月負いの縁士

兎守 優

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9.醒めぬ夜のララバイ

99 倦まれた日

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 ゆらりゆらり、暗闇のゆりかごが揺れる。誰もが命を接いだ瞬間、初めて知る安らぎ。そして、腹から生まれ落ち、自我が形成される頃には忘れてしまう記 憶まどろみ。これはある〝母〟の夢──

 揺蕩う温い微睡みから浮上する体。濃緑の毛束が幼子を閉じこめるように檻のごとく垂れている。
「あら。起こしてしまったかしら、私の愛しい子」
「母さま」
 見つめる先には母と子、二人だけの世界。美しいその人は黒い着物がよく似合っている。家の人はみんな明るい色の着物を着ていたが、彼は気にならなかった。

「若様。お時間でございます」
 「全く。親子の水入らずに水を差すなんて野暮だわ」と母が凍るような視線を向ける。だから、次の約束を言ってから行かないと。
 幼子はうそにならない約束を口にして、自分から母のひざ元を離れた。
 母の長い髪が最後にするりと惜しむように、彼の背中から離れる。

「母さま。行ってまいります」
「私のかわいい、かわいい子。またおいでね」
 幼子は母が大好きだった。自分も母と同じ、暗い色の着物を着ていたから、なぜ、みんなと着物の色が違うのか、なにも疑わなかった。

「若様。お気遣いありがとうございます」
「いいや。セツキこそ、声をかけてくれてありがとう」
志希しき様には私からお伝えできることはございませんので」
「母さまは身重だから、心細いんだよ。許してやってほしい」

 もうすぐこの家に新しい子が生まれる。大好きな母と心を許せる従者だけの世界で、若君と呼ばれ、期待、羨望、嫉妬、憎悪などを向けられ、倦んでいた彼にとっては、待望の弟だった。こんなによろこばしいことはない。自分と同じ母の腹から、血を分けた兄弟が生まれる。彼がうれしくないはずがなかった。

「弟君のご誕生、待ち遠しい限りでございますね」
「母さまはもう名前は決めているって僕に話してくれたよ。とても母さまらしいと思ったんだ」
 幼子の顔が曇る。セツキは見ない振りをした。

「かわいい、かわいい私の子」
 そう言って母が抱くのは、赤子ではなく、兄となった若君だ。彼は違和感を覚えつつも、待ち望んだ弟を母の代わりに、象牙色のおくるみごと腕に抱いた。ふっくらと温かく、ときおり動く小さな命。早くその声を聞きたいと兄は願いながら、腕を揺らして、子守唄を歌っていた。


「セツキ! ーーーも母さまもいないんだ」
 若君はずっと心配だった。弟が生まれてから、母は気が触れるようになったからだ。精神状態が不安定だった母が、家を飛び出してどこかでケガをしてしまったらと。
志希しき様はもう戻りません」
「なんて?」
「ですから、若様の母君はもうこの世にいないのです」
「なにがあった」

 母の愛情で満たされていた温もりが急に冷えていく。若君の凍りついた表情にセツキは口をつぐむ。それでも、彼はその先を紡がねばならなかった。
志希しき様がーーー様に手をかけようとしたため、河流しの刑に処されました」
 河流し──裏月の重罪人が処される極刑であった。縁を斬った上に、手足を縛り、川に流すのだ。人間として死に、人の生命活動も断たれて死に至る刑だ。

「ーーーはどうした?」
「こちらで安全な場所で保護しております」
「顔を上げろ、雪季せつき
 若君のまとう空気がその一言で、一気に凍りつく。彼の周りの空間は上から押しつぶされたように重々しく、セツキは立てひざをついて地に平伏した。

「僕の目を見て話さないのなら、すべては偽りだと見なす」
 セツキは顔を上げられなかった。遠くから軽妙な足音が聞こえてくる。若君はそちらを睨めつけた。
「お、いたいた。若君クーン、おーこわ」
「なん、だ」
 場にそぐわない愉快げな声がケタケタと廊下を駆けてくる。男の口は弓なりにしなる。濃い茶色の着物を着た、背の高い男。顔は黒塗りでぼやけていて、表情はわからない。

「聞いてないかな? 僕、君の婚約者になったんだ~。戌月いぬづき折秋おりあきね、よろしく」
 「見捨てられた者同士、仲良くやろうよ」と耳打ちされた言葉の波紋が、若君の中に少しずつ、広がっていく。男は軽い散歩の休憩のように立ち止まってささやいただけで、すぐに足を蹴り上げながら、鼻歌交じりに行ってしまう。

「もういい。わかった」
 この家では、明るい色ほど尊ばれ、暗い色ほど疎まれる存在であったのだ。
「誓え、雪季」
 まだ齢は成人には満たず、当主の地位も遠い存在であったとしても。
「今後は僕に偽りなく従うと」
「はい、若様」
「僕たちは共犯だ」
 彼は誓った。必ずこの家の頂点に登りつめてやると。

「あっれー? 若君だ」
折秋おりあき様」
 この人はこの一門で第二位にのし上がった分家の厄介者。手懐けるか、潰すか、いずれにせよ、上がってこられないように牽制するしかない存在だ。
「えっと、君誰だっけ。若君と遊ぶからどっか行ってくれる?」
 若君はセツキに席を外すように言った。この人のご機嫌取りは、重要なことだからだ。

「君さあ、あのゴミクズ君。まだ大切にしてるわけ?」
「そんな者はいないと思いますが」
「あのぼっろい小屋に行ってまいんち、エサやってんだろ。将来、妾にでもすんの?」
 なんのことだかわからない。この人の口から吐かれる言葉は、全て汚れていて、偽りしかない。

「じゃあさ、操り人形にしようよ。僕たちの未来のために」
 若君は繕った笑みを向けながら、心の中でこの男の処遇を決めた。
 絶好の機会が訪れる。出会い頭に折秋おりあきがいきなり若君に斬りかかろうと襲ってきたのだ。そばで控えていたセツキは迷わなかった。男はその場で斬り捨てられた。

「いいか。僕に危害を加えようものなら、家人であろうが、僕は容赦なく斬り捨てる」
 屋敷の者たちは、血に濡れたその瞳に戦慄した。その目を見てしまったら、従わずにはいられない畏怖が染み入り、一門で若君を貶めようとする者は減っていった。
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