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夫の相談
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こんこん……
運命が扉をたたく音がする……
『どうぞ』
あたしが言うとスーツ姿の男性が入ってきた。
営業の人かな?
どこかでみたことある……。
あたしは男性に椅子に腰かけるように薦めてから言った。
『はじめまして。相談室の那珂心音です』
『あれ? オレのこと覚えてないかな?? 山本ですよ』
あたしの中の山本さんは、以前、総務にいた時に一緒の仕事したイメージで……目の前にいる彼は今あるあたしの記憶とは全く違う感じに見えたのでよく分からなかったのだ。
そういうことがよくある。
言い訳させてもらうならば……久しぶりに会う山本さんは少しやせていて、顔つきも若干やつれているように見えたからあたしはすぐに山本さんであることが分からなかったのである。
野球をやっていただけあって身体も大きい山本さんだが、気持ちが優しく口数もあまり多くないらしい。もちろん仕事のときには営業という職業柄、多く話すのだろうけど……。
あたしと以前に仕事をしたときも、打ち解けるまでにすこしの間、時間が必要だった。
そういえば……。
後になって分かったのだが、あたしが総務にいた頃、杏奈と結婚観について話をしたときには彼と付き合っていたらしい。
交際は二人が営業に所属していたときから始まっていたらしく同じ職場で同じ部署に所属しているのはまずかろう、ということで折も折……上司である杉浦さんの異動にともなって、一緒に総務に異動ということになったらしい。
『あ……ご……ごめんなさい……』
『いやいや……こちらこそすみません。結婚式でのご挨拶もそこそこでしたからね』
結婚式にはあたしも出席はさせてもらったが、確かにあまり話す機会はなかった。
あの時は山本さんも杏奈も幸せそうだった……。
……というか結婚が決まって、式に至るまで杏奈ともそんなに話してはいないのだ。
結婚の準備は多忙を極めるのだから仕方ない。あたし自身、結婚式の前の数か月は嵐のような忙しさだったのを覚えている。世の女性の夢の瞬間というのは本当の話ではあるものの、この忙しさには閉口した。
『えっと……じゃあ……これは……いいですかねえ……』
あたしは差し出した名刺を所在なさげに手の中でもてあそびながら言った。
『いや……いただいときたいですよ。心音さんの名刺、けっこう好評なんですよ。』
山本さんはにこやかな表情で言った。
決してイケメンではない。古い言い方をすれば三枚目である。
体は大きいけど気は優しい感じのこういう感じの男性は安心感があっていい……とあたしは個人的には思う。
ちなみにこの名刺だが……
特段意味はない。
部署の人によっては初対面の人もいるから洒落のつもりで作ったのだ。
ちょっとかわいい動物にこちらからの『一言』を添えた名刺を訪問する人に渡している。
相談室の訪問者は思ったよりも多く、8枚一綴りの紙で作った名刺は、なんだかんだで1か月ペースで名刺がなくなる。
それで1か月ごとにデザインと『一言』を変えている。
最初の月はくまのイラストと『仲よくしてね。』だったが、次からは季節に沿ったデザインにした。
4月はお雛様で『遊びに来てね』にした。
5月は鯉のぼりで『空が気持ちいいよ』で6月はかたつむりにして『雨もたまにはいいわよ』にした。7月は海の絵で『暑くなりそう』で8月は甲子園で『熱戦に夢中です』にしてみた。
月を追うごとにあたしの個人的な趣味が反映されてきたが実はそれが好評であることはあたしの耳にもちょくちょく届いていた。
もちろんこの名刺は社内用で外では使わない。
ただ、社内では名刺をいくつかコレクションするものまでいるとのこと。
こちらの遊び心に付き合ってくれる人がいるのは嬉しい限りだ。
今は9月。
山本さんに渡した名刺には柿の絵と『美味しく食べようね』という一言が添えられている。
『今月は柿の絵なんですよ。最初はちゃんと考えてたんですけどだんだん趣味に走っちゃって……』
『そうなんですか? 心音さんは柿が好きなんですか?』
『大好きですよ。だって『美味しんぼ』では究極のお菓子って言われてるんですよ』
