1 / 52
1 縁罪
1 罪を歌う声
しおりを挟む誰かが泣いている。胸を焦がすほどの哀しみが、膨れ上がる。鳴き声がした方へ、夜のベールをまとった焦茶色の髪が舞う。
振り向いた彼は永槻界人。新雪を思わせる肌色に、愁いを帯びた表情。儚く清廉な見た目とは裏腹に、自覚なき重罪を背負っていた。彼の潔白に染みつく一点の影、その血に濡れた紅の瞳は、罪証に他ならない。
「あれは、どうしたんだろう」
闇が薄く下りた茂みが奇妙に隆起し、さざめいていた。
「アレはここの内には入れない」
界人の先を行っていた男、充の「いくぞ」と凛とした声が、冴える夜に静かに溶けていく。声に呼応した何か──夜の影が伸びて草かげをなでる。
見えぬ壁の前で、立ち往生している人ではないもの。音もなくボコボコと膨らみ、大きくなっていく黒いかたまり。
人ならざるものは、透明な壁の向こうで踏みとどまり、ボタボタと溶解しながら、悲鳴を上げている。
見えない壁である結界に阻まれ、人の形を忘れてしまったソレは、地に黒い嘆きを落として、通れない壁の前でひしめいていた。
「マダ アソブゥ」
敷地内、界人の足の数メートル先の地面から土塊が咲き、そう口走った。ハッと息を呑む声がする。
「そんな。結界内だぞ」
元より何も持たない界人をかばうように、彼の前へ進み出た充が、左の腰に手をかけるも、その手は空振る。夜を渡るなら、腰に差すべきもの、夜ノ怪の一種である月喰いを粛清する使命を課された、月のしるべを携帯しているのが常。
夜に巣くう異形を滅する、頼みの刀──影斬刀を持たずに夜道を歩くのは、命をなげうつ行為に等しい。
しかし界人と充が移動していたのは、まじないを張りめぐらせた結界の内側。本来なら安全地帯だ。だというのに、それは結界を越えてきた。
結界内で起きた異常事態を前に、二人は丸腰状態だった。充の舌打ちが小さく鳴る。
「急げ、月喰いは影斬刀でないと倒せな」
「おかえり」
界人の口から優しい子守唄の終わりが紡がれる。不用意な物音で起こしてしまった子を寝かしつけ終えたような響きが夜を伝う。
泣く子にイラ立ち、叱るでもなく、見ない振りをするわけでもない。界人の態度はまるでわが子を慈しむような柔らかいものだった。
子守唄の音に反応を示し、生まれたばかりの土塊の動きが止まった。
「君のお家へお帰り」
微笑を浮かべた口元がまた柔らかく歌い、諭した。地に繋がれてしまった縁を刀で断ち斬ることでしか、滅することのできない月喰いを哀れみ、手懐けるように。
夜の闇から出でて、月の祝福を受けてこそ、月喰いは地上へ躍り出ることが叶う異形。だが月明かりの中、成長するはずだった月喰いはあっという間にしゅるしゅると黒煙を上げながらしぼんで、雲散していった。
消えゆく影を見つめる紅い瞳。毒々しさを宿したその目は、慈愛と憂いに満ちている。閉じていく闇を追うように、流れるような仕草で手を伸ばしかけた界人の腕は、強く掴まれ、引き戻された。
「なぜ、あんなことを?」
歪に隆起していた影は消え、向こうの暗がりには、もう背の低い植えこみばかりが並ぶだけ。見送った影の姿が見えなくなっても、界人の紅い瞳は静かに暗闇を見つめていた。
『なぜあんなことを』と問われて、しばしの沈黙ののち、一度、まぶたが落ちて、界人の目は伏せられる。脳裏に浮かぶ何かが彼に訴えている。
カギのかかった扉の前。音を立ててはならない。その錠前を何があっても壊してはならない。
なぜと疑念が渦巻く。この先へ行かないと。早く、でも、なぜ、誰がそれを止める。
どこからか聞こえた金属の擦れる音が、立ちのぼる思考のもやを斬ってしまった。
まぶたを開けると同時に、思念を振り切り、界人は詰めていた息を吐いた。充の声に応じて振り向き、嘆く子を帰した理由を彼はようやく答えた。
「親が向こうで呼んでいたから、ですが?」
「ちがう。アレは月喰いだ。惑わされるな」
充はすぐに強く否と言った。界人の瞳にはどう映ったのであれ、月夜に地の底から這い出てくる黒い怨嗟のかたまり、それは月喰いに他ならない。月喰いを滅する宿命の血族、裏月に属する彼らにとって、それは覆らない教えだった。
「アレは人の縁に触れる化け物だ。呑まれたら最後、人として日の下で生きられなくなるぞ」
暗がりの向こうをまだ心配そうに見つめる界人の腕は、強引に引かれる。
「……の界人、どういうつもりだ」
界人は充に引っ張られるがまま、彼と向き合う。強く引いた力とは裏腹に、充の口が戦慄いている。鋭い眼光の中に、わずかな怯えが見えた。
「影斬刀も持たずに万一のとき、月喰いに遭遇したら、すぐに逃げろと生徒に叩きこんでいる。俺は教師だ。生徒に生き延びる術を授けるのが使命だ。生きようとしない死にたがり屋に教える義理はない。わかったら返事だ」
「は、い」
充にまくし立てられ、界人は頷かざるを得なかった。
