哀夜の滅士

兎守 優

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1 縁罪

6 血の縁

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 忘れていたはずの、鬱々とした日々が少しずつ、彼の体を這い回るが毛ほどにも表には表さない。彼の虚空を見つめるあかい目は、数刻前と違わず、愁いを帯びた平素のままだった。

おぎくーん、ルームメイトをお届けに上がったよ」
「は、ちょ、っと朝まで預かるのでは」
「うーん? お風呂にさ、まだ入ってなくて。永野君も。それとも二人で入っていいってことかな?」
「疲れて頭でもおかしくなったんですか、実希みのりはもう寝てるんで廊下で騒がないでください」

「はーい。またね、永野君」
 表情を変えずに界人が考えこんでいるうちに、は彼の背中を押して踵を返してしまった。

「あ、ありがとうございました。おやすみなさい」
 接吻程度で済ませてもらえたのだから、感謝をしなければ。真意の読めぬ、と良好な関係を築かねば。
 界人は言葉を紡いだが、は振り返らなかった。ただ手を挙げて、彼は隣の部屋に入っていってしまう。伸ばしかけた腕はまたも引き留められた。


 憂うような、恍惚としたような、あいまいな表情を浮かべて、仮の縁の相手を見送る姿。それがもし恋しいという感情ならば、充にも覚えがあった。
 離れられない。離れるほどに、心が引きちぎれそうになる。恋しいという胸の痛みはやがて、激しく身を焦がすほどの哀しみへと変わっていく。
 仮であっても縁を結べば互いに惹かれ合わずにはいられなくなる。ましてや本縁を結んでしまえば、魂が絡みついて離れられなくなってしまう。

「風呂。温め直してくるから」
 入り口で突っ立つ界人を引きこんだ充は、彼を居間に残し、風呂場へ行った。だが、すぐに脱衣所から顔を出して、界人を呼んだ。
「やっぱついてきて」
 界人と充は二人して着衣のまま、浴室へ足を踏み入れた。充は炊事の件から、彼が風呂事情にも詳しくないのではと心配になってしまっていた。

「これ、シャワーな。蛇口をひねると、シャワーヘッドからお湯が出てくる。これがバケツ……いや、手おけだ。この石けんで洗う。浴槽に入るとき、足を滑らすなよ」
 石けんにそろりと手を伸ばそうとした界人の手を充は止めた。咎められた当人は拗ねる素振りも、言い訳を口にするでもなく、ただ興味深そうに、角の丸くなった石けんを見回している。

「石けんで洗うのは衣服だけだと思っていました」
「石けんで体を洗う以外に、どうやって洗うんだ?」
「湯浴み、と言ってわかりますか?」
 湯浴みと言われ、充が勝手に描いたイメージは、かいがいしく世話係に湯をかけられる姿だ。

「浄めの儀式みたいな扱いだな。お湯だけでは洗わないが一般的だが、強いていえば現代ではそれを湯シャンというんだ」
「ユ、シャン」
「お湯のシャンプー」
 まさか、入浴は本当に世話人にしてもらっていたのではないか。充は界人に、一人で行う日常生活を早々に教えこまねばと使命感に駆られた。

「やっぱダメだ。旭さんには絶対言うなよ。心配だから今日だけ、永野と風呂に入る」
「ありがとう……?」

 互いに裸になったがこの際、恥ずかしいだの、直視できないなどとは言っていられない。これも指導のうちだと充は割り切って、界人が浴槽で足を滑らせないか注視していたが、彼は一糸まとわぬ姿でもまったく動じていない様子である。
 湯の煙をまとう肌は色香を漂わせており、あかい目がよりいっそう妖しげな麗しさを際立たせており、充は目のやり場に困った。

「こうやって誰かとお風呂に入るの、いつぶりかな」
 充の気も知らずに、湯船に浸かるなり、界人はのんきに息をついて緩んでいた。
「ガキの頃はみんな誰かと入ってただろ。んじゃないと溺れるから」
 肌が湯に隠れ、幾分か視線を向けられるようになるも、充の注視する目は休まらない。界人は充より背が高い。だが、湯を半分以上、張っている浴槽は、成人男性でも、眠ってしまえば、簡単に溺れてしまうのだ。