『へえ』
『甘さがくどくなくて……ほかのどんな甘いものよりみずみずしくて美味しいですよ。山本さんはどうですか??』
『う――ん。剥いて食べなきゃならないから少し嫌かな』
『男性には多いですよね。うちの旦那も同じこといいますよ』
『あ……でも剥いてくれたら食べます』
『やっぱり……』
思わず笑顔で鞄の中からおやつに食べようと持ってきた柿を取り出してあたしは言った。
『食べます??』
『え……いや……』
山本さんの目は少し泳いでいる。
どうもこの人は早く『相談』をしたいらしい。
男性には多いのだ。『相談』を切り出すのにためらいがない人が……。
しかし気を付けなければいけないのは、切り出すのにはためらいはなくても、本音をすべて言うことにはためらいがある場合がある。
ここで注意しなければいけないのは、本人が言っていることをどこまで信じるか……ということだが……。
『じゃあ……コーヒーだけでもどうぞ』
あたしはインスタントコーヒーを素早く入れて、相談室の電気ポットからお湯を出してコーヒーを入れた。インスタントとは言え、いい香りがする。
『ありがとうございます』
あたしの出したコーヒーを一口呑んで、山本さんは一息ついた。
『インスタントでも美味しいですね』
『そうですね。あたし、けっこうインスタントでも好きですよ』
『実はほかでもない……うちの嫁の話なんですが……』
あたしは、もう少しほかの話でなごんでから真面目な話をしたかったのだけど、山本さんはすぐに『相談』したかったらしい。
『あんちゃんの??』
『はい……どうもその……なんだかかみ合わないんですよね。嫌とかそういうのじゃないんですけど』
あたしはもう一度、山本さんの目を見た。
彼はその柔和そうな目を伏し目がちにし、あたしと目を合わせなかった。
嘘をついているか自信がないとき……人は相手と目を合わせないことがある。
『かみ合わないんですか……。まあ……夫婦ってそういうときが必ずありますよねえ……』
『ありますか?!』
山本さんは思った以上にあたしの言葉に反応した。
あたしが『夫婦ってそういう時が必ずありますからね』と言ったら山本さんはもしかしたら反応しなかったかもしれない。
『ありますよねえ……』という言い方は自分たちもあるし、たぶんほかの人たちもあるから大丈夫……というメッセージを持たせているつもりだ。
あくまで目線を同じ高さにしないと人は悩み事の本質を語りたがらないものだ。
だから反応してきた山本さんの言葉にあたしはこう答えた。
『ありますよ。うちなんか未だにかみ合わないことありますもん』
『やっぱりそうなんですよね』
『あたしも悩みましたよ。新婚の頃』
『へえ。心音さんはおとなしそうだからご主人、悩むことなんかなかったんじゃないですか?』
『そうでもないんですよ』
新婚の頃……。
あたしは吉希とよく喧嘩をした。
1年目は結婚なんかしなきゃよかったとよく思ったものだ。
よく聞く話だが、つまらないことで波長が合わなくなって新婚の夫婦は喧嘩をすることが多い。
例えば味噌汁の味の好みが違うとか、そんなことだ。
夫としてはなじみの味とは違うと言っただけなのだが妻としては一生懸命作った自分の努力を全否定されているように思ってしまうのである。
独身時代から結婚した夫婦のそんな話はよく耳にはしていたが……あたし自身『そんなことでよく喧嘩するなあ……』と軽く考えていた。
ところが結婚してみると不思議なもので、これがまたイライラするのである。自分の『普通』は他人の『普通』ではない。自分が普通だと思って生活していることは、結婚相手には異常なことであったりするから、結婚というのは難しいのだ。
『あたしもよく喧嘩しますよ。掃除のやり方とかいつお風呂に入るかとか……そんな冷静に考えればどうでもいいことで……』
あたしは心底、笑顔で言った。
慣れてみると案外、そういう違いが面白かったりするのだ。
あとで振り返ってなんであんなことで喧嘩したんだろうと思ったり、なんであんなことをこだわっていたんだろうと思ったりなんかして……。
さっきの味噌汁の話でも慣れてくれば夫は自分を全否定したいのではないことに気づくから腹も立たなくなる。むしろ夫の味の好みをお義母さんに聞いてみたりして、自分の中のレパートリーを増やしたりすることもできるので慣れてしまうと結婚生活もプラスのことが多かったりもするのだ。
