哀夜の滅士

兎守 優

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1 縁罪

9 血の罪証

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 昼時の初等部三年の教室は大変にぎわっていた。食堂に行くタイミングを見失った充は、何の悪気もない生徒たちの行動に、手を焼いていた。
「明日からちょっと多めにおかず入れてもらってくる」「頑張って早起きして作るね」
 充が回避策を考える間に、はしゃぐ生徒たちによって次々と先手を封じられていく。ゆっくり昼食どころの騒ぎではなかった。

「センセイ、おきて。お目目が寝てる」

 生徒の一人が界人の背後にそろりと近づく。充が目線を界人に向けた次の瞬間、彼の眼鏡が外された。界人は知らぬうちに突然、視界が変わったことに驚き、目を瞬かせていた。教室は一瞬で静まりかえった。

 まずい。うらづきでこのべにぞめの瞳を知らない者はいない。十二月学園は、うらづきの影斬りを養成する専門学校。生徒の何名かは入園前に、知っていてもおかしくはなかった。
 べにぞめの瞳は罪証──罪を犯した者に発現する印だ。罪を犯したとされる者が罪証を宿し、罪をさらし生き続けることは罰でもある。
 界人の瞳は赤く染まっており、逃れようのない罪人の証が色をたたえていた。

「い、イケメン」
「これは、貢ぐしか」
「どうしよう、胸に刺さった」
「カッコ、いい」
 充の渦巻く不安はあっけなく散り失せた。界人のあかい瞳を見た生徒たちがよろこび、また教室内は騒然としていく。充はついにこぶしを振り上げた。
「先生にイタズラを仕掛けるとはいい度胸だな。十五分後にしめるぞ、お前ら」
おぎ先生、鬼!」

 まさに鬼のような疲れが押し寄せる。ソファーが心地よい。
 激動の一日を終え、充が部屋のソファーに身を沈めていると、旭の声が呼んだ。
 疲労困憊で彼への報告を危うく忘れるところだった充は飛び起き、好都合と彼を招き入れた。

「充君。お疲れさま」
「とんでもない初日でした。生徒が騒いでしまって。生徒のイタズラで、永野の目も見られるしで」
「舐められるよりはマシでしょ? 生徒の反応は上々みたいだね」
 舐められたか、気に入られたかはこれからわかることだ。運悪くドジ踏みが重なれば、下に見ていい者の烙印を押されてしてまう。
 一度下された身勝手な評価がくつがえることはない。大人たちの世界ならなおさらだ。
 旭たちが不動の紅葉寮の所属であるのは、そのいい例だった。

「それにしても風呂、長いな、永野」
「私が見てくるよ」
 「え、旭さん、それなら俺が……」と申し出る間に、旭は浴室へ行ってしまった。
「もしもしー、永野君、湯加減はどう?」
 風呂の戸を叩く音がしている。
「ごめんね。ドア開けるよ」
 ドアを押し開けた音がヒュンと鳴った。
 どうかやらかしていませんように。充は顔を覆う。

 音が止んだ。何も起こっていないのだろうか。だがムワリと鼻をかすめる湯の匂いが部屋に漂ってきていた。
 充はやはり自分も行かねばと顔を上げて、叫び出しそうになった。
「旭さ、え」
「ベッドに運ぶから、頭のところ、タオル敷いてくれる?」
 音などしなかったが確かに旭は、濡れたままの裸の界人を抱えてそこに立っていたのだ。

「溺れてたとか」
 濡れた髪から水が滴り落ちる音が聞こえ出す。浴室から上半身裸の界人を担いで旭が出てきた、そのことに驚いたのは一瞬で、充の心臓は縮み上がっていた。
 彼は自分の監督責任のなさの方に、顔が青くなっていくのを感じていた。旭から界人を任されていながら、充は監督不行き届きの連続だった。

「疲れて眠ってしまったのかな。うん、確かに溺れちゃうところだったね」
 旭はからからと朗らかに笑うが充は青ざめたままだった。充は彼ほど大らかに構えてなどいられなかった。
 イスにつまずいて後ろ返ったり、うっかり生徒の前でべにぞめの罪証をさらしてしまったり、風呂で寝てしまったりとこんなに無防備で、ふとした調子に死んでしまいそうな儚さと危うさが界人にはある。

 敵ばかりの檻の中で、果たして任された彼を守りきれるのか。
 充の気持ちは深くよどみ、沈んでいく。

「永野……どうなるんですか」
 何気なくこぼしてしまった疑問に充は口を覆った。界人のことは何も聞いてはならないと旭に言いつけられたことを思い出したからだ。
 また失態だ。すぐに何でもありませんと断りを入れようと充は口を開いたが、旭は困った顔をしながら「珍しいことなんだけど」と答えてそれを遮った。

「師走校長が処分保留にしている。なぜかは不明だけどね」
 監視対象に教職の身を与えながら、処分が保留とはどういうことなのか。充は眉根を寄せて真剣に考える。
 十二月学園は師走家が管轄するうらづきの組織だ。うらづきにおいて、べにぞめの瞳は大罪の証であり、罪証を刻まれた者にはそれ相応の罰が速やかに実行されるはずである。
 十二月学園はうらづきの要で、影斬りを養成する唯一の教育機関であり、あらゆる影斬りの模倣であらねばならない。
 だとすれば、べにぞめの瞳を持つ永野界人は即処刑されなければならなかった。

