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1 縁罪
5 仮の縁
しおりを挟む深い夜が訪れる頃、充達の部屋の戸が叩かれた。すぐに足を向けた界人を制して、充が出迎える。
「布施だ。今、いいかな?」
たずねてきた相手は紅葉寮の寮長、布施旭だった。畏まろうとする界人に微笑みかけて彼は、招き入れられるなり、スンと鼻を鳴らした。
「いい匂いだね」
胃が冷えていくのを充は感じていた。彼は平素はインスタントのみそ汁しか飲まない。彼の〝特性〟ゆえ、彼はあることができないからだ。
旭には、できあいのものの香りではないとわかったのだろう。アレを握れるようになったのだと彼に変に期待を抱かせてもいけないと充は、自分が作ったのではないとすぐに言わずにはいられなかった。
「みそ汁ですよ。永野が作ってくれて」
「すっかり胃袋を掴まれちゃった感じかな?」
「からかうの、止してください」
素直に自分の手柄ではないと申告したのに、充は旭に遊ばれてしまい、出鼻をくじかれた。
「先にお風呂、上がっていいよ」
「いえ、先に報告が……」
本来ならすぐにでも告げるべきだった、先刻の結界内で起きた、月喰いの侵入。大事にいたらなかったとはいえ、結界を張っている者たちが気づかないほどの事態だ。充は報告を済ませねばと続きを口にしようとしたが、遮られる。
「解決できたのなら後回しでいいよ」
旭はそう言って手をヒラヒラと振り、部屋に入ってきたときと変わらぬまま、微笑んでいる。
どう返すべきか。彼の思考も態度はあやふやで読めない。しばし考えこんだあと、充は「はい」と頷くにとどめた。
「お言葉に甘えて」
旭はコミュニケーションの一環で可愛がっているつもりのようだが、充はどうもいいように右へ左へ揺らされている気がしてならない。くせ者ぞろいの教員たちの中で、潰されずに長いこと教職に就いているのだから、のらりくらりな処世術みたいなものも染みついてしまったのだろうが。
世渡りが下手な自覚のある充としては、非常にこれがやりにくい。早々に風呂に切り上げようと、彼は風呂に逃げこんでしまった。
充が風呂場へ姿を消せば、二人のやり取りを黙って聞いていた界人が口を開く。部屋に残された界人は、立ったままで話しこんでいた布施に席を勧めた。
「おみそ汁、召し上がりますか?」
「頂こうかな」
鍋のふたを開ければ、みその濃い香りがぶわりと室内に広がる。藍色のお碗によそったみそ汁を界人は布施に差し出した。
「どうぞ」
「それ、いい眼鏡だね。荻野君から?」
みそ汁をよろこんで受け取ったかと思えば、布施は界人の眼鏡に興味を移していた。レンズ越しではあるが、布施にマジマジと瞳をのぞきこまれ、界人はドキリとして、身を引いてしまう。
「生徒たちが怖がるかもしれないと」
「まぁ、距離感に慣れたら部屋では外してもいいんじゃないかな」
布施は視線を外して、いただきますとみそ汁を啜る。ふちから口を離した彼の目は瞬きをして、椀を見つめていた。
「確かに美味しいね。いい出汁が出てる」
褒められた界人は肩に力を入れ、彼の隣で控えめに笑みを浮かべた。
布施も笑みを絶やさず、料理の感想をさらりと述べる調子で彼にこう告げた。
「金曜日の夜。私の部屋に訪ねておいで。毎週きっちり。いいね?」
「は、はい……」
毎週金曜日、そう界人が頭の中で反芻して立ち上がったとき、突然、体がぐらついた。へなへなと頽れはじめる界人を布施は抱きとめ、抱え上げる。
「縁が弱まっているようだね。少し早いけど、結び直しておこうね」
下ろされたのはふかふかのソファーの上。母の膝枕に似た心地に包まれたが、界人は安らいでなどいられない。
荒く呼吸して涙目の界人から、布施は眼鏡を取り去った。
「失敬するよ」
視界がぐにゃりと曲がる。柔くて質量のある空気を唇で食む感覚に、気味の悪さで界人の身は捩れ、ビクリと跳ねる。
苦痛に歪み、力んでいた彼の体は、急速に力を失って沈んでいった。
「旭さん、上がりま」と言いかけた風呂上がりの充は、ソファーで界人に覆い被さる格好の旭を凄んだ。
「俺の部屋で何してるんですか」
「言っただろう。私は界人と縁を結んでいると」
「合意の上ですよね!」
