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しばらく無言の時間が流れましたが、凛も蓮もちっとも苦痛ではありませんでした。むしろその無言が心地良く、ウトウトと軽い眠りに入ってしまうほどです。人の体温の心地良さを、ふたりとも黙って噛み締めていました。
「蓮」
ふと意識が浮上した凛は、控え目に蓮の名を呼びました。すぐさま、なあにと返ってきて、凛は嬉しくなりました。蓮の傍にいられることがこんなに安心して、こんなに心地良く思うのです。蓮の声は、澄んだ湖に雫を一滴落としたような、心の奥に染み渡る心地良さを孕んでいます。耳に落ちた蓮の声に、凛は知らずのうちに肺に溜まった二酸化炭素を深く吐き出しました。
呼んでみたものの特に用事はないので、凛は再びうつらうつらと眠りの入口に差し掛かった時でした。
「ねえ凛。元のお家に帰りたい……かな」
少しだけ渋るその声は、澄んだ湖を緩くさざめかせます。凛の柔らかな髪を撫でる手は優しいのに、どこか遠慮しているようにも思えました。
凛はすぐに答えることはできませんでした。
確かにこのおかしな森に来た当初は、どうしても帰りたくて、すぐにでも出ていきたくて、蓮に言われた通り南を目指していたのです。
確かに初めは南に向かっていましたが、凛の心は少しずつ変わっていってしまっていました。おかしなことの連続ですが、しかしこの温かい腕にいつまでも包まれていたいと思ってしまったのです。
蓮だって同じでした。最初に出会った時、いくらアリスと言えど、幼すぎると思ったのです。アリスと呼ばれることが可哀想でなりませんでした。
蓮は長い息を吐き出しました。
「ねぇ凛。この森についてきみがどう思っているのかは聞かないけど、この森の秘密を教えてあげるよ」
「秘密?」
「うん。……丁度来たみたい。凛、少し静かにしていてね」
ウトウトと傾眠状態だった蓮は軽やかにぱっと起き上がり、それから音を立てずに出入り口のほうまで這っていきました。
それからカーテン代わりにしている草を慎重に掻き分け、外の様子を伺います。
これまでやわく微睡んでいた蓮の目が、強くひかりました。
「ごめんね凛、少しだけ待っていて。必ず戻るから、声を出さないで大人しくしていて」
「れっ…」
「しーっ。大丈夫、すぐそこにいるから」
視線を鋭くしたままの蓮は、凛のほうを一度も見ずに声を潜めて言いました。
只ならぬ蓮の雰囲気に気圧され、凛は声を出さないように自分の両手で口を塞ぎました。
蓮は音を立てずに、細心の注意を払って穴蔵の外へ出ていきました。
凛は自分の心臓の音が、この狭い穴蔵に響いてしまわないか心配になりました。スパイダーに編んでもらった薄いワンピースから音が漏れてしまいそうなほど、心臓がバクバク言っているのです。体は酸素を欲していますが、凛は必死に息を殺しました。
ほどなくして硬い革靴の音が複数聞こえてきました。蓮の靴の音ではありません。凛の体に閃光のような緊張が走り、一層息を殺して気配を消しました。
「ご苦労さま」
至って穏やかな、いつもの蓮の声です。言った通り、穴蔵のすぐそばにいるようでした。たったそれだけで、凛の心臓は少しだけ落ち着きを見せました。
しかし油断はできません。できるだけ穴蔵の奥へ行き、身を縮ませて入口を凝視しました。
「お疲れ様です」
聞き覚えのない男の声が聞こえます。耳をそばだて、凛は外の声をじっと聞きました。
森がさざめき、鳥が羽ばたいていったような音が聞こえました。
心地よいはずの空気を壊す複数の靴音は、どうやらみな男性のようです。
「どう?」
蓮が聞いているようです。複数の足音──恐らく3人か4人ほどです。ひとりが言いました。
「見つけましたが、アリスではないようです。穴に返しました」
…なにを見つけたの?凛は誰もいない薄暗い穴蔵でひっそりと首を傾げました。それにアリスって…。凛はあとで蓮に聞いてみようと、そのまま気配を消したまま耳をそばだてました。
「そう。ご苦労さま。女王は?」
「もう持ちそうにありませんね」
「それは残念だ」
…蓮は、女王を知っている?持ちそうにないって、どういうこと?
