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1 縁罪
14 痕跡
しおりを挟む部屋から顔を出した旭が怪訝な顔を向けている。彼が言いたいのは、界人から目を離したことに他ならない。
「申し訳ありません。急用で永野を一人で寮に帰してしまいました」
「いや、充君、そうじゃなくて。顔色が悪いよ?」
「いつもの長いお話をありがたく」
「羽鳥先生、心配性だなぁ」
「永野、まだ行ってないんですか?」
「疲れて寝ちゃったのかと思って起こすのは気が引けて」
「俺、風呂を見てきます」
また風呂で溺れたなんて、洒落にならない。
充は急いだ。充に続いて旭も脱衣所に入ってくる。
「永野くーん、入ってもいいかなー?」
応答はない。水の音もない。湯がくゆる匂いもなかった。
次に寝室兼部屋へ、二人は向かう。戸を何度か叩くが反応はない。
「風呂に入んないで寝ちゃったみたいですね」
踵を返そうとする充を呼び止め、旭が変わらない笑みのまま、悪だくみを耳打ちしてきた。
「あのさ、反応ないけど、寝顔、見ちゃおうよ」
「お、お一人でどうぞ!」
旭は小声で「しつれいしまーす」と扉を開け、息を止めた。
「いない」
その言葉に、充の背筋が凍りつく。
「実希たちの部屋、見てきます」
充は飛び出し、向かいの部屋の戸を激しく叩いた。実希が不機嫌さ全開で出迎える。
「んだよ、タケオはくたばってんぞ?」
「永野、来てないか?」
「ねぇーわ。クソボケ眼鏡が移るだろ、入れるワケないじゃん」
旭は充を退かして、スッと実希に近づいて頭をなでた。
「実希、今夜は絶対ドアを開けないで。翌朝すぐ解除するから」
「何、義父さん」
「明日に備えて早く寝なさい」
「待ってよ、もしかして結界がどうかしたの」
いつもの通り、半開きのままで閉めようとするドアを実希が掴む。薄く開いた戸のすき間から旭は、怯える実希に笑いかける。
「見回りに行ってくるから、念のため。何かあっても、雄生君がいればここは大丈夫。いいね?」
「旭さん」と充は小声で急かした。
「わ、わかったよ」
尚も怯える実希に、ドアを少しだけ開いてもう一度、旭は頭をなでた。
「大丈夫、大丈夫。守護のまじないを刻んだから、フルムーンイータークラスでなければ破られることはまずないよ」
実希は乗せられた手を叩いて落とす。彼が戸のすき間を狭めたのを見届け、充と旭は寮を出た。
「学園に知らせますか」
「いや。充君、何で今日は説教に付き合ったの?」
「羽鳥先生が急用だって」
「誰がそんなこと」
充は青ざめながら、はたと小走りになった。
「岩桐先生……まさか、俺から永野を引き離すために」
羽鳥のように悪意のない者だけではない。この閉鎖された学園という状況ではむしろ、恨みつらみは溜まりやすい。
学園は外部から隔てられた、市民の監視の目が届かない場所でもある。
見られているという抑制が利かなければ、膨れ上がった邪念は内々で暴走する。そうして外の善悪の葛藤も忘れてしまい、悪意に満ちた者たちが身勝手に私刑を下そうとしても不思議ではなかった。
「そうだとしたら、まずい」
「もう園外に連れ出された可能性も……ありえます」
「それはない。旧校舎で一番音が遮られる場所は?」
「確か半地下があったような気がします」
十二月学園の旧校舎。二つの校舎を改築の度に入れ替えていたが、今はただの、学園を囲う結界の柱の一つとなっていた。
入り口の施錠に妙な点などない。が、旭は術者が拭いきれなかった痕を感じ取ったかのように、空を手のひらでなぜた。
「誰かが入った跡がある。複数人」
「ちょっと下手くそだけど、えいっ」と呪術を使おうとした手を充は掴み、止めた。
旭さんは単発の呪術全般が得意でないため、カギを壊すつもりだ。
永野の顔がよぎる。実希の部屋のカギを壊したのかと少しだけ悲しそうな目をしていた、彼のことを。
「俺がやります」
逸る気持ちを鎮めなければならない。充は何度も深呼吸をして、弾んだ息を整えた。
呪術のエネルギーは、気が乱れていると出力も型も不安定になり、目測を誤ってしまう。
カギのかかった錠前をカギなしで、物理的に壊さずに開ける。世の摂理、物理法則をねじ曲げるには、それ相応の呪いの力が要る。場合によっては使役者が反動で、呪いを受けてしまう可能性もなきにしもあらず。
呪いで縁を接いだ自分は、すでにその身に強大な呪いを受けている。呪いの力を流れを身を持って知っているのだ。
だからこそ、自身を滅ぼしかねない呪いであっても、適切に扱うことが他者より容易かった。
大丈夫だ。ためらうな、恐れるな。
指先へ、呪いをこめて放つ。遅れて錠前が音を立てて外れた。
「い、急ぎましょう」
上手くいったと安堵の息を吐いたのもつかの間。充は暗い建物内を旭のあとについて走りながら、吐き出される息が冷たく、息が詰まるのを感じていた。
「大丈夫?」
「申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「いいや。君だけに重役を任せてすまない」
電気など通っていない、閉めきりの校舎を旭は迷うことなく駆けていく。彼には見えているのだ。呪詛の使役者の痕、追うべき道筋が。
気持ちばかりの貢献にと、充は札を取り出し、念を飛ばす。練り出された光明の呪符は、周りをぼんやりと照らした。
「ありがとう、ぶつかるのをギリギリで回避していたから助かるよ」と旭が言うので、充はいくらか上手く、息を吐くことができた。
旧校舎の奥、一階の階段下にある倉庫の前で旭は止まった。扉の前には鎖が無造作に落ちており、灯りを近づければ、鍵だけは固くかけ直されている様が浮かぶ。
旭が錠前を揺らして物音を立てたが、中から返事などはない。
「わざわざ新しく施錠まで。これだけ派手に鎖を散らかしておいて。動かした痕跡は消えないのに、無意味なことを」
「簡単に出られないようにする、ためかな」
充はドキリとして身震いしたが、旭が鍵を壊す前に進み出て、光明の呪符を解いた。
手元が暗くなってしまうが仕方がない。鍵を壊さず、解錠するには緻密な力加減が要る。
旧校舎の管轄も含め、立ち入りを制限する区画は、師走家の五男、師走暮葉が結界や管理を担っている。
彼はどちらかといえば公平な立場で、永野の即処刑をとどめておいたり、旧校舎の保存、有効活用を望むなど無闇な殺生や破壊を好まないと聞く。
ならば、鍵一つであっても壊すべきではない。
充が旧校舎へ侵入する際に施した術と同様の呪詛を込めれば、ガチャリと錠前が外れた。
ギィィィィ。鈍く耳障りな音を立てて重厚な扉を開く。充はすぐさま呪符を練り直し、暗がりに灯りを作る。
ニオイからして、ないとは思いたかったが充は切に願わずにはいられない。どうか、凄惨な紅が広がっていませんようにと。
赤いにじみに目が行く。それは血ではない。灯りが部屋の奥から全体を照らし出したとき、その正体がわかった。人の肌に浮かぶ痣だ。
青白い肌に鬱血した跡がいくつもある、界人の姿がぼぅと照らし出された。
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