これが合意でなかったとしたら、一大事だ。俺は今の界人──永野のことをよくは知らない。恩人である旭さんに面倒を見てほしいと頼まれたから、生活をともにするだけ。
縁を結ぶ行為は本来、神聖な契りで、大前提に相互の同意あってのもの。素性をほとんど知らない者とはいえ、その相手の同意なき縁結びであるなら、充は看過しかねる。
「うーん、仮の縁だからなぁ。仮でも結ばなければ彼は死んでしまうから」
仮の縁。死。充の心臓に冷たい刃が刺さった。縁が切れてしまった者の行く末、彼らがどんな地獄へ落ちていくものであるか、充はよく知っていた。
合意と失わゆく命、どちらを優先するかなど、わかりきっている。
「お、俺、ヤサオの部屋に行くのであとはお好きに」
「こら。ちゃんと話を理解しなさい」
「馬乗りでよく冷静でいられますね」
早く逃げたい充を呼び止め、代わりに扉を開けるよう言うと、旭は界人を抱き上げていた。
「わかった。界人は私の部屋に運ぶから」
「旭さん!?」
「朝礼の時間には起こすとも。おやすみ」
あまりにも突拍子のない旭の行動に充は、言葉も返せず、ぼう然と見送るしかなかった。
起きなくては。そう思うのに、界人は目覚めることができない。自分の意識が自由にならない夢をまた彼は見ていた。
母と過ごした幸せな幼少期、母を喪った日の静かな怒り、弟の郁に掘っ立て小屋でおにぎりを食べさせた日々、従者であったセツキの最期、それ以外の記憶は濁っている。
永槻の屋敷で成人の儀を迎える辺りから、記憶は細切れで、何が現なのかわからず、夢見心地でいた。ずっとずっと、覚めない夢の中にいた俺はようやく自分の意志で、弟である郁に触れられる、そう思ったのに。
ここは十二月学園の教員寮、紅葉寮だ。郁、そして、かけがえのない従者であったセツキと暮らした永槻の屋敷にはもう戻れない。否、あの過去の柵がはびこる場所へは、二度と戻らない。界人は固く誓う。
忌子として殺される運命にあった郁を救ってくれたセツキは、もういない。郁しか家族はいないのに、そばにいてやれないなんて。入院中も一度だけで、退院してから郁には一度も会えていなかった。
「お目覚めかい?」
気がかりな弟のそばにいられないなんて、地獄でしかない。目覚めたくはなかったが、寝てばかりもいられない。一刻も早く、社会奉仕に励み、郁の立場を守ってやらねばならないのだ。
倦む気持ちを散らして、界人は起き上がった。
「布施……セン、セイ?」
「それはこんな状況下ではイケナイ関係に思えてくるから、部屋では布施さんか旭さんと呼んでくれるとありがたい」
目や表情、息づかい、どれを取っても、読めない。この人の思惑は何なのだろうか。
たとえ手懐けられて搾取される運命になるとしても、布施という者に頼ることしか、今の界人にはできない。
郁を救うため、闇縫いの刀で縁を斬ってしまい、致死の運命にあった界人を布施は助けてくれたというのに。ひどい妄想だと界人は自嘲気味に内心笑う。
だが助ける行為は、無条件にとはいかないものだ。向こうにも代わりに叶えてほしい願望や条件があるはずだ。界人は考えめぐらせながら、彼を見つめ続ける。
「縁を結び直した反動で少し意識を失っていたようだが、うん、もう大丈夫だ」
「結び直す……?」
「仮の縁だからね。本縁とちがって効果の持続時間が短いんだ」
仮の縁、本縁と界人がうわごとのようにつぶやいていた唇に、人差し指が触れた。
「ここに触れるのが一番早い」
触れられたところで、界人はどう反応すればいいのか、迷った。
「俺は何をすればよろしいのですか?」
「じっとして身を委ねてくれればいいよ」
「毎週金曜日、きっちりね」と布施はまた告げてくる。
「さて。まだ荻野君は起きているだろうから部屋に帰ろうね」
布施の言葉はもはや届いてはいなかった。そうかと界人はひとり合点していたからだ。
宴の席の裏で、欲が愛を貪る。逃れられない、閉ざされた箱の中、暗闇がデコボコと隆起して、絡み合う。醜悪な交わりが淡い月明かりに照らされていた。
もうすでに穢れている、この体を渡すことは造作もない。郁のためならば。
愛する唯一の肉親のためなら、界人は何をされたって、構わない。
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