月負いの縁士

兎守 優

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9.醒めぬ夜のララバイ

100 守れなかった約束

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 屋敷の片隅。掘っ立て小屋に囚われている幼子へ、歩み寄る者が一人。
「にーさま」
 濁っていた瞳にほんのりと光が舞い戻る。美しい黒曜の瞳は、母の佇まいを思わせる高貴な色だ。
「ーーー。僕が、兄さまが必ず守るからね」

 視界が暗転する。数多のきらめきが暗闇で瞬き、無数の音を発する。
『ヨイユメ タクサン タクサン ヨエ』

 歌い笑う声が止んだ。静寂を切り開く者は、声が戦慄かないよう、腹に力をこめた。
「成人の儀が終われば、わかっているな? 界人」
 彼は隣に座す息子に怯えていた。息子である界人の発する言葉は重く、一つ一つが肺腑にずしりとビリビリ響くからだ。
「ええ、承知しております、父様」

 黒衣を羽織った若君は、宴の席で歪んだ満月の盃を掲げる。彼の一挙一動に合わせて、家人たちは自らの盃を手に取った。しかし、彼は高く掲げた盃をひっくり返し、床に落とした。落ちた盃が乾いた音を立てる。
「俺は裏月なんて滅べばいいと思ってる」
 赤い絨毯に赤黒い染みが広がっていく。彼の口からこぼれた言の葉は、周囲に伝っていった。

「さあ、血の審判を始めよう」
 血に塗れた黒い羽織を月明かりが暴く。音のしなくなった屋敷に、男の独白だけが、流れては消えていった。

「慣れない感覚だ。いまいち、現実の感触が掴めない」
 男は刀を鞘に収めず、抜き身の刀を手にふらふらと、檻の外へ歩き出した。家のしがらみから解き放たれ味わった自由とは斯くも、新鮮みがなく、味気ない。もうすでに彼と家の縁は切れていたのだ。彼が望むものは、ただ一つの縁。絶対に、離してはいけない、守り抜かなければならない儚い命。

「そうだ。約束してたんだっけな。行かなくちゃ」
 彼が口に出した言葉は全て真となる。たとえそれがただの口約束だったとしても。叶わない願いだとしても。


 濃い血の匂いで目が冴える。大きな月と月明かりをも飲みこむ、黒い大穴が空いた場所。
「な、ん……で」
 叫んでいるのは彼自身だ。彼はなぜこうなってしまったのか、わからなかった。

「なにを、している!」
 男は血と涙に濡れた瞳を声の方へ向けた。揺れる視界に、刃のきらめきを認め、男は反射的に刀を振るった。相手も刀を振りかざしたが、漆黒の軌道が男を切り裂き、「なっ」と声がもれた。

 落ちていく感覚。さらに重いものがのしかかり、落下する速度は速くなっていく。いつまでも落ちた衝撃が振ってこない。目覚めろと、血が騒ぐ。沸騰する血が彼を半ば無理矢理、覚醒させた。

「でたらめな夢ばかり見せやがって」
 暗闇の中に、男──永槻ながつき界人の声だけが凛と響く。
「俺はもっとひどい悪夢じごくを知ってるんだ」
 この体となってしまった、この男の過去を語るにはまだ、機は熟してはいない。ただ一つ。地獄から掬ってくれたのは、いつだって、気高い魂を身に宿した清き者だけだという教訓だけが、彼の中にずっとこべりついていた。
「途方もない悪夢から醒まさせてあげるよ、郁」


 ツギハギの記憶が軋み、悲鳴を上げた。痛みと悲しみの音が郁の中へと流れこんでくる。知らぬ記憶の海に溺れそうになる直前、彼は一気に浮上した。
「郁くん! どこか悪いところはありませんか」
「僕、また痛みで気絶して……」
「もう大丈夫ですよ」
 陽惟の声色が郁の傷ついた心身に染み入り、癒やしていく。郁は求めるままに、陽惟にしがみついた。

 明けない記憶の中で、優しい声が歌っている。また、その声を聞きたい。けれど、その声に身を委ねてはいけないのだ。夢の中であやす歌声に耳を塞ぎ、膨れ上がる思いにふたをして、郁は陽惟の背に回す腕に力をこめた。


九 醒めぬ夜の子守唄ララバイ ─完─ 

   十章へつづく

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