アリスと女王

ちな

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“スパイダー”

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「いぁあああっ!!」

「もっゆるじでぇっゆるじあああああッッ!!」

じっとりとした重苦しい空気の奥から、痛々しい叫び声が聞こえます。動物の呻き声のようなものもあちこちから聞こえました。

元気いっぱいの太陽は、その一筋を僅かに漏らす程度です。怯えるなという方が無理でした。一歩に満たない歩幅で足を進めますが、踏んで歩く雑草が明らかに意志を持って凛の足に絡みつきました。背の高い雑草は、柔らかな凛の太ももに絡み、鋭い葉の先でさわさわと撫で付けます。ぞわぞわと鳥肌を立てながら、蓮の腕に絡みついて足を進めました。

暗い森は木々を妖しく揺らし、時折凛の頬に温い雫をポタリと垂らしました。あまりにも不気味で、悲鳴を上げそうになる口を慌てて閉じます。声を出すことですら憚られる雰囲気の中、それが何かを確認する勇気もありません。凛の心臓はバクバクと音を立て、嫌な汗が止まりません。蓮が折角背中を押してくれたにも関わらず、やっぱりこのまま肢体を晒して歩いていたほうがよっぽどマシのような気がしてなりませんでした。

蓮からのご褒美は確かに魅力的で、考えるだけで蜜が零れるほどです。
しかし、不気味に暗く、じっとりとした重苦しい空気と鳥の鳴き声のような、濁った叫び声のようものが聞こえるこの道の先へ進むことは、あまりにも比重がちがう気がするのです。

やっぱり帰ろう…?そう言いかけた凛の耳にひゅっと風を切る音と、続いて耳を劈く乾いた音。泣き叫ぶ声。凛は耳を塞いで立ち止まりました。

「やっ…!!」

「凛」

すぐさま蓮は、身を縮める凛の肩を抱いてやりました。耳を塞ぐ凛の手にちゅ、とキスをしてやり、そっと背中を押しました。しかし全身を震わせる凛は、どうしても一歩が出ません。

「やだっ…蓮、あたしこのままでいいよぉっ」

「何言ってるの。さあおいで」

「やっむりぃっ…」

がくがくと震える膝は、まるで言う事を聞きません。薄闇に浮かぶ白い肌を晒し、踵を返そうとする凛を、蓮は細い肩や浮き出た鎖骨に忙しなくキスをしてやりました。

「大丈夫だよ、気持ちいいだけだよ」

「嘘だっやだあっ!」

終ぞボロボロと泣き出す凛に、蓮は困ったなあと息を吐きました。

「おい誰だ」

野太い男の声がしました。凛は飛び上がらんばかりに驚き、咄嗟に蓮の後ろに隠れました。

「やあスパイダー。ご機嫌いかが」

「あ゛!?」

明らかに不機嫌そうです。その声の主を盗み見ようと、凛は恐る恐る蓮の背中からこっそり視線を向けました。そうして凛は、盗み見たことを酷く後悔しました。

目の前にいたのは、凛の身長など優に超えた巨大な蜘蛛男、通称スパイダーです。しかも白く長い鞭を持って、面倒くさそうに首を傾げていました。

咄嗟に蓮の背中に隠れました。蓮は特に咎めることも慰めることもせず、スパイダーとは対照的に、ごく柔らかなテノールを響かせます。

「きみ、相変わらずいい趣味してるね」

「なんだ蓮じゃねぇか」

びっくりさせんじゃねえよとか、邪魔すんなよとかぶちぶち文句を言いながら、スパイダーは鞭を地面に向けて振り下ろしました。

バシィィンッッ……

淀んだ湿気をたっぷり含んだこの空間さえ切り裂くような音が響き、凛はきゃあっと声を上げて耳を塞ぎました。

スパイダーの小さな耳がぴくりと動きます。

「誰だ?」

「ねぇスパイダー。この子に服を作って欲しいんだ。簡単なワンピースでいいんだけど」

蓮が右に一歩動くと、蓮のシャツをぎゅうぎゅう握りしめて体を震わす凛が、スパイダーの目に半分だけ映りました。

ひぃっ、と喉の奥で悲鳴を上げる凛ですが、スパイダーはすぐに興味を失くして背中を向けました。

「面倒くせぇ。やなこった」

「スパイダー、頼むよ」

「俺ぁ今忙しいんだ」

白い鞭がしなります。ヒュォ、と空を切り、耳を劈く鋭い音が暗い森に木霊しました。

パシィィンッ…

「い゛あ゛ぁぁぁぁぁッッ!!!!」

絹をさくような悲鳴に、凛はびっくりして顔を上げました。その対象物を目にした瞬間、頭の先から物凄い勢いで血の気が引いていきました。

顔を上げずに歩いていたので、頭上に何があるかなど見なかったのです。てっきり鬱蒼と茂る木々が日差しを遮っているとばかり思っていました。

確かに濁った緑色の葉をつけた大木が鬱蒼と茂っています。しかし、それだけではありませんでした。

凛の頭の上には、巨大な蜘蛛の巣がこれでもかと張り巡らされていたのです。

しかもその蜘蛛の巣には、美しい羽を生やした蝶が、まるでオブジェのように捕らえられていました。

蝶は、ヒトに良く似た体の作りをしていました。蝶と言うよりは、美しく成熟した女性に羽を付けた妖精のようにも見えます。身長は凛と同じくらいかそれ以上のようですが、蜘蛛の巣に捕らえられているためあまりよく分かりません。

