哀夜の滅士

兎守 優

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1 縁罪

18 嗤いさざめき

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「昨日の分が、まだだったから、今夜、いいかな?」
 屈みかけた界人の腕を引っ張り上げては、その体を寄りかからせた。
「あなたが、運んでくださいましたか?」
「まぁ、そう深刻にならずに。君が気にすべきことは、仮の縁が切れないように繋ぎ続ける、その一点だけだよ」
 郁の幸せを守る。そのためには命を縁を絶やしてはいけない。界人はうなずかざるを得なかった。

「他に、知っている方は?」
 それでも胸の内に下りてくるざわめきを界人は抑えられず、口からこぼしてしまった。
「充君。彼は何も言わないよ。口も堅いからね。知られたくない秘密なら墓場まで持っていくぐらい」
「あのようなことの一つや二つぐらい、騒ぐことではないです」
「まぁ、騒げないからね、実際。暮葉さんに報告を上げたって、上でもみ消されるよ。君が無実という証明にも近づかない」
「構いません。よくあることですから」
「僕が構うんだよ。君の潔白は証明されるべきだ。弟君のためにも必要だろう?」
「郁は何としてでも守り抜きます。郁の幸せは誰にも奪わせない」
 郁が去った方を界人はまっすぐに見つめる。

「何か、言いたいことがあるのかな?」
「あなたが僕に構う理由は何ですか」
 界人は口調を強めた。だがは口角を上げて、穏やかに笑い、答える。
「君の、ため。かな」
「僕のためと言うなら、あなたは代わりに僕の何が欲しいのか。それを聞きたいんです」
 界人はその目にを捉えた。彼は少しだけ眉根を下げてから、「参ったね」と話し出した。

「僕ね、人の感情がよくわからないんだよね。色んな人と関わって、人の感情を見てきたんだけど、一つだけ、知らないことがあってね」
 吸う息とともにの口が噤まれる。一瞬のためらいを飲みこんで、息を吐き出したときには、彼の思いが言葉となって流れ出ていた。

「人を好きに思う気持ち──恋ってやつかな。愛とも言うんだろうけど。恋とか愛の味ってどんなだろうね」

 「こうやってちがいも意味もわからないぐらいだからさ」と自嘲気味な笑みを浮かべて、が界人を見る。
「僕は君と仮であっても縁を結び続けて、その感情を知りたいんだ」
 界人はを見つめたまま、ザリと地面を足でかいた。

「あなたは縁の味を知らないからそんなことを言えるんです」
「縁に味があるの?」
 の眼鏡がきらりと光る。界人は息を詰めた。長いためらいののち、静かな声でこう告げる。

「……血の味がしますよ」
 「そうなんだ」とは目を瞬かせる。界人を見つめ、彼は手招く。
 手招かれるまま界人は、彼に耳を寄せた。
「それさ、充君には言わないであげてね」
 耳打ちされた波紋が静かに広がっていった。


 波乱の食事会が終わった。実希みのりが充の部屋で物音を立てながら、大きな声で話している。
「養父さんたちが帰ってくる前に、片づけだ、片づけ」
「ヤサオ、大丈夫か?」
 充がゆうせいを隣の部屋から呼ぶ。「胃痛だから」とうめゆうせいの声は、蛇口の水音に流されてしまう。
「充、介抱してあげて」
「了解」
 充がゆうせいの部屋に入ってきた。だが、ゆうせいは強い拒絶を示す。

「み、みちる、俺はだいしょうぶだ」
「いや、どう見ても大丈夫には見えない」
「お、おれ、は」
「吐くなら吐け。その方がすっきりするぞ」
「俺が永野のこと、教えたせいで」
「永野の何を?」
「目のこと」
「なんだ。知ってたのか」
 ゆうせいは目を見張って、充を凝視した。
「え、だって俺が充に用があった日、連れこんだ女が実は永野で……」
「ヤサオ。最近、俺と何か話しこんだっけか?」
「充、どうしたんだよ。旭さんと永野のこと、話してただろ?」
「そりゃ俺が永野の監視役だから頻繁にやり取りしてるが……わかった。お前か」
 充の言葉じりが険しくなる。
「へ、……?」
 ゆうせいは気の抜けた声を出して、充を見つめ返した。充の目が静かな怒りに燃えている。

「お前が手引きしたんだな、永野をリンチさせるように」
「そんなこと! 俺は永野の情報を」
「売れって脅されたってか。俺は暴力は嫌いだ。だから」
 充はゆうせいに背を向けた。
「お前も結局アイツらと同じなんだな」
 捨て置かれた言葉の波紋が、静まりかえったゆうせいの部屋に広がっていく。ゆうせいは頭を抱え、かきむしった。
 片づけが終われば、隣の部屋の騒がしさが、異様に冴えたゆうせいの耳に入ってくる。
 充がひどく憤慨している。見送りから帰ってきた旭がそれをなだめている。

「充君、落ち着こうか」
「旭さん。ちょっと一人になりたいです」
「了解。行こ、界人君」
 「あの……」と永野の戸惑う声が遠ざかっていく。充の部屋の音が静かになった。
 途端に部屋が笑い出す。ゆうせいは壁に額を擦りつけ、耳を塞ぐ。
「この、このこの! 俺は、俺は……」
 笑っている。腹の底から、いい気味だと。
 叩く壁がよじれる。ゆうせいは手を離した。薄汚れた壁紙のシミが伸びて渦を巻く。部屋の歪みが鏡のようにその顔を映し出し描いて見せてくる。
 手引きした罪悪感と悪を貶める高揚感がない交ぜになった顔。ゆうせいは己を見つめ、クツクツとのどを鳴らし、笑いながら泣いていた。