『やっぱそうなんですよね』
『喧嘩してるんですか?』
『喧嘩というほどのことではないんですが……なんだかかみ合わないなと思うことが多いんです』
新婚当初から喧嘩しているとは言いづらいだろう。
ましてあたしは相談室の人間とはいえ妻の友人だ。
『かみ合いませんか……』
『はい……』
『どんなことがかみ合いませんか?』
『う――ん……そうですねえ……』
山本さんは少し考えた。
あたしはじっと山本さんの顔を見た。
相談室の勤務になって人の相談を受けている時には分かったことがある。
それは無言の時間の相手の表情をじっと観察することだ。
表情から読み取れる訴えはたくさんある。
もちろんすぐに分かるわけではない。
後になって思い出すことの方が多い。
だけど……
それは次に生かせるのだ。
彼は本気で考えている……。
確かにこういう喧嘩の類は当たり前のことが多すぎて、喧嘩しているときは熱くなるものの、喉元すぎればなんとやら……と言うやつで改めて聞かれると思いつかないことが多い。
『仕事の話とか?』
夫婦というのは共通の話題を話題に上げがちである。
うちは吉希が料理が好きだったりするので、食べ物の話題が多い。
料理の話でものすごく盛り上がって楽しい時間を過ごすこともあれば、味付けのことでケンカになることもある。
ちなみにさきほどの味噌汁の話はうちにもあった話なのだ。
共通の話題でもそれぞれの『こだわり』が違ったりすると夫婦はかみ合わないときがある。
山本さんと杏奈はきっと同じ会社でしかも同じ部署だったから、家でも仕事の話をすることが多いのかもしれない。その話の中でお互いの『こだわり』の部分でケンカになっているのかもしれないし……そうでないのかもしれない。
とにかく何か思い出すきっかけになればいい。
『そうですね……付き合っている時からなんとなく感じていたことではあるんですが仕事に対する考え方もすれ違うことが多いですね……』
新婚当初は何を話しても『なんでこんな人と結婚したんだろう。』というぐらい話がすれ違うことが多い。あたしたちも例外じゃなかった。
あたしは山本さんに『どんなことがかみあいませんか??』と聞いたが実は新婚の頃は『すべて……かみ合わない』ことが多い。
なぜか……と言われると答えに困ってしまう。
かみ合わない問題は人それぞれだから答えも人によって違うのだ。
『仕事の対する考え方も……?』
あたしは知っていてあえて突っ込んだ。
山本さんは『仕事に対する考え方も……』と言った。
それだけがかみ合わないなら『も……』とは言わないだろう。
『あ……はい……。う――ん。どこがどうとかではないんですが……』
『すべてがかみ合わないですか?』
『そう……ですね……。恥ずかしい話ですが……』
言いづらそうに山本さんは言った。
『大丈夫ですよ。どこも新婚の頃はそうなりますから、恥ずかしいことではないと思いますよ』
『え? そうなんですか??』
そう。
先ほどから何度も言っているように新婚当初に考え方がかみ合わなくなるのは普通のことだ。
だから極端な話『成田離婚』なんて言葉があるのだ。
『そうですよ。だから大丈夫です。』
『大丈夫』という言葉はなんの根拠もなくても、かけられると気持ちが落ち着く言葉だと思う。あたしはなるべくこの言葉を多用するようにしている。
柔らかな口調で『大丈夫』と言ってもらえたら、自分が何かミスをしたり、何か気まずいことをしてしまった後でも、安心して次に向えるのだ。
もし事実……大丈夫でなくても他人から『大丈夫だよ』と言ってもらえたら……もうそれだけで気持ちが楽になる。
『そうか……そうなんだ……』
山本さんは何かを噛みしめるように言った。
でも彼はきっと本音の半分もここでは話していない。
もちろん、それは仕方ないことだ。夫婦の間でのことをすべてさらけ出すというのは大変勇気がいることである。
もし、山本さんが持つ悩みがこの程度の話で解決するならそれに越したことはないし、そうでなければ何度も相談室を利用すればいい。
こんなあたしでも問題の解決に少しでも役に立てれば言うことはない。
運命が扉をたたく音がする……
『どうぞ』
あたしが言うとスーツ姿の男性が入ってきた。
営業の人かな?
