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噂3

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きのとが帰国したのは、その数日後だった。
 
その日、新人達は見えるか見えないかくらいの遠い位置で乙を迎えた。
ドアが空き、今井の第一声が響く。
 
「お帰りなさいませ」
 
そして他の使用人と共に、なみも一礼をし乙を迎えた。
 
「お帰りなさいませ、乙様」
「…ああ」
 
一礼をしながら、ちらりと視線だけきのとに向けたが角度的に腰の辺りが微かに見えただけだった。
乙が聖慈せいじと共に部屋へ向かっていくとなみ達は、業務に戻るため各自散らばった。
廊下を歩きながら留奈るびが話し掛けてくる。
 
「ねぇ、乙様見えた?」
「ううん、全然」
「アタシも。
あんなに後ろじゃあ、見えるわけないっか」
「そんなに見たかったの?」
「だって、あんな写真みたら実物見たくなるじゃない?」
「…私は、別に…。だって…」
 
未だに【】のイメージが抜けないなみは、少し怪訝そうに答えた。
 
『…だって、嫌なものは嫌なんだもん。
はぁ、そんな人に奉公するなんて、これから憂鬱…』
 
軽いため息混じりに、なみは仕事に戻るのだった ────




嫌いなタイプのはずだった。
恋人もいるのか、いないのか解らない。
きっと傲慢で、身勝手で、手当たり次第自分の手に収めて。
 
『なのに…。
そう思っていたのに、実際にあったきのと様は少し違った。
絶えず女性のエスコートを忘れない人だった。
絶対に好きになる事はないと…
なのに…。
あの人の温もりが無くなっただけで、こんなに苦しい…』
 
顔を覆い、なみの瞳から止むことのない大きな雫は、胸の痛みとリンクして更に大きな雫が降り注ぐ。
 
タブー…
瀾はやっと気が付いた。
乙に対してのタブー…
それは『』だと。
】と言った瞬間のきのとの瞳の色が一瞬にして変わった事が何よりの証拠だろう。
 
『私は、なんて事を言ってしまったんだろう…。
あんな事さえ言わなければ、今この瞬間も乙様と一緒にいれたはずなのに…』
 
なみは自分を恨まずには居られなかった。
ただ後悔で泣いている事しか出来ない自分を。
そして、きのとを好きになってしまった自分を。
心臓がわしづかみにされるような胸の苦しみが治まる気配すらなく。


好きにならなければ…
本気にならなければ…
こんなに苦しまずに済んだ。
本当は、解っていたのだ。
自分が暇つぶしの遊び相手の1人だったことくらい。
こんなに苦しくなる前に、あの冷たくされた時に諦めれば良かった。
 
馬鹿みたいにひと時ひと時が幸せで、あの人の傍にいれたら…
あの人が自分を愛してくれたら、そんな甘い夢を見てしまった自分。
なみに向けられたきのとの笑顔が…
温かく、優しい手がいとおしくて、いつまでも一緒に居たいと…
いつか結ばれたいと思ってしまった。
無理だと解っていたはずなのに。
 
所詮、きのとなみは名家の娘と使用人。
近くに居る事は出来ても結ばれる事はない。

『それでも…言ってほしかった。
好きだと…愛してると。
一時の夢でも、あの人の口から聞きたかった…。
あの人の声で…。
苦しい…苦しいよ…乙様…』
 
激しく肩を震わせ、ヒクヒクと泣くなみの気持ちに同調するように、いつしか窓の外は雨を誘い、大雨が降り注いだ。
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