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1 縁罪
3 呼べないもの
しおりを挟む「ここで今日から俺と暮らす」
扉を開けるとパチンと音がして、ぶわりと明かりが広がる。そこは罪人を捕らえておく無機質な収監用の檻ではなく、家具が置かれた部屋であった。
「と言っても、寮だから他にもメンツいるけど」
檻ではなくここは寮。寮という言葉の意味を界人は考える。
建物内に立ち入った際、左右に二つずつ、扉があった。部屋が複数あるということだ。
扉、扉が点在する、大きな家──屋敷と認識していた場所で暮らしていたと界人は生家を思い出す。使うのかわからない部屋がいくつもあり、鍵のかかっている部屋を避けながら、廊下を渡り歩く。幼少期は母のいる部屋を探して迷い、彼が戸惑ったこともしばしばだった。
「部屋がいっぱいある家で暮らしていましたので、他の方がお住まいでも、構いません」
「……敬語」
「も、申し訳」
「少しずつ慣れればいい」
目に映る界人の視界が突然、乱れ揺れた。カチャリという金属音が彼の耳のそばで聞こえ、目の前には表情の変わらない充の顔が近くにある。
「生徒に驚かれると良くないからかけた方がいい」
「眼鏡?」
「鏡、見てみ?」
指さされた鏡の前に界人は立ち、眼鏡を外し、映った姿をのぞき見る。映る瞳は深紅に染まっていた。
再び眼鏡をかけると、瞳の色は煮出しすぎた紅茶色に変わり、まるで他人の目のように見える。
眼鏡をつけたまま、界人は充の瞳をのぞきこんで確かめてみる。彼の目もアールグレイと同じ色をしていたが、界人の色とはちがい、少し薄い。
驚いて身を引く充に、界人は目を瞬かせた。
「な、何だよ」
「す、すみません。この眼鏡、見方がわからなくて、距離感が掴めないもので」
「わかった。思ってるよりも離れた方がいい。ただし、おい!」
ソファーのひじ掛けにつまずいて、背が布地の上を滑り、長い手足がきれいにソファーに収まる。背中に弾力のある布を感じた界人は何の気なしに疑問を口にした。
「これは、布団ですか?」
「後ろ返って反応がこれかよ。イスだよ、イス」
「ふかふかしたイスは初めてです」
柔らかさと温かさに包まれる。じんわりと伝う温もりに、母の膝枕を界人は思い起こした。
何歳になろうとも、母は手招いて彼を膝に寝かせる。かわいいかわいい、私の子と言い、子守唄を聴かせながら。
愛を惜しみなく注いでくれた母はもういない。
温かいまどろみの記憶が界人の胸に染みる。
家の中で最も忌み嫌われる下層を表す黒衣をまといながら、なお母は気高く美しく。隔離された箱庭で界人を待つ直前まで、離れの縁側で悲しそうに郁子の花を見つめていた母の横顔。
母には待っている人がいた。
当主の嫡男とされながら、序列の低い者を表す色の濃い衣を身にまとっていた界人。彼は、自分には本当の父親がいる、と心の底でずっと思い続けていた。
母が焦がれる者こそ、その父親にちがいないと。
「おい、永野界人」
倒れこんで動きのない界人の腕が引っ張り上げられる。
「その眼鏡、まじないをかけてある影響で、目の動きの反映が鈍くて、相手から止まって見えることがある。だから、話すときは不自然に思われないよう、気をつけろ」
充に体を起こされ、そのまま手を引かれて、界人は壁際まで導かれた。部屋の中にまた扉が二つある。そのうちの一つの扉の前に、界人は立たされる。
「早速、明日の朝礼から実習生として入るからな」
「はい、荻野先生」
「その呼び方はこの部屋以外でしてくれ」
新しい誰かを名前で呼ぶこと、閉じた一族の中で暮らしてきた界人には、新鮮なことばかりだ。
困惑ばかりなどしていられなかった。亡き母のために、今も生き続ける弟である郁のために、外の世界で生き抜いていかなければならない。
「で、ここが永野の部屋」
ドアノブを触るばかりで開けようとしないその手ごと充に握りこまれ、界人は部屋のドアを開けた。
机とイスとベッドと寝具一式、縦に細長いクローゼット、そして三段の棚。こじんまりとした部屋にしつらえてある家具は必要最小限のものだけである。
眼鏡越しに、部屋を見回したその茶色の瞳に映ったのは、ベッドだった。ナチュラルな風合いの木製のベッドフレームに、真っさらなシーツ、それから丁寧に折りたたまれた掛け布団。部屋を見渡す目が輝いていた。
「もしかして、これがベッド!」
「そうだよ……」
少し呆れたように充の相づちが打たれる。界人の興味が次々と移る前に、充に肩を掴まれ、部屋から強引に出されてしまった。
『生きることが罰だということですか?』
界人の問いに、充は答えられなかった。月喰いに丸腰で対峙した先刻、界人に、『生きようとしない死にたがり屋』と声を荒らげたにもかかわらず。
あれは少々言いすぎた。
刀を握れやしない自分が、何をえらそうなことを。預かる生徒を守るべくとっさに最善を尽くせなかったくせに。
あの場ですぐさま呪詛を放ち、光で影を散らして、早く逃げれば安全だったはずだ。
充は内心、反省と同時に自責の念を感じていた。永野界人は充が初めて病室で顔を合わせたあとから何ヶ月もの間、昏々と眠り続けていたのだと、充は布施旭から聞かされていた。
再び目を覚ましたと報告を受けたのは、一ヶ月ほど前。それから安定して目覚めており、連れ出しても大丈夫だという旭の判断で、忙しい彼に代わって充は、界人を連れ出した。