どこかでみたことある……。
あたしは男性に椅子に腰かけるように薦めてから言った。
『はじめまして。相談室の那珂心音です』
『あれ? オレのこと覚えてないかな?? 山本ですよ』
あたしの中の山本さんは、以前、総務にいた時に一緒の仕事したイメージで……目の前にいる彼は今あるあたしの記憶とは全く違う感じに見えたのでよく分からなかったのだ。
そういうことがよくある。
言い訳させてもらうならば……久しぶりに会う山本さんは少しやせていて、顔つきも若干やつれているように見えたからあたしはすぐに山本さんであることが分からなかったのである。
野球をやっていただけあって身体も大きい山本さんだが、気持ちが優しく口数もあまり多くないらしい。もちろん仕事のときには営業という職業柄、多く話すのだろうけど……。
あたしと以前に仕事をしたときも、打ち解けるまでにすこしの間、時間が必要だった。
そういえば……。
後になって分かったのだが、あたしが総務にいた頃、杏奈と結婚観について話をしたときには彼と付き合っていたらしい。
交際は二人が営業に所属していたときから始まっていたらしく同じ職場で同じ部署に所属しているのはまずかろう、ということで折も折……上司である杉浦さんの異動にともなって、一緒に総務に異動ということになったらしい。
『あ……ご……ごめんなさい……』
『いやいや……こちらこそすみません。結婚式でのご挨拶もそこそこでしたからね』
結婚式にはあたしも出席はさせてもらったが、確かにあまり話す機会はなかった。
あの時は山本さんも杏奈も幸せそうだった……。
……というか結婚が決まって、式に至るまで杏奈ともそんなに話してはいないのだ。
結婚の準備は多忙を極めるのだから仕方ない。あたし自身、結婚式の前の数か月は嵐のような忙しさだったのを覚えている。世の女性の夢の瞬間というのは本当の話ではあるものの、この忙しさには閉口した。
『えっと……じゃあ……これは……いいですかねえ……』
あたしは差し出した名刺を所在なさげに手の中でもてあそびながら言った。
『いや……いただいときたいですよ。心音さんの名刺、けっこう好評なんですよ。』
山本さんはにこやかな表情で言った。
決してイケメンではない。古い言い方をすれば三枚目である。
体は大きいけど気は優しい感じのこういう感じの男性は安心感があっていい……とあたしは個人的には思う。
ちなみにこの名刺だが……
特段意味はない。
部署の人によっては初対面の人もいるから洒落のつもりで作ったのだ。
ちょっとかわいい動物にこちらからの『一言』を添えた名刺を訪問する人に渡している。
相談室の訪問者は思ったよりも多く、8枚一綴りの紙で作った名刺は、なんだかんだで1か月ペースで名刺がなくなる。
それで1か月ごとにデザインと『一言』を変えている。
最初の月はくまのイラストと『仲よくしてね。』だったが、次からは季節に沿ったデザインにした。
4月はお雛様で『遊びに来てね』にした。
5月は鯉のぼりで『空が気持ちいいよ』で6月はかたつむりにして『雨もたまにはいいわよ』にした。7月は海の絵で『暑くなりそう』で8月は甲子園で『熱戦に夢中です』にしてみた。
月を追うごとにあたしの個人的な趣味が反映されてきたが実はそれが好評であることはあたしの耳にもちょくちょく届いていた。
もちろんこの名刺は社内用で外では使わない。
ただ、社内では名刺をいくつかコレクションするものまでいるとのこと。
こちらの遊び心に付き合ってくれる人がいるのは嬉しい限りだ。
今は9月。
山本さんに渡した名刺には柿の絵と『美味しく食べようね』という一言が添えられている。
『今月は柿の絵なんですよ。最初はちゃんと考えてたんですけどだんだん趣味に走っちゃって……』
『そうなんですか? 心音さんは柿が好きなんですか?』
『大好きですよ。だって『美味しんぼ』では究極のお菓子って言われてるんですよ』
『へえ』
『甘さがくどくなくて……ほかのどんな甘いものよりみずみずしくて美味しいですよ。山本さんはどうですか??』
『う――ん。剥いて食べなきゃならないから少し嫌かな』
『男性には多いですよね。うちの旦那も同じこといいますよ』