「溺れないようにって膝に乗せて、よくお風呂に入れてもらいました」
「……いい親父さんだな」
「いいえ。父様ではないです。いつも一緒にいてくれたのは、俺の、兄のような人でした」
 そう言って界人の目から流れ落ちたのは、汗ではない。目尻から膨れ上がって、次から次へと静かに、雫がほおを伝って滴り落ちていく。

「どうし、た」
「でも、もう会えない」

 泣いていて悲しそうなのに、どこか微笑んでいるようで。何ともとれぬ界人の表情は、充の目から見て、あきらめとも取れた。
「すみません。いきなり」
 「俺もさ」と充は気づけば口にしていた。

「家族にはもう会えないんだ」

 充は家族について、口にする気はさらさらなかった。なのに、界人の流した涙につられ、奥底に沈めたはずの過去が、勝手に感情に乗ってあふれてしまった。
「兄貴分に可愛がってもらった。みんな、みんなもう居ない」

 来る日も来る日も、暗い部屋、布団の上で時を待つばかり。外に出ることは叶わないのだろう、幼くして悟ってしまった日々。思いもかけず、縁を結んで、薄暗く静かな世界から連れ出してくれた義兄。内緒で屋敷の外へ行っても、見守っていてくれた家族。温かく、美しく、まぶしい日の記憶。

 いつもいつも、守られていた。あの日、噴き出したあかが幸せな時間を塗り替えてしまった。
 縁が生まれつき薄く、生涯、縁を結び続けなければならなかった。それなのに、縁の相手を失った。自分も死ぬはずだった。なのに、生き延びている。

 家族は最後まで、守り抜いてくれたのだと知り、そして、今もすぐそばで縁として息づいて、生かしてくれている。そうして魂に絡みついた縁が、この世にもう居ない相手を求め続けるのだ。
 至極幸せなはずなのに、会えない寂しさが募って、充の胸は焦がれる。

 欲しても、欲しても。あの日々には決して戻れない。パシャリ。もうこれきりだと、充は湯を叩いて、止めどなく思いめぐってくる過去を押しとどめた。
「でもさ、俺はこの寮の、旭さんや実希みのりゆうせいのこと、新しい家族だと思えたから、少し救われたんだ」

 今ある家族と。たとえ、血の繋がりがなくとも。充にとって今の居場所は、かけがえのないものとなっていた。
「俺、家族はいるんです。弟が一人」
「旭さんがそういや言ってたな」
 界人はまたぎゅっと眉根を寄せる。苦しい表情を浮かべ、顔を歪めても尚、彼の美しさは損なわれなかった。
 その打ちひしがれた姿がよりいっそう美しく目に映るのはなぜだと充の心はざわめく。

「一番そばにいてくれた大切な人は命を落としたんです、俺と弟のために」
 ああと、心でつぶやく。充はその感情を知っている。やる瀬なさと絶望と、そして、後悔の味がする苦い雫を。
「じゃ、永野も弟くんもその人のために幸せにならないとな」
 自分で言った言葉に、充はハッと息を呑んだ。

 その夜、充は夢を見た。覚めたくない、長く幸せな心地の夢を。もうあきらめたはずの過去の幸せがめぐって、どうしようもなく枕元を濡らした。
 苦い涙が鼻を伝っていって、流れていく。のどから腹の底へ血潮が落ちていく。亡き相手と結んだ、約束。生涯、破られることはない。

 幸せだった家が惨状へ変わり果てたあの夜。凄惨なあかが広がる海で、無傷で生きていたのは自分だけ。生き残れた秘密を知る者は、この世でもうただ一人きり。
 なぜあんなことをしたのか。許されるはずのない背徳行為。これは罪だ。一人だけ生かされたのは罰だ。

 記憶を呼び起こすだけで、その身はよじれ、切り刻まれる。
 誰かに見られたかもしれない。ならばその姿はどう映っただろうか。こぼれた愛を掬ってすすろうとする、愚かな蛮行は。

 許されはしない。涙とともに落ちてくるえんの味が充を震え上がらせるのだった。
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