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1 縁罪
21 駆け引き
しおりを挟むやんのやんの、寮の廊下から言い合う声がしている。
「騒がしくてごめんね」
「にぎやかですよね」
「充君と雄生君、よくケンカするからいつものことだよ」
「ケンカなんてしたことがないから、少しだけ微笑ましいなって思ってしまいました」
茶を淹れる旭に、慌てて界人が「や、やります」と駆け寄ってくる。
「永野君の弟君は結婚するんだよね」
手を止めた界人のほおは緩んでいた。注がれわき立つ湯気を見ながら、遠くに思いを馳せるように、ゆっくり目を瞬かせる。
「ええ」
カップを受け取って、両手で捧げ持ち、界人はほうと息を吐いた。
「郁が生きていて幸せな人生を送れている。それだけで満たされるなって」
「とても満ち足りてる顔をしているね」
「ええ。郁に双子の新しい家族ができるそうなんです」
「それは……いいねえ」
雄生に言われた手順だの、心がけだのが、旭の意識を駆けめぐるが、構ってなどいられない。界人が幸せを享受し続けるためには、今の幸せな表情を浮かべる彼を現実に戻さなければならなかった。
「ごめんね。意識がないときはしないって決めているから」
「何をですか?」
「縁が切れてしまうと、君だけじゃなくて弟君もつらくなるよ」
途端、表情は曇り、界人はぎゅっと身を固くしてしまう。
「そんなに緊張しないで」
「ああの。俺、失礼なことをしていませんか、縁結びのあと」
「いいや。反動で意識を失うようだけど」
「きょ、今日はえと、その……」
「今日は止めておく?」
界人はうつむき加減に、ぎゅっと握りしめたこぶしを膝に押しつけている。
「顔が赤いね。熱でも」
旭は隣の彼の額に、手を当てようとした。
パシン。驚いてのけ反った旭を押し倒し、界人は旭の上に馬乗りになった。熱に浮かされた表情で、息を荒らげている。
「だいぶ心臓に悪いかな」
「はぁ、はぁ……ほ、しい」
「いいよ、いっぱいあげる。おいで」
膝をつかせ、腕を引く。崩れ落ちそうになる腰を抱き、支えながら徐々に前のめりにして界人の体を近づけていく。
ほおをなで、唇をなぞり、ゆっくり合わせる。びくりと震えた背中をなでてあやし、唇に舌を割り入れるとさらに体がビクビクと震え出す。
逃げる腰を引き寄せ、舌を吸えば、艶めかしい吐息が鼻を抜ける。急にカクンと力が抜け、のし掛かってくる重さに旭はうめいた。
「か、界人。ごめん」
がっつきすぎたと反省する旭は、失神してくったりした界人を抱きかかえて寝室に運ぶ。
「早く私に想いを伝えさせておくれ」
触れ合った唇を旭は指でなぞって、名残惜しんだ。
紅葉寮の廊下で、充は雄生と睨み合う。こぶしを握り締める雄生に待ったをかけた。
「待て。俺は暴力が嫌いだ。こぶしは使わない、口で戦う」
「俺もだ。口なら負けない」
「どの口が。永野のこと、お前がペラペラしゃべるから、ボッコボコにされたんじゃねぇーか!」
「大体いずれ知れ渡るだろうが。隠している方が余計詮索されんだよ。いっそ全員にぶちまけた方が」
「よかねぇんだよ。プライバシーって言葉、知ってるか」
「立ち入って悪いが、大体監視役なのになんでちゃんと見てねぇんだよ」
「うるせぇな。仕方ねぇだろ、だまされたんだからよ」
「んなバレバレの工作、まんまと引っかかるバカいるかよ」
「そう言うお前は普段から疑ってばかりで、だから胃が潰れんだろうが」
「しゃーねぇだろ! そもそも師走大の病院から来る教員なんぞ、みんなワケありなんだから、警戒して当然なんだよ! 無条件に心、許しすぎんのが抜けてんだよ」
「さっきから上からもの言う人を小馬鹿にした態度。なに、旭さんのパートナー? 右腕だっけ、浮かれてんじゃねぇよ」
「お前だって旭さんは俺がどうにかするとか言ってどういうつもりだよ」
「旭さんの余生のパートナー候補だよ、タケオはもちろんリスト外」
「じゃ誰なんだよ、充の旭さんのための右腕って」
「永野に決まってる」
急に始まった言い合いがピタリと止まった。
「……初めて意見が合った心地だな」
「俺を誰だと思ってる。ませたガキどもの担任だぞ」
充は常日頃から、恋愛をかじったばかりで騒ぎたい盛りの生徒を相手にしている。恋愛絡みとなれば、まだ未熟な生徒たちが問題を起こす前に察知しておくべき事項だった。
「色恋沙汰には敏感か。俺も協力する。充は旭さんに情報を流すために、永野から好きな物、聞き出しておけ」
「旭さん、デートスポットに疎そうだから下見は任せる」
「あぁ」
「よし。早速明日から取りかかるぜ」
いさかいを収めた二人は、機嫌よく、こぶしを握りしめ、自分で自分に渇を入れている。
雄生が部屋のドアを開ければ、実希が苦い顔をして二人を見た。
「きっも。んで上機嫌なんだよ」
「利害の一致に収まった」
充は親指を立てて、実希に成果を示した。
「あーそう。寝るからもう静かにしてよね」
実希はソファーから降りて、自室に行ってしまう。
「おう。また明日な」
充は口角を上げて笑う。実希はもう寝るとか言っていて、俺たちのケンカが終わるまで、起きていてくれたんだなと。
そっと扉を半開きのまま閉めて、充は旭の部屋の方を見る。
今頃は旭と界人、二人の時間を過ごしていることだろう。
二人がうまくいけば、これ以上にいいことはない。だが、養子の実希はどうなるのだろう。
寂しがり屋で、家族思いの彼のこれからを充は案じずにはいられなかった。
