哀夜の滅士

兎守 優

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1 縁罪

1 罪を歌う声

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 誰かが泣いている。胸を焦がすほどの哀しみが、膨れ上がる。鳴き声がした方へ、夜のベールをまとった焦茶色の髪が舞う。
 振り向いた彼はながつき界人。新雪を思わせる肌色に、愁いを帯びた表情。儚く清廉な見た目とは裏腹に、自覚なき重罪を背負っていた。彼の潔白に染みつく一点の影、その血に濡れたべにの瞳は、罪証に他ならない。

「あれは、どうしたんだろう」
 闇が薄く下りた茂みが奇妙に隆起し、さざめいていた。
「アレはここの内には入れない」

 界人の先を行っていた男、充の「いくぞ」と凛とした声が、冴える夜に静かに溶けていく。声に呼応した何か──夜の影が伸びて草かげをなでる。
 見えぬ壁の前で、立ち往生している人ではないもの。音もなくボコボコと膨らみ、大きくなっていく黒いかたまり。
 人ならざるものは、透明な壁の向こうで踏みとどまり、ボタボタと溶解しながら、悲鳴を上げている。

 見えない壁である結界に阻まれ、人の形を忘れてしまったソレは、地に黒い嘆きを落として、通れない壁の前でひしめいていた。
「マダ アソブゥ」
 敷地内、界人の足の数メートル先の地面から土塊つちくれが咲き、そう口走った。ハッと息を呑む声がする。

「そんな。結界内だぞ」
 元より何も持たない界人をかばうように、彼の前へ進み出た充が、左の腰に手をかけるも、その手は空振る。夜を渡るなら、腰に差すべきもの、ヨルの一種であるつきいを粛清する使命を課された、月のしるべを携帯しているのが常。
 夜に巣くう異形を滅する、頼みの刀──かげきりとうを持たずに夜道を歩くのは、命をなげうつ行為に等しい。

 しかし界人と充が移動していたのは、まじないを張りめぐらせた結界の内側。本来なら安全地帯だ。だというのに、それは結界を越えてきた。
 結界内で起きた異常事態を前に、二人は丸腰状態だった。充の舌打ちが小さく鳴る。

「急げ、つきいはかげきりとうでないと倒せな」
「おかえり」

 界人の口から優しい子守唄の終わりが紡がれる。不用意な物音で起こしてしまった子を寝かしつけ終えたような響きが夜を伝う。
 泣く子にイラ立ち、叱るでもなく、見ない振りをするわけでもない。界人の態度はまるでわが子を慈しむような柔らかいものだった。
 子守唄の音に反応を示し、生まれたばかりの土塊つちくれの動きが止まった。

「君のお家へお帰り」
 微笑を浮かべた口元がまた柔らかく歌い、諭した。地に繋がれてしまった縁を刀で断ち斬ることでしか、滅することのできないつきいをあわれみ、手懐けるように。
 夜の闇から出でて、月の祝福を受けてこそ、つきいは地上へ躍り出ることが叶う異形。だが月明かりの中、成長するはずだったつきいはあっという間にしゅるしゅると黒煙を上げながらしぼんで、雲散していった。

 消えゆく影を見つめるあかい瞳。毒々しさを宿したその目は、慈愛と憂いに満ちている。閉じていく闇を追うように、流れるような仕草で手を伸ばしかけた界人の腕は、強く掴まれ、引き戻された。
「なぜ、あんなことを?」
 歪に隆起していた影は消え、向こうの暗がりには、もう背の低い植えこみばかりが並ぶだけ。見送った影の姿が見えなくなっても、界人のあかい瞳は静かに暗闇を見つめていた。


 『なぜあんなことを』と問われて、しばしの沈黙ののち、一度、まぶたが落ちて、界人の目は伏せられる。脳裏に浮かぶ何かが彼に訴えている。
 カギのかかった扉の前。音を立ててはならない。その錠前を何があっても壊してはならない。

 なぜと疑念が渦巻く。この先へ行かないと。早く、でも、なぜ、誰がそれを止める。
 どこからか聞こえた金属の擦れる音が、立ちのぼる思考のもやを斬ってしまった。
 まぶたを開けると同時に、思念を振り切り、界人は詰めていた息を吐いた。充の声に応じて振り向き、嘆く子を帰した理由を彼はようやく答えた。

「親が向こうで呼んでいたから、ですが?」
「ちがう。アレはつきいだ。惑わされるな」

 充はすぐに強く否と言った。界人の瞳にはどう映ったのであれ、月夜に地の底から這い出てくる黒いえんのかたまり、それはつきいに他ならない。つきいを滅する宿命の血族、うらづきに属する彼らにとって、それはくつがえらない教えだった。

「アレは人の縁に触れる化け物だ。呑まれたら最後、人として日の下で生きられなくなるぞ」
 暗がりの向こうをまだ心配そうに見つめる界人の腕は、強引に引かれる。

「……の界人、どういうつもりだ」
 界人は充に引っ張られるがまま、彼と向き合う。強く引いた力とは裏腹に、充の口が戦慄わなないている。鋭い眼光の中に、わずかな怯えが見えた。
かげきりとうも持たずに万一のとき、つきいに遭遇したら、すぐに逃げろと生徒に叩きこんでいる。俺は教師だ。生徒に生き延びる術を授けるのが使命だ。生きようとしない死にたがり屋に教える義理はない。わかったら返事だ」
「は、い」
 充にまくし立てられ、界人はうなずかざるを得なかった。

 教師だと言う充に連れられて、早足で建物へ立ち入る。歩く度にきしむ床の音に目を奪われていた界人は、充が控えめに叩いたノック音に顔を上げた。
 ドアのノック音。隣から横目で見る界人は、ぼんやりと思い起こす。なでつけられた黄土色の髪、切れ長でアールグレイ色の目、ぼくとつとした表情。この彼を初めて見た日も、同じ音がしていたと。
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