『あ……でも剥いてくれたら食べます』
『やっぱり……』
思わず笑顔で鞄の中からおやつに食べようと持ってきた柿を取り出してあたしは言った。
『食べます??』
『え……いや……』
山本さんの目は少し泳いでいる。
どうもこの人は早く『相談』をしたいらしい。
男性には多いのだ。『相談』を切り出すのにためらいがない人が……。
しかし気を付けなければいけないのは、切り出すのにはためらいはなくても、本音をすべて言うことにはためらいがある場合がある。
ここで注意しなければいけないのは、本人が言っていることをどこまで信じるか……ということだが……。
『じゃあ……コーヒーだけでもどうぞ』
あたしはインスタントコーヒーを素早く入れて、相談室の電気ポットからお湯を出してコーヒーを入れた。インスタントとは言え、いい香りがする。
『ありがとうございます』
あたしの出したコーヒーを一口呑んで、山本さんは一息ついた。
『インスタントでも美味しいですね』
『そうですね。あたし、けっこうインスタントでも好きですよ』
『実はほかでもない……うちの嫁の話なんですが……』
あたしは、もう少しほかの話でなごんでから真面目な話をしたかったのだけど、山本さんはすぐに『相談』したかったらしい。
『あんちゃんの??』
『はい……どうもその……なんだかかみ合わないんですよね。嫌とかそういうのじゃないんですけど』
あたしはもう一度、山本さんの目を見た。
彼はその柔和そうな目を伏し目がちにし、あたしと目を合わせなかった。
嘘をついているか自信がないとき……人は相手と目を合わせないことがある。
『かみ合わないんですか……。まあ……夫婦ってそういうときが必ずありますよねえ……』
『ありますか?!』
山本さんは思った以上にあたしの言葉に反応した。
あたしが『夫婦ってそういう時が必ずありますからね』と言ったら山本さんはもしかしたら反応しなかったかもしれない。
『ありますよねえ……』という言い方は自分たちもあるし、たぶんほかの人たちもあるから大丈夫……というメッセージを持たせているつもりだ。
あくまで目線を同じ高さにしないと人は悩み事の本質を語りたがらないものだ。
だから反応してきた山本さんの言葉にあたしはこう答えた。
『ありますよ。うちなんか未だにかみ合わないことありますもん』
『やっぱりそうなんですよね』
『あたしも悩みましたよ。新婚の頃』
『へえ。心音さんはおとなしそうだからご主人、悩むことなんかなかったんじゃないですか?』
『そうでもないんですよ』
新婚の頃……。
あたしは吉希とよく喧嘩をした。
1年目は結婚なんかしなきゃよかったとよく思ったものだ。
よく聞く話だが、つまらないことで波長が合わなくなって新婚の夫婦は喧嘩をすることが多い。
例えば味噌汁の味の好みが違うとか、そんなことだ。
夫としてはなじみの味とは違うと言っただけなのだが妻としては一生懸命作った自分の努力を全否定されているように思ってしまうのである。
独身時代から結婚した夫婦のそんな話はよく耳にはしていたが……あたし自身『そんなことでよく喧嘩するなあ……』と軽く考えていた。
ところが結婚してみると不思議なもので、これがまたイライラするのである。自分の『普通』は他人の『普通』ではない。自分が普通だと思って生活していることは、結婚相手には異常なことであったりするから、結婚というのは難しいのだ。
『あたしもよく喧嘩しますよ。掃除のやり方とかいつお風呂に入るかとか……そんな冷静に考えればどうでもいいことで……』
あたしは心底、笑顔で言った。
慣れてみると案外、そういう違いが面白かったりするのだ。
あとで振り返ってなんであんなことで喧嘩したんだろうと思ったり、なんであんなことをこだわっていたんだろうと思ったりなんかして……。
さっきの味噌汁の話でも慣れてくれば夫は自分を全否定したいのではないことに気づくから腹も立たなくなる。むしろ夫の味の好みをお義母さんに聞いてみたりして、自分の中のレパートリーを増やしたりすることもできるので慣れてしまうと結婚生活もプラスのことが多かったりもするのだ。
『やっぱそうなんですよね』
『喧嘩してるんですか?』