何ヶ月も歩いていないとは思えないほど足取りはしっかりとしており、本人には、病室に運ばれてから長く眠っていたという自覚があまりない。
だが充から見れば、界人はまだ夢の中をさまよっているようにも見えた。非常事態を深刻と捉えていなかったり、不注意でつまずいたり、意識が宙に浮いてしまっている。
何が現実なのか、早々に教えこんで、夢から引き戻さなければ。
充は使命感に駆られて、つい強く言いすぎてしまったと悶々としながらも、界人の動向を注視する目だけは逸らさなかった。
生徒として受け持つことになった界人を寮へ引き入れて、彼の部屋を充は案内した。だが、すぐに引っ張り出す羽目になった。
「あとは追々説明していくから、晩飯にしようぜ」
個部屋から出しても、また視線をさまよわせて、辺りを見回しはじめる始末。彼の目からは、興味津々さと周りへの新鮮さがまったく失せていない。何か界人が疑問を口走る前に、充は先手を封じて口を出さざるを得なかった。
「夜に食べる飯のことだ」
「ご飯のことはわかります。朝、昼、晩。三食ですよね」
「そう、だ」
充は言葉をためらい、しばし逡巡する。
いつ何が界人の興味の琴線に触れてしまうのか、わからない。だが、早々に彼には生活というものに慣れてもらわなければならない。落ち着きのない生徒を受け持つ気分に、充はなっていた。
「特に昼。勤務中は寮に戻っている時間はないから、基本、食堂に行く。が、いきなり食堂に行くのはまずいから、しばらくは俺が作る」
「俺も作ります」
「料理できるのか?」
充は思わず聞いてしまった。
永野は口ぶりからして、大きな屋敷で暮らしていた。大所帯で暮らしていれば、炊事は女性の仕事。男は手を出してはならないとさえ言われているからだ。
「おみそ汁とご飯は作れます」
「上出来だ。男でそこまでできるなんて、中々優秀じゃんか」
充は鼻頭を擦った。台所に立ち、こぶしを何度も握りしめる。
「お勝手に入りこんでおむすびをよく作って、ついでにおみそ汁の番もしていましたから」
まな板はまだ台の上に置いてはいない。あれは台所の下収納に収まっている。握れないとは悟られたくない。
充は食堂の話に気を逸らさせた。
「昼飯さ、食堂で頼んでもいいが、せっかくだから、おにぎりを作って手作り弁当でもいいぜ」
「おにぎり?」
「あー、まぁ、おむすびの別名だ」
「朝早く起きて頑張ります」
まだ触れない、あれには。
充は台所の脇に別置してある棚に、重い足を無理やり向けた。
「まずは炊飯器の使い方からな」
「すいはんき?」
「米を炊く機械のことだ」
「お米って釜で炊くのでは?」
永野が身ぶり手ぶりで示す釜は、相当な大きさをうかがわせる。
どうやってそんな規格外の大釜で飯を炊くというのか。だが興味が広がっても困る。
充はそこはあえて指摘せず、炊飯器の前に立った。
「釜なんてないし、これは米を研いで水を適量入れて、ふたしてスイッチ入れるだけで勝手に炊ける」
丸みのあるこじんまりとした家電を充は指さした。
「す、すごい」
「この計量カップすり切り一杯が一合。この底の丸い釜に米を入れて研いで、一合ならこの目盛りまで水を入れる」
「これは小さくて便利なお釜ですね」
しげしげと空の釜を眺める界人に、充は界人が使っていたという大釜とのちがいを説明すればいいのかと思案した。
「そういや、釜って言う以外、適当な表現が見当たらねぇな、この丸底の釜って」
初めて尽くしなんだろうな。
界人の興味が止まない姿を横目で見つつ、充は米で満タンにした計量カップを示した。
「で、これで五杯すくって、この釜で五合炊く。今週は俺が当番だから、旭さんと、あとで紹介するが実希とヤサオじゃなくて、雄生の分も」
「五合……五人なら足りますね」
「一人一合計算ならな」
「いえ、二十合は炊いていた記憶がありますから、減ったなと」
「想像もできない、飯の山……」
頭の中で五合の釜飯を四つ並べてみるも、充はどうしたらそれが胃袋に収まるのか、想像がつかなかった。
「さっさと飯食って、今晩までに一通りの学園生活のイロハを覚えてもらうぞ」
台所に備えつけのいくつもある扉に目がいっていた界人に、「台所の下の扉な、調理器具があるから、慎重に開けてくれ」と充は念を押した。
炊き上がった炊飯器から釜を取り出し、各部屋に配るため、充は少しだけ、界人を一人にして部屋を開けてしまった。各部屋で少しずつ捕まりつつも、早々に話を切り上げて戻ると、部屋からみその香りが流れ出していた。
「みそ、汁?」
慣れたインスタントのみその匂いではなかった。濃く香るみその匂いが懐かしさをかき立て、彼の胸をつつく。
部屋に戻って一番に、充の目が動いた先は、台所のまな板がある、下収納だ。
具材を使ったということは、アレを使ったにちがいない。
調理器具を置いた形跡はあったが、もう元の場所に戻されており、充は安堵とともにため息をこぼした。
「勝手にやるとは思わなかったが……うまい」
「お口に合って良かったです」
「味つけ、上手いな。いい嫁さんになれる」
一瞬だけ、その表情がかげった。どうしたのだろうと充がよく目を凝らす頃には、あいまいな顔をして笑う界人の姿があるだけだった。
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