「れっ…蓮っ…」

凛は一層体を震わせました。顔には血の気がありません。血の気など、あるはずもないのです。

それは、凛の目に映る捕らえられた蝶たちはみな、その美しい顔を歪め、胸や足の間に気持ちの悪い巨大な虫が覆いかぶさっていたのです。それだけではありません。何かの飛行物──恐らく羽虫の類と思われるものが、足の間に何本も刺さっているのが見えます。口の中に突っ込まれている蝶もいました。凛の頬に垂れた温い液体は、蝶たちの愛液だったのです。

四肢を蜘蛛の巣に縫い付けられた蝶たちは、ただひたすらに顔を歪めて愛液を垂れ流していました。

凛は腰を抜かしそうになるのをぐっと堪え、蓮のシャツにしがみつきました。

蓮はちらと凛に目配せして優しく微笑んで見せ、それからスパイダーに向き直りました。

「ねえスパイダー、お願いだよ。こんな可愛い子が全裸で歩いてるなんて、可哀想すぎだと思わない?」

「思わねぇな。服が欲しけりゃそこら辺の草でも巻き付けとけよ」

「そっか、それは残念。服を作ってくれる代価は、“アリスの蜜”なんだけどなぁ」

鞭を振る蜘蛛男の手が、面白いほどぴたりと静止しました。

それからぐるんと首を回し、目をギラつかせます。蓮はにっこりと微笑んで見せました。

「どう?スパイダー。悪くない話でしょ?」

「アリスの、蜜…?」

「そうだよ。もう何年も口にしてないよね。蝶の愛液も美味しいけど、アリスの蜜は極上って、きみも知ってるよね?」

スパイダーの目の色が明らかに変わり、口の端から涎が滴ります。まるでオブジェのように飾られていた数人の蝶たちも、一瞬凛に視線を向けました。

「っ…!」

凛は咄嗟に細腕で一生懸命肌を隠します。いくつもの突き刺さるような視線が、凛の顔をあかくさせました。

「へっ…へぇー。このちんちくりんがアリス、ねぇ…」

ヘラヘラ笑うスパイダーは、鞭を片手にしながら、凛と蓮のほうへ体を完全に向けました。

大きくて白い鞭がこちらへ向き、凛は目を見開いて震えました。

蓮は腰に手を当てて、芝居臭く胸を張りました。

「ふふっ。そうだよ。なかなか美味しい話じゃないかなぁ。ほら、糸を編むのはきみの得意技でしょ」

「いや、まぁ、そうだが…」

いきなり歯切れの悪くなったスパイダーは、蓮の後ろに隠れて震える凛を、ねっとりと舐るように見定めます。凛はただ恐ろしく、体を震わせました。

「いいでしょ。好きなだけアリスの蜜を味わってよ。僕はここで見てるから」

蓮は後方を指さしました。凛もちらと視線を追うと、おとぎ話に出てきそうな可愛らしいロッキングチェアがありました。

「ね、凛。凛は服を作ってもらう。スパイダーはおなかいっぱい蜜を啜る。僕は凛の可愛く鳴くところを楽しむ。誰も不幸にならないよね」

優しく凛の手をとると、そのまま引っ張って凛をスパイダーの前に立たせました。

「やっ…!」

咄嗟のことでほとんど抵抗出来なかった凛は、その柔らかな曲線を描く、成長途中の肌をスパイダーの前に晒されてしまいました。

必死に腕で隠しますが、ほとんど意味をなしていません。スパイダーは目をギラギラさせ、汗を浮かべながら強がって見せました。

「っ…俺ぁ忙しいんだ」

「そう言わないでよ。アリスの蜜なんて、次はいつ啜れるか分からないよ?」

スパイダーはごくりと喉を鳴らします。彼はプライドが高すぎる故、蓮の要求を素直に飲むことができませんでした。

しかし、目の前には滅多にありつけないご馳走。それも、条件はワンピースを作ること。糸を編むことは、彼にとって呼吸と同じくらい簡単なことです。破格と言っても過言でありません。

スパイダーはもう一度、喉を鳴らしました。

「時間は?」

「好きなだけ。ああでも、凛の体に傷を作ることは絶対に許さない」

背中に隠れていた凛には、蓮がどんな顔をしているのか分かりません。しかし、その一言で周りの空気が一気に氷点下まで下がったような気がしました。あのスパイダーでさえ、一瞬言葉を失ったのです。

れん、と後ろから凛が声を掛けなければ、スパイダーは時間が止まったままだったかもしれません。

「分かった。存分に“遊んで”から食事としよう。いいな?」

「うん。良かったね、凛。気持ちよくしてもらってね。どれだけイってもいいよ。僕が全部見ててあげるからね」

時間が止まったのは、今度は凛のほうでした。

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