この森は不思議なことだらけで凛の知らないことが山のようにあって、凛は身に降かかることだけでも精一杯でした。もしかしたら自分の身に降りかかった出来事は表面を撫でただけで、本当は別の顔を持っているのかもしれない。そう思った凛は身の毛がよだちました。これ以上ひどいことが起こる可能性が出てきてしまったのです。
凛の背中に冷たい汗がたらりと流れました。蓮はまだ戻ってくる気配はありませんし、知らない男たちも去るような気配もありません。凛は震え出す体を自分の腕で抱え込みました。
「蓮」
ふと意識が浮上した凛は、控え目に蓮の名を呼びました。すぐさま、なあにと返ってきて、凛は嬉しくなりました。蓮の傍にいられることがこんなに安心して、こんなに心地良く思うのです。蓮の声は、澄んだ湖に雫を一滴落としたような、心の奥に染み渡る心地良さを孕んでいます。耳に落ちた蓮の声に、凛は知らずのうちに肺に溜まった二酸化炭素を深く吐き出しました。
呼んでみたものの特に用事はないので、凛は再びうつらうつらと眠りの入口に差し掛かった時でした。
「ねえ凛。元のお家に帰りたい……かな」
少しだけ渋るその声は、澄んだ湖を緩くさざめかせます。凛の柔らかな髪を撫でる手は優しいのに、どこか遠慮しているようにも思えました。
凛はすぐに答えることはできませんでした。
確かにこのおかしな森に来た当初は、どうしても帰りたくて、すぐにでも出ていきたくて、蓮に言われた通り南を目指していたのです。
確かに初めは南に向かっていましたが、凛の心は少しずつ変わっていってしまっていました。おかしなことの連続ですが、しかしこの温かい腕にいつまでも包まれていたいと思ってしまったのです。
蓮だって同じでした。最初に出会った時、いくらアリスと言えど、幼すぎると思ったのです。アリスと呼ばれることが可哀想でなりませんでした。
蓮は長い息を吐き出しました。
「ねぇ凛。この森についてきみがどう思っているのかは聞かないけど、この森の秘密を教えてあげるよ」
「秘密?」
「うん。……丁度来たみたい。凛、少し静かにしていてね」
ウトウトと傾眠状態だった蓮は軽やかにぱっと起き上がり、それから音を立てずに出入り口のほうまで這っていきました。
それからカーテン代わりにしている草を慎重に掻き分け、外の様子を伺います。
これまでやわく微睡んでいた蓮の目が、強くひかりました。
「ごめんね凛、少しだけ待っていて。必ず戻るから、声を出さないで大人しくしていて」
「れっ…」
「しーっ。大丈夫、すぐそこにいるから」
視線を鋭くしたままの蓮は、凛のほうを一度も見ずに声を潜めて言いました。
只ならぬ蓮の雰囲気に気圧され、凛は声を出さないように自分の両手で口を塞ぎました。
蓮は音を立てずに、細心の注意を払って穴蔵の外へ出ていきました。
凛は自分の心臓の音が、この狭い穴蔵に響いてしまわないか心配になりました。スパイダーに編んでもらった薄いワンピースから音が漏れてしまいそうなほど、心臓がバクバク言っているのです。体は酸素を欲していますが、凛は必死に息を殺しました。
ほどなくして硬い革靴の音が複数聞こえてきました。蓮の靴の音ではありません。凛の体に閃光のような緊張が走り、一層息を殺して気配を消しました。
「ご苦労さま」
至って穏やかな、いつもの蓮の声です。言った通り、穴蔵のすぐそばにいるようでした。たったそれだけで、凛の心臓は少しだけ落ち着きを見せました。
しかし油断はできません。できるだけ穴蔵の奥へ行き、身を縮ませて入口を凝視しました。
「お疲れ様です」
聞き覚えのない男の声が聞こえます。耳をそばだて、凛は外の声をじっと聞きました。
森がさざめき、鳥が羽ばたいていったような音が聞こえました。
心地よいはずの空気を壊す複数の靴音は、どうやらみな男性のようです。
「どう?」
蓮が聞いているようです。複数の足音──恐らく3人か4人ほどです。ひとりが言いました。
「見つけましたが、アリスではないようです。穴に返しました」
…なにを見つけたの?凛は誰もいない薄暗い穴蔵でひっそりと首を傾げました。それにアリスって…。凛はあとで蓮に聞いてみようと、そのまま気配を消したまま耳をそばだてました。
「そう。ご苦労さま。女王は?」
「もう持ちそうにありませんね」
「それは残念だ」
…蓮は、女王を知っている?持ちそうにないって、どういうこと?
この森は不思議なことだらけで凛の知らないことが山のようにあって、凛は身に降かかることだけでも精一杯でした。もしかしたら自分の身に降りかかった出来事は表面を撫でただけで、本当は別の顔を持っているのかもしれない。そう思った凛は身の毛がよだちました。これ以上ひどいことが起こる可能性が出てきてしまったのです。
凛の背中に冷たい汗がたらりと流れました。蓮はまだ戻ってくる気配はありませんし、知らない男たちも去るような気配もありません。凛は震え出す体を自分の腕で抱え込みました。
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