教師だと言う充に連れられて、早足で建物へ立ち入る。歩く度に軋む床の音に目を奪われていた界人は、充が控えめに叩いたノック音に顔を上げた。
ドアのノック音。隣から横目で見る界人は、ぼんやりと思い起こす。なでつけられた黄土色の髪、切れ長でアールグレイ色の目、朴訥とした表情。この彼を初めて見た日も、同じ音がしていたと。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
トップアイドルα様は平凡βを運命にする
新羽梅衣
BL
ありきたりなベータらしい人生を送ってきた平凡な大学生・春崎陽は深夜のコンビニでアルバイトをしている。
ある夜、コンビニに訪れた男と目が合った瞬間、まるで炭酸が弾けるような胸の高鳴りを感じてしまう。どこかで見たことのある彼はトップアイドル・sui(深山翠)だった。
翠と陽の距離は急接近するが、ふたりはアルファとベータ。翠が運命の番に憧れて相手を探すために芸能界に入ったと知った陽は、どう足掻いても番にはなれない関係に思い悩む。そんなとき、翠のマネージャーに声をかけられた陽はある決心をする。
運命の番を探すトップアイドルα×自分に自信がない平凡βの切ない恋のお話。
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
貢がせて、ハニー!
わこ
BL
隣の部屋のサラリーマンがしょっちゅう貢ぎにやって来る。
隣人のストレートな求愛活動に困惑する男子学生の話。
社会人×大学生の日常系年の差ラブコメ。
※現時点で小説の公開対象範囲は全年齢となっております。しばらくはこのまま指定なしで更新を続ける予定ですが、アルファポリスさんのガイドラインに合わせて今後変更する場合があります。(2020.11.8)
■2024.03.09 2月2日にわざわざサイトの方へ誤変換のお知らせをくださった方、どうもありがとうございました。瀬名さんの名前が僧侶みたいになっていたのに全く気付いていなかったので助かりました!
■2024.03.09 195話/196話のタイトルを変更しました。
■2020.10.25 25話目「帰り道」追加(差し込み)しました。話の流れに変更はありません。

あなたと過ごした五年間~欠陥オメガと強すぎるアルファが出会ったら~
華抹茶
BL
子供の時の流行り病の高熱でオメガ性を失ったエリオット。だがその時に前世の記憶が蘇り、自分が異性愛者だったことを思い出す。オメガ性を失ったことを喜び、ベータとして生きていくことに。
もうすぐ学園を卒業するという時に、とある公爵家の嫡男の家庭教師を探しているという話を耳にする。その仕事が出来たらいいと面接に行くと、とんでもなく美しいアルファの子供がいた。
だがそのアルファの子供は、質素な別館で一人でひっそりと生活する孤独なアルファだった。その理由がこの子供のアルファ性が強すぎて誰も近寄れないからというのだ。
だがエリオットだけはそのフェロモンの影響を受けなかった。家庭教師の仕事も決まり、アルファの子供と接するうちに心に抱えた傷を知る。
子供はエリオットに心を開き、懐き、甘えてくれるようになった。だが子供が成長するにつれ少しずつ二人の関係に変化が訪れる。
アルファ性が強すぎて愛情を与えられなかった孤独なアルファ×オメガ性を失いベータと偽っていた欠陥オメガ
●オメガバースの話になります。かなり独自の設定を盛り込んでいます。
●最終話まで執筆済み(全47話)。完結保障。毎日更新。
●Rシーンには※つけてます。

婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…
まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。
5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。
相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。
一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。
唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。
それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。
そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。
そこへ社会人となっていた澄と再会する。
果たして5年越しの恋は、動き出すのか?
表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる