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2 罪の正体
42 痛みの物語
しおりを挟む充の過去の一端を知った界人は、彼に負担をかけまいと、志葉を頼った。
様々な書物がそろう界導宅の書庫は、界人にとって知の宝庫だった。読みきれないほどの書物が並ぶ書棚に囲まれ、据え置かれた執務机に張りつき、彼は読み物に耽っていた。
「君は本当に勉強熱心だね。そんな君に今日はとっておきのものをお見せしよう」
界導の声に、界人はページをめくる手を止める。彼の視界の横に、分厚い本がどっしりと置かれた。それは彼が十二月学園の書庫で、密かに読み漁っていたものと似た形をしていた。
「裏月の、系譜書……!」
「それと、私がある人物について調査し、まとめた資料だ」
界導はもう一脚、イスを引いてきて、一人分の距離を開けて、界人の隣にイスを並べて座った。
「君が求めていたのはこの系譜書だろう。君が情報を引き出すために、まどろっこしいことをしていたとは思っていないよ。こちらも読みたいと言われても出すつもりはなかったから」
界人は読みかけの書物から手を引いて、界導の方に体を向けた。
「君に聞いてほしいのは、とある人物の断片的な話だ。幻惑の踊り子と呼ばれた、五月雨色葉の話を」
界人の瞳が揺れる。五月雨色葉。裏月の大罪人にして、汚点である不義の忌子。そして、界人と郁の母親であった人物の名だ。
言葉を失う界人に界導は「そちらも探りを入れてくるのなら、こちらもそれ相応の情報の見返りがなければ、割りに合わないだろう?」と笑みを深め、足を組み、手を広げた。
「色葉という者の性別は流動的。あるときは、女、あるときは男。私の前では、男でありたいと言ったが、女であってもいいと彼は言った」
そう語る界導の一挙一動は人を惹きつけて止まない不思議な魅力やオーラのようなものを放っており、界人は目を離せなかった。
「私は当時、裏月のことを事細かには知らなかった。彼──彼女でいいと言ったが、彼は色葉だと名乗った。そして、自身が縁を繋ぎ続けなければならない呪いにかかっており、一人と生涯、添い遂げることができないのだと」
界人の知らない、母の物語が、男の口から歌うように紡がれていく。
「彼は間もなく、裏月によって家に連れ戻され、私たちの仲は引き裂かれた。だが、色葉は別の名を持って、また現れていた」
男は色葉の悲劇を嘆くわけでもなく、淡々と言葉を滑らせ、物語を先に進めていった。
「はっきりと確認された例では、初実。彼女は鳴矢神成という裏月ではない男との間に子をもうけていた。初実の亡きがらは裏月へ渡り、父親の神成は衰弱死。そして、二人の子どもは裏月へ連れて行かれた。私の調べではそう明らかになっている」
「他にも確定とは言いがたい、男女の人間関係と母親の失踪した子が見受けられる」とそこまで話した男の語りが止まる。
界人は息を呑んだ。彼が置いた間に、彼は引きこまれる。
「一体、五月雨色葉という存在の周りで、何が起こっているのだろうか。私たちは幻惑、つまり色葉の術中に陥り、今のこの瞬間も途方もない夢でも見ているのではないだろうか」
今、まさに、界人は界導の、ある人物の断片的な話に、心を揺さぶられ、まるで目の前で体験してきたかのような錯覚に、深く囚われていた。
「幻想に囚われた人間に警鐘を鳴らす作家がいる。颯葵。卯咲で絶大な人気を誇るその者こそ、五月雨色葉による幻術を私たちに知らしめる役割を持った、色葉の一部なのではないか。私はそう結論づけている」
颯葵。十二月学園でタブーとされる話題。夜の闇を切り裂く裏月を揶揄するかのように、日の下で生きるものに祝福を、夜に生きるものに不幸を与える話を書き続ける作家だ。果たしてそれしきりの思想の吹聴で、颯葵が禁忌とされ得るものだろうか。
だがもしも、颯葵が五月雨色葉なのだとしたら。納得のいく説明がつくのだ。
「誰とでも縁を結んでしまう、色葉はありとあらゆる事象のよろこびを、痛みを感じ取り、また、深く愛していた。私はそんな色葉の話に耳を傾け続けた」
あらゆる道筋を辿った誰かと色葉の物語は、男と色葉の話へと収束していく。
「裏月にとって、五月雨色葉は破滅の象徴なのだろう。だが、私は色葉がどうしても、何かを守ろうとしてそうなってしまったとしか思えないんだ。子を成し、縁を生み続ける色葉の考えが行きついた先が」
男、界導と、移ろう者、色葉の物語に結末が打たれる。
「まるで壊すことが愛でもあるかのように」
界人の体はイスに沈みこみ、立ち上がってもいないのに、彼はバランスを崩してイスに尻もちをつくチグハグな感覚を覚えた。
「君がこの物語をどう受け取るかは、君に任せる」
界人は背もたれに背がつくなり、ドッと肩の緊張を下ろす。界導は現れたときと変わらぬ格好のまま、彼の方を見つめていた。
界導の話はまるで愛の抜け殻を手のひらで転がして見せるかのように、確かにそこにあったはずの、熱意がこもっていなかった。
過去を語った際の言葉に乗った、あきらめ、失意、憐憫、哀悼、そのいずれでもあるが、そうでもない、界導の感情。彼の複雑な心の内を界人はうかがい知ることができなかった。
「界導先生。あなたは、色葉さんの器を愛してましたか、それともその移ろう魂を愛していましたか」
「そうだね」と界導が考えめぐらせたのは一瞬だった。
「私はどちらもなければダメなんだ。私が愛したときの、色葉の器と魂でなければ、私はきっと愛を持てない」
彼の目は界人を通して、ここにはいない誰かへ向けられているように、見定められている。
「愛していた色葉さんには会えないとあなたは、もうわかっている口ぶりです。それなら今のあなたの願いは何ですか」
界導の目が笑う。会えない者に思いを馳せるその表情は穏やかだった。
「色葉の平穏を願っている。そして、あわよくば、色葉の愛したものを守りたいんだ」
対して、界人は唇を噛み、表情を曇らせていく。
「あなたが強く思い願うなら、色葉さんもあなたの平穏を願うはずです。思いは通じ合うと僕は信じています」
「そうだね……私の強く願うことは、確かに。叶うだろうな。私の言ったことは、多くがその通りになるからね」
界人は口の周りを小刻みに動かし、溢れる感情に耐えた。
「思いは叶い、思い通じ合うと言うのなら、君も、強い言葉の使い方には気をつけなさい」
界導との書庫でのやり取りを界人は繰り返し反芻していた。彼との対話の最後で、溢れ出そうになった感情の正体から目を背けようと、界人は腕に残る痕に視線を移した。
「永野にさ。聞かれなきゃ、一生誰にも言わないで生きるつもりだったんだが」
学園の寮部屋で充は、身支度を整えながら、界人に話を振っていた。
「永野に話して、少し、気持ちが楽になった。あんなひどい過去の話、他の人に背負わせるもんじゃないとずっと意地を張っていた気がするんだ」
それなら良かった。それなら彼、界導先生も忘れられない過去を話すことによって、少しでも肩の荷を下ろせただろうか。
「その腕、どうしたんだ?」
「旭さんがちょっと……その、激しくて」
「マジか」と充から短く返ってくる。
日増しに増えていく痕と痛みに、界人は一抹の不安を抱えながらも、爽やかな秋晴れの空へ、充とともに踏み出した、はずだった。
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