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手繰った追憶でさえ
しおりを挟む「…だ、れ…」
とんでもなく恥ずかしくて屈辱的で情けない格好をしていることを一瞬忘れ、凛はよく目を凝らしました。
可憐な菫色はウゾウゾと蠢き、凛に絡みついているものと同じく触手のようなものをいくつも伸ばしています。棒状、円形、鞭のように細くしなやかなもの、パドルのようなもの、液体のように垂れているものもありました。
「誰かいるの…っきゃあああっ!」
ぶわっと体が浮き、凛は触手ごと、風のごとくその菫色の物体のそばまで運ばれていきました。犯人は言うまでもなく、凛に絡みついて離れないピンク色の触手です。
小さな親切、巨大なお世話。そんなことばを思い出しました。…そう、凛が恐れて止まない家庭教師がよく口にしていたのです。
“家庭教師”
その単語を思い出した凛の頭の中に、元の世界の出来事がスライド写真のように流れていきました。
仕事に出かけていく両親の背中、幼なじみの笑った顔、広い草原と青い空、さざめく木々や鳥の声、長閑な山々、底に沈んだ石の数を正確に数えられるほど澄んだ川。馬やヤギや、野生の動物たち。ロッジに似た自分の家。祖父が作ってくれた勉強机。転がった羽根ペン、難しい本、窓から見えるずっと向こうの海。長い竹定規、ロープ、金属の細長い棒……
澄んだ冬の空よりもきれいな凛の目に、どんどん涙が溜まっていきました。
“お前の母親はまた不味い紅茶を淹れていった”
小さな親切、巨大なお世話。凛の母親の淹れる紅茶は美味しいと、近所でも有名でした。お茶の淹れ方を習いに来る人もいるほどで、凛は自慢に思っていました。しかし家庭教師は一口も飲まないまま、吐き捨てるように言うのです。そうしてにやりと口角を上げ、じっとりと舐めるような視線を無遠慮に向けるのでした。
"俺は今気分が悪い。お前の母親のせいでな。ということで、お仕置きだよ、凛"
そのお仕置きというのは、凛をいたぶるための口実でしかないのです。凛は気が付いていましたが、どれだけ弁解しても全く聞く耳を持たず、それどころか口答えした罰だと言って、更にひどいことをされるのです。幼い凛には抵抗する術がありませんでした。
"ここは女の体の中で一番弱い部分だ。ここをベルトで叩くとどんな我儘も直る。特別に俺が躾けてやろう"
"お前はスタイルが悪い。俺が足を伸ばしてやる。さあこのロープに跨りなさい。上から吊ってやろう"
"また計算を間違えたな。頭の悪いお前にお仕置きしてやろう。ココへ上って尻を出せ"
"おもらしなんて、まるで家畜だな。お前は人間以下だ。今日から服を着ることを禁止する"
数々の凌辱された記憶が、恐ろしい速さで頭の中を駆け抜けていきました。
凛の様子が変わったことに気が付いた彼は、にやりと口角を上げました。
「そうだ…元の世界はつらいだろう。苦しいだろう。ここに居れば、お前の大好きな兄さんにも会えるんだぜ…」
くつくつと笑い出す彼に、凛ははっと目を見開きました。彼は凛の元の世界など知るすべはないのです。
「でたらめ、言わないで…」
どうにか絞り出した声はか弱く震え、自分でも情けないと思いました。でも、否定したかったのです。
──元の世界に帰るべきだ。
蓮が口を酸っぱくして言っていたのです。自分が信じているのは間違いなく蓮だと、凛は心の中で一生懸命言い聞かせました。実際、蓮はいつも正しいのです。
唇を結んだ凛の目の前に、ぼんやりと何かが浮かび上がりました。
「…え、…?」
目の前にいるのに、はっきり視認することができません。よく目を凝らそうと、数回瞬きしました。
ぬるり。菫色の触手が動きます。何本もの触手がうぞうぞ蠢いて、ぼんやりと浮かび上がる人型のようなものに群がり始めました。
「ひぃんっああっあ゛っ…ひぎっあ゛っ…あッ!!」
突然聞こえだした声に、凛は悲鳴を上げそうになりました。明らかに、あの菫色の中から聞こえているのです。
最初に見えたのは、美しい黒髪でした。
烏の濡れ羽色は降り注ぐお日様の光を全部集め、つやつやと美しく煌めいています。動くたびにひかりを揺らし、なんだかいい匂いまでしてくるようでした。
髪の毛しかはっきりと視認ないというのに、凛の目には憧れるべき大人の女性をそのまま映し出した凄艶さの中に、脆く崩れ去ってしまうような儚さを滲ませているのです。
しかし次の瞬間に、凛は恐怖から暴れ出しました。
「あひぃっッや、やぁ゛っああ゛ッひっ、はっ!!あ゛あッああ゛ぁ!ゃ、ああっっがッッ!!ぁ゛あッむ、う゛ぅう゛ぐ、ぅ゛ぅ゛ぎ、う゛ぅひ、い゛ぃあぁあ゛ッ…!」
菫色のスライムに飲み込まれた黒髪の女性が、ぐちゃぐちゃの顔で泣き喚いていたのです。
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