 処刑などと考えるだけでも恐ろしい。だが、うらづきには、忌み者の処刑を平然としてやってのけてきた負の歴史が常につきまとう。充はこれ以上はと頭を振り、浮かんでくるうらづきの悪しき慣例を振り切る。
 すでに少々、監視対象に情が移ってしまった充は、報告として正直に話してしまうことにした。

「兄貴分によく風呂に入れてもらったって、言ってたんです、永野」
「そうなんだ」
「いつもそばにいてくれた大切な人で、永野と彼の弟を守って死んだって俺に話してくれたんです」
 充の唇が震えはじめる。わき上がる過去が幾度も彼を苦しめる。日常生活に支障をきたすほどのトラウマが、いくら流そうともこびりついて離れない。
 血の罪証が刻まれた瞳を見る度、界人の罪とは何かと充は考えてしまう。
 大切な人を失って生き残った。苦しみが満ちる世界であっても、与えられた縁を離すことができない。
 充は界人に自分の姿を重ねていた。

「あんな苦しそうに、人の死を思う奴が、何をしたのかなと……」
「一ついいかな」
「はい」
「それって、一緒にお風呂に入ったってこと?」
 充は息を呑んだ。気まずくなって目を逸らす。特に隠し立てをするようなやましい事故もなかった──男である界人の肌を美しいと感じはしたが──というのに、彼の口からは取り繕った言い訳めいた弁解しか出てこない。

「そ、それは、シャワーの使い方とか風呂の入り方もわからないかも、いや、溺れたら俺の責任だし。そもそも、ソファーのことふかふかのイスだとか、初めて座るとか、なんか、その、危なっかしいから」
「君を先生につけて良かった。うん、なるほど、なるほどね。ソファーをえらく気に入っていたのはそういうことか」
「ふか、ふむにゃ?」

 充はなんだと、旭と顔を見合わせる。
 ソファーがグンと音を立ててきしむと、目覚めた彼に、旭はニコリと笑いかけていた。
「おや、これは可愛い寝言からのお目覚めだね、永野界人君」
「朝ですか!」
 起きがけの界人の目がおにぎりを作らねばとなっていたので、充は慌てて声を上げた。
「いや、待て。おにぎりは止めろ。てか、まだ夜だ」
 「美味しいからいいじゃないか」という冗談とも取れない擁護を充が何とか別の話題にすげ替えようと躍起になりかけたとき、界人がくしゃみをした。

「永野君、髪を乾かそうか」
 髪を乾かすと言われて、界人の目がさまよっているのを充は見逃さなかった。界人が何かをやらかす前に、充は指を差して言った。
「ドライヤーは洗面所にある」
「ドライヤーとは、えっと……」
「ドライ、乾かすってこと。昨日使ったやつ。髪を乾かす機械」
「ふふ。私がまたやり方を教えるよ」

 「え、旭さん?」と充が言う間にまたも旭は「行こ、永野くーん」と洗面所に界人を連行していったのだった。
 ひとり残された充は己の内に降りてきた、言い知れぬ違和感に心がざわつくのを感じながら、ソファーに敷いたままだった、湿ったバスタオルを取り去った。


 洗面所では、風呂場で換気扇が回るくぐもった音がしていた。柔らかいタオルで濡れた髪を頭ごと包み、水気をふきとった界人は、毛束を指でほぐしながらたずねた。
「櫛はありますか」
「あとで用意しておくね。今は手櫛でいいかな」
「い、いえ。自分でやりまっむにゃ」
 の手が伸びてきて、界人の手をやんわりと退かしてしまう。温風になびく髪、指の腹が地肌をもむ感触、指の先から他人の体温を感じることに、界人はくすぐったさを覚えて身をよじらせてしまった。

「いい髪質だ。入院生活が長かったとは思えないね。元の素材がとびきりいいのかな。ふふ」
「ふ、ふ……ん、む」
「くすぐったかったかな。ごめんね」
「自分でやれるように頑張りましゅっん」
 浴室で回る換気扇がドアのすき間から、涼しい風を足下に送っていた。そのためドアを隔てて地続きの洗面所は寒いぐらいで、界人は身を震わせながら、指を髪に通してきはじめた。
「いや、櫛、もってくるから、ね? 頼れるものには頼ろう」

 持ってくるとは言うが、は櫛を探す素振りを見せない。彼の手は界人の髪に指を通したままだ。
 自分と仮の縁を結び、ついえかけた命を繋いでくれているこの人は、何をしたいのだろう。無償の施しなどないに等しいものだ。だとすれば、この人の望みは何だ。
 界人は目を細め、視線を背後へ送り、自分の手を止めた。

「ごめん。実希みのりによくこうやっていたからつい」
「そう、ですか」
 指が離れていく。じんわりと伝った他人の温もりが急速に冷えていった。界人は目を伏せる。新しい生活に馴染まなければならないのは界人もわかっていた。
 それでも界人は、新しい誰かの気配を感じることに慣れない。温もりを知ってしまえば、失うときの冷たさに心を抉られる。

「冷えたね。戻ろうか。充君も心配しているから」
 握られた手に引かれて、界人は歩き出す。
 彼の心は冷えた檻の中で、凍えながら脈打っていて、誰の手も届かない。だが心のわだかまりを溶かすのをまた温もりだ。
 失うとわかっていても、いっときの冷えゆく温かさに、凍りついた心は揺さぶられるのだった。
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