『喧嘩というほどのことではないんですが……なんだかかみ合わないなと思うことが多いんです』
新婚当初から喧嘩しているとは言いづらいだろう。
ましてあたしは相談室の人間とはいえ妻の友人だ。
『かみ合いませんか……』
『はい……』
『どんなことがかみ合いませんか?』
『う――ん……そうですねえ……』
山本さんは少し考えた。
あたしはじっと山本さんの顔を見た。
相談室の勤務になって人の相談を受けている時には分かったことがある。
それは無言の時間の相手の表情をじっと観察することだ。
表情から読み取れる訴えはたくさんある。
もちろんすぐに分かるわけではない。
後になって思い出すことの方が多い。
だけど……
それは次に生かせるのだ。
彼は本気で考えている……。
確かにこういう喧嘩の類は当たり前のことが多すぎて、喧嘩しているときは熱くなるものの、喉元すぎればなんとやら……と言うやつで改めて聞かれると思いつかないことが多い。
『仕事の話とか?』
夫婦というのは共通の話題を話題に上げがちである。
うちは吉希が料理が好きだったりするので、食べ物の話題が多い。
料理の話でものすごく盛り上がって楽しい時間を過ごすこともあれば、味付けのことでケンカになることもある。
ちなみにさきほどの味噌汁の話はうちにもあった話なのだ。
共通の話題でもそれぞれの『こだわり』が違ったりすると夫婦はかみ合わないときがある。
山本さんと杏奈はきっと同じ会社でしかも同じ部署だったから、家でも仕事の話をすることが多いのかもしれない。その話の中でお互いの『こだわり』の部分でケンカになっているのかもしれないし……そうでないのかもしれない。
とにかく何か思い出すきっかけになればいい。
『そうですね……付き合っている時からなんとなく感じていたことではあるんですが仕事に対する考え方もすれ違うことが多いですね……』
新婚当初は何を話しても『なんでこんな人と結婚したんだろう。』というぐらい話がすれ違うことが多い。あたしたちも例外じゃなかった。
あたしは山本さんに『どんなことがかみあいませんか??』と聞いたが実は新婚の頃は『すべて……かみ合わない』ことが多い。
なぜか……と言われると答えに困ってしまう。
かみ合わない問題は人それぞれだから答えも人によって違うのだ。
『仕事の対する考え方も……?』
あたしは知っていてあえて突っ込んだ。
山本さんは『仕事に対する考え方も……』と言った。
それだけがかみ合わないなら『も……』とは言わないだろう。
『あ……はい……。う――ん。どこがどうとかではないんですが……』
『すべてがかみ合わないですか?』
『そう……ですね……。恥ずかしい話ですが……』
言いづらそうに山本さんは言った。
『大丈夫ですよ。どこも新婚の頃はそうなりますから、恥ずかしいことではないと思いますよ』
『え? そうなんですか??』
そう。
先ほどから何度も言っているように新婚当初に考え方がかみ合わなくなるのは普通のことだ。
だから極端な話『成田離婚』なんて言葉があるのだ。
『そうですよ。だから大丈夫です。』
『大丈夫』という言葉はなんの根拠もなくても、かけられると気持ちが落ち着く言葉だと思う。あたしはなるべくこの言葉を多用するようにしている。
柔らかな口調で『大丈夫』と言ってもらえたら、自分が何かミスをしたり、何か気まずいことをしてしまった後でも、安心して次に向えるのだ。
もし事実……大丈夫でなくても他人から『大丈夫だよ』と言ってもらえたら……もうそれだけで気持ちが楽になる。
『そうか……そうなんだ……』
山本さんは何かを噛みしめるように言った。
でも彼はきっと本音の半分もここでは話していない。
もちろん、それは仕方ないことだ。夫婦の間でのことをすべてさらけ出すというのは大変勇気がいることである。
もし、山本さんが持つ悩みがこの程度の話で解決するならそれに越したことはないし、そうでなければ何度も相談室を利用すればいい。
こんなあたしでも問題の解決に少しでも役に立てれば言うことはない。
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