心地よいふかふかの、なにか。界人の意識が徐々に浮上していった。
「んん、ふかふかのい」
「ふふ。随分かわいらしい寝言だね」
布施が界人をニコニコとして眺めていた。
「ふぁっ。布施せんせぃ」
「体の具合はどう?」
どうだと言われて、界人は辺りを見回す。ここは自室ではない。「俺、また気絶して……」と界人は肩を落とした。
「仮とは言ってもね、縁を結ぶって体に負担がかかることなんだ。もちろんその逆もまた然りだけど」
「布施先生は」
「布施さんでいいよ」
「布施さんは、お身体は……」
界人が気になったのは自分の体よりも、布施の方だった。
「私ね、こう見えて体は頑健なんだよ。それに体調の悪い生徒をお仕置きすることもあるんだから」
「治療、お医者さんもできるんですか」
きょとんとして布施を見上げた界人は「わっ、すすみません。失礼なことを」と慌てた。
「ふふ。と言っても呪符による見よう見まねのまじない程度だよ。あまり重傷だと専門的な処置が必要になるから大学病院に任せることになるけど」
「でも、すごいです。おまじないで治せるなんて」
「照れるなあ。大体は胡散臭いとか言われちゃうからさあ」
「あ、あの、おこがましいお願いなんですが」
「いいよ、言ってみて」
お願い、と言うと布施は期待に満ちた顔で界人を見た。
「呪符のこと、ご教授願えませんかっ」
意を決して頭を下げる界人に対して、布施はふふっといつも通り愉快そうに笑うだけだ。
「おもしろい子だね。いいよ、みっちり教えてあげる」
「宜しくお願いします」
「代わりと言っては聞こえが悪いかもしれないけど」
界人の肩がわずかに縮こまった。
「はい。どうぞ」
「定期的に縁を結ぶのを許してもらえないだろうか」
界人は見上げて、目を見張った。
「あ、は、はい。あの、俺で良ければ。いえ、布施さんが大丈夫なら」
「私は大歓迎だよ。君を生かせることは、私のよろこびだからね」
「あ、ありがとう、ございます……」
ベッドの開いたスペースに座った布施にそっと抱きしめられ、肩を緊張させつつも、界人は少しだけ胸に頭を預ける。
視線をさまよわせる界人の頭を布施の手がそろりとなでた。
「私に君を救わせておくれ」
界人の体が拒むように、ビクリと反応を示した。それでも、布施は構わず、まるで自身に言い含めるように「私は君を救いたいんだ」と小さな声で反芻した。
界人は返事に困った。こちらの頼みへの対価として、彼の救いたいという願いでは広く大きすぎて釣り合わない。
「あの、布施先生」
「さん、ね」
「布施さん、お話が……」
「うん。何かあったの」
「仮であっても縁を結ぶ行為は、その、……」
ならば、もっと限定的で、願いに見合う対価を。
「悠長なことを言っていられなかったことは承知の上でこんなことを言うのは」
「うん? いいよ、言って」
「お、お付き合いしていただけますかっ!」
「ん? ん? え?」
「ああの、お付き合いもしていないのに、唇などに触れる行為は不貞だと教えられてきましたもので」
口に出してみて、その言葉の持つ威力に胸が忙しなく跳ね、界人は口をもごもごとさせてしまった。
「それ、私だけにしておくれよ」
「はっ、い……え。え?」
「参ったな。君から言わせてしまうなんて私はみっともない男だな」
「いえ、布施さんは」
「二人のときは旭さんって呼んでくれるとうれしい」
「あ、さひ……さん」
「まさかこの歳になって恋愛が成就するなんて思ってもみなかったなあ」
戸惑う界人をよそに、布施はやれやれと頭をかいた。
「私も現代の恋愛観にはそこそこ疎いんだけどね、界人。お付き合いしたら、恋人になるんだって」
「え、夫婦ではなくて?」
「界人、それは他の人に言っちゃダメ。だまされてお持ち帰りされちゃうよ?」
「お持ち帰り?」
布施が界人の耳元でささやく。
「体同士を繋げる行為のこと」
「それは、夫婦になってからっ」
やんわりと界人が体を離せば、布施は落ちこむ素振りも見せずに、話し出す。
「現代の恋愛観では、好きな気持ちを相手に伝えることを告白、恋人同士になることをお付き合い、結婚してくださいって言うことをプロポーズって言って、段階を踏むらしいけど」
「告白、お付き合い、ぷろ、プロポーズ……?」
混乱する界人の膝に手を置き、布施は彼を呼んだ。
「ねえ、界人」
「は、はい。旭さん」
「本縁のこと、考えておいて」
「は、はぃ……あのっ」
「どうかした?」
膝に乗せられた手をどうすべきか。だが、これだけはどうしても言わなければならない。
界人は思案をめぐらせながらも、も、もう一つの義理を通した。
「今度、お時間のあるときに、また郁に会っていただけますかっ」
おずおずと見上げて界人は布施の目を見た。布施は目を細めて笑っている。
「いいよ。充君を通して弟君の予定を聞いておいてくれたら、日曜であれば私が合わせられるよ」
「ありがとうございます」
膝上に置かれた手に、界人はそろりと手を伸ばす。指先が触れ合う距離まで近づけたが、そこで止まってしまった。
骨の髄まで染みついた穢れが、這い出てきて、移ってしまうのではないか。臆病な心が界人の手を止めてしまう。
近づいたその指が絡まることも、手と手が重なることもなかった。
界人は手のひらからじんわりと伝う、布施の体温をしばらくずっと感じていた。
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