィリップ? どうして、彼が、ここに?

 分からない。でも、もうどうでもいい!
 あの地獄から、私を助けてくれたのは彼だ。彼のこの手を離したら、また、あの気色の悪い闇に戻らなければならない。いやだ。
 そんなのはいや。もう、いやだ。

「大丈夫だ。落ち着け、もう大丈夫だから」

 彼の穏やかで優しい声が聞こえる。
 嬉しい。温かく、強く、落ち着く、私を守ってくれる腕が、体を包み込んでいる。どうして、どうしてこの人なんだろう? どうして、この人以外は皆、私の敵になってしまうの?

 ドア付近に冷たく私を見下ろす両親の姿があった。倒れ込んでいる父。フィリップは父を突き飛ばして室内に突入したの? どうして、そんなことになっているの?

 それじゃあまるで、まるで、私がこの中でどんな目にあっているか、分かっていたみたいだ。分かっていて、私を助けてくれなかった。どうして? 私が何をしたというの?!
 お父様、お母様!

「これは、どういうことか説明願う!」
 フィリップが怒りを顕わに父を見据える。そんなフリップに反応したのは、公爵家の嫡男。彼の顔には、フィリップに対する恐怖がありありと現れている。

「ま、待て! ぼ、僕は言われた通りに来ただけだ! 男日照りのその女が、聖女さまの婚約者を誘惑するような真似をするから、僕に相手をするようにって!」

 フィリップが信じられないといった様子で両親を振り返る。

「お恥ずかしいですわフィリップ様。何を騒いでいらっしゃいますの? 何か問題でもありまして?」
「ファイネン夫人。貴女は、今の状況を理解していないのですか?!」

 フィリップも混乱している。母がこんなことを言うなんて思ってもいなかったのだろう。彼の記憶に残っている母は、家族は、どんな姿をしていたのか。すっかり変わってしまった母を、彼は知らなかったのかもしれない。


「あら皆様、どうしたの? こんなところで。まあ! フィリップ様も!」

 空気を壊すような声で妹が現れた。何がそんなに楽しいの? まるでピクニックにでも来たかのような軽やかな足取りに、ピンク色の柔らかな夜着姿で。

「何かあったの? こんな時間に騒ぎを起こすなんて、怖いわ?」

 恐怖を知らないような顔で妹は笑う。
 今まで人形のように無表情に自分を見下ろしていた両親が妹を振り返り、その身を案じる言葉を彼女に浴びせかける。今まで私を気色の悪い目で見ていた例の嫡男も。

 3人は感情を失ったような目で、妹への賛辞を繰り返している。3体の人形からの賛辞を一身に受けながら、妹はフィリップへ一心不乱に愛情を注ぐように視線を注いでいる。
 本当に愛情を注いでいるのかもしれない。妹にとって彼は本当に特別なのかもしれない。近づいてくる妹に恐怖すら感じる。妹から逃げたくて、反射的に彼にすがりついていた手を離そうとして、逆に彼に手を取られた。

 腕を取られたまま、私はこの手を強く振りほどくこともできない。私を守ってくれる強い彼にすがりたい。この怖い世界から連れ出して欲しい。でも、それを彼に望んでいいの?
 優しい彼はきっと連れ出してくれる。私が望んでいると分かれば。だって、今がそうだ。私がこの客間にいるのだって、彼があの半地下の空間から連れ出してくれたからだし、あの男から助けてくれたのも彼。だからって、フィリップが私の味方とも限らない? だって彼は妹の婚約者だから。そう、思っていたのに。

 フィリップが妹に向け剣を構えた!

 彼のその行動に動揺したのは、私だけだった。フィリップもそれなりに覚悟を決めて対峙しているのに、妹を始め、彼女を賛美している3人には何の変化もない。
 仮にも聖女と認められた者に対し、彼は剣を向けているのに。

「どうしたの? フィリップ様」
 異常なのは妹も同じだ。
 彼がこれほど明確に敵意を示しているのに、まるで意に介していない。対峙しているのは曲がりなりにも騎士団員なのに。ただの、いち令嬢である妹が、平然と彼に笑いかけている時点で異常だ。
 妹はいつからこんな状態になっていたの? 全然気づかなかった。

 普通じゃない。あれは本当に妹? 小さい頃からずっと一緒にいた私のカタワレ、本当に妹なの?!

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