夜威

二 夜蝶散るらん

夜蝶 丹

「ユイ……さん、って思ってたんですけど、それ、下の名前？」

　カウンターで飲んでいた男がバーテンダーのネームプレートを指してたずねる。

「どちらだと思います？」

　ユイは手を休めずに聞き返す。

「うーん、頭使いすぎて回らん……」

　男はグラスを傾けながら、くるくると中身を回していた。

「上か下かの二択ですよ？」

　ユイは彼にピースサインを作って見せた。彼の目が左右に泳いで、右手に定まる。

「じゃあ、上」

　ユイは髪を耳にかけ直して、答える。

「志島しじまさんがそう思うなら上でいいと思いますよ」

「え、どっちなんですか」

　志島しじまがグラスの酒をあおりながら、苦笑する。

「そういう絡みは女性の方が喜びますよ」

　空になったグラスにユイはもう一杯注いだ。

「はあぁ……。もう、ユイさーん、抉らないでくださいって」

　ユイはチラリと彼を見て、さらりと言う。

「フラれたんですか……」

　「やめてくださいよぉー！」と志島しじまが前のめりになって、テーブルにひれ伏し、つらつらと話し始めた。

「俺、舞い上がっちゃったんですよねー。レンカちゃん……って言うですけど、可憐でヒラヒラしてるけど、掴めると思い上がっちゃって」

　志島しじまは手を伸ばして、拳を握る。

「急用だったんじゃないんですか？」

「え？　デート、ドタキャンされたって何で分かるんですか！？」

　志島しじまはユイの指摘に驚いて顔を上げた。

「志島しじまさんの口がそう言いたそうでした」

　ユイはふっと口角を上げて、目を閉じた。

「はぁぁぁ。そんなダダ漏れなお子ちゃまだから遊ばれんのかなぁ」

　志島しじまはカランコロンと回しながら、グラスの中身をあおる。

　「でも、志島しじまさんは」とユイは視線は手元にさまよわせながら告げる。

「何があっても、その方だけを掴むっていう、覚悟を見せたらいいんじゃないんですか」

　近づけようとしていたグラスを離して、志島しじまは上目づかいにたずねる。

「覚悟？」

　彼の視線は合わさることはないが、ユイはその問いに答える。

「そういったお仕事されてる方は疑ってしまうんですよ、きっと。『どうせ飽きられて捨てられるんだ』って」

　「……そうなんすか」と志島しじまは考え込んで、目を輝かせた。

「ユイさん、いつも良いこと言いますね……！　尊敬します」

　ユイは彼に褒められて苦笑する。彼はぐいっとグラスの中身を流し込んでたずねる。

「ユイさんは居ないんですか？」
「恋人……ですか」

　志島しじまは「うーん」とうなって、ふわふわとした様子でこぼす。

「というか、たった一人留めておきたい人？」

　ユイはまた髪を耳にかけ直して、ふっと表情を緩める。

「……志島しじまさん、酔いすぎですよ？」

　灯りの外は底なしの闇がぽっかりと口を開けて待っている。夜の街にこぼれる灯りは、心に染みわたるような安らぎだけではない。同時に心を蝕むような倒錯的な巣窟も蔓延っていた。

　狂った欲望が今日もまた引きずり込まれていく。

　妖艶な女の体を爛々とした獣の目の手と舌が這いずり回った。欲望のままに貪り合った果てに残ったのは、力なく横たわった蒼白の死体だった。

「生きるためなら、なんだってやってやるんだ」

　女は鋭い眼光を湛えて、欲望の成れの果てに踵を返した。