 ツタが這い、薄汚れた様相を見せる建物から、息の合った跳ねる音がしている。開きっぱなしの引き戸から、界人がについて、体育館へ入ると、生徒たちが同じ動きを同じタイミングでそろえていた。
「わー、みんなよく頑張ってるね」
 の間延びした声が響くと、生徒たちの緊張が途切れた。
「そこ、動きを緩めない。隊列が乱れてる」
 壇上で指導しているのは実希みのりだった。彼が厳しく言いつけるが、生徒たちの膝は笑っていた。
「ちょっと休憩にしようよ、十五分くらい」
「チッ。ストップ。十五分休憩」
 実希みのりの提案に渋々従い、舌打ちとともに生徒たちへ、休憩を言い渡した。

「何だよ、お荷物連れてきて」
 壇上から軽やかに下りてきた実希みのりは界人を見るなり、不機嫌さを隠さず、ダンダンと床を踏み鳴らした。
「やだなー、見学だよ」
 ニコニコ笑うには構わず、実希みのりは界人にズンと迫った。
「邪魔すんなよ、おめでたい奴」
「ありがとう」
「褒めてねぇだろうが」
 迫られた界人が瞬きを繰り返しながら礼を言うので、ますます実希みのりの顔は険しくなった。
「わかった。弟君の結婚で幸せな永野君へのお祝いの言葉として受け取ったんじゃないかな」
「は? やっぱ頭おめでたい奴じゃんか」
 実希みのりの皮肉がわからず、またも「ありがとう?」と界人は返してしまう。

「まさか皮肉もわかんないワケ? ダメ。生徒に舐められるから黙って座ってろ」
先生。その人はー?」
 喜色を帯びた生徒の声が割って入ってきた。次のからかいのおもちゃを見つけたような愉快さを秘めた視線が、界人を舐め回すように見ている。
「永野先生。初等部担当だよ」
「宜しくお願いします」
 が紹介し、界人が頭を下げてしまえば、実希みのりの大きな舌打ちが鳴った。
「永野センセーは参加しないんですか」
 中身の減ったペットボトルに息を吹きこみ、ホーホー鳴らしながら生徒は挑戦的な言葉をはく。

「俺、が?」
 界人を見る生徒の目は、落伍者を見下ろす侮蔑に満ちていた。
「見学だっつってんだろ、お前ら」
「俺が手本見せるんで踊ってくださいよ」
 実希みのりを無視し、「わー、生意気だねえ」と言うを意に介さず、生徒はかぶりついていたペットボトルの口を閉め、床に放った。床にひれ伏していた他の生徒たちも顔だけそちらへ向けはじめた。
 床を踏み鳴らし、足を右へ、交差させて、左へ。掲げた腕は、足よりワンテンポ遅れて同じ方向へ、流れていく。曲もリズムを刻む手拍子もない。彼の体は魔法にかかったように、聞こえない音を拾って、操り人形のごとく揺れていた。
 だが大きく手を叩く音、鋭い声が生徒の動きを止める。

「軸ブレブレ。その動きで手本とかほざいてろ。こうだって言ってんだろ」
 床を踏みしめるのと同時に、右足がスーッと横に流れて、次の瞬間、小気味よく左足へと交わる。上半身は柳のようにしなりながら、合わせて腕が揺れ、しなる方へついてくる。
 界人は実希みのりの動きをじっと目で追っていた。
センセー、よこくんが限界だそうです」
「そうなんだ。保健室に連れて行こうね」
「欠員、埋めていただけますよね、永野センセ」
 ニヤリと生徒が界人に笑いかける。は「わー、性格悪い、策士だなあ。負けるな、永野先生ー」と言い残して、生徒を連れて体育館へ出て行ってしまった。

「一人欠けたくらいで喚くな」
 「でも隊列乱れますし」「感覚掴めないですよ」と休憩で回復しきった生徒たちが口々に生意気な言葉を言い出すので、界人はおろおろとして、が出て行った方を気にしてしまう。
 「おい」とドスの利いた声で呼ばれ、腕をぐいっと引かれ、界人は振り向く。
「あんた、死ぬ気でやれ」
「は、はい」
 界人は唾を飲みこみ、生徒たちの列に加わる。
 実希みのりが手を叩いた。隊列を乱していた生徒たちが途端に整列し出し、動きを止める。
 次にパンと鳴り響けば、彼らは動き出す。音に操られ、右へ左へ、手は宙を舞い、体は回る。
 渋々とやらされる流れ作業。合図とともにラインがシーンが切り替わるように、機械的な動きがぶつ切れに繰り返される。
 ろくな説明などなく、機械作業に放りこまれた異分子。決められた動きや規則も知らない。
 それでも無理やり、輪に入りこんで、見よう見まねで。先も知らされていないのに、次々と動作が切り替わる。
 初めは何とかついていけていたが、遅れは徐々に積み重なっていく。途中ではみ出た不協和音が流れを止めてしまう、はずだった。
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