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9.醒めぬ夜のララバイ
96 護られた記憶
しおりを挟む月見家の食卓で、夕飯を終えた恒子は、「ねぇ、満生さん」とテーブルを小さく叩く。
「立華さんが居てくださって助かるわねぇ」
テーブルに折り畳んであった新聞をおもむろに広げ、ふいっと新聞で満生は顔を隠してしまった。郁が陽惟を家に連れてきてから、満生は表情も態度も固くなり、恒子は出会った頃の手負いの獣みたいな彼の姿を思い出していたくらいだった。
「あらあら。満生さんったら。郁ちゃんのこと本当にかわいがっているから、取られちゃったと思っているのね」
恒子は満生の左手にそっと触れた。満生はちらりと恒子を見やる。
「郁ちゃん、痛いって苦しそうにしていたけど、すっかり良くなっているみたいで。安心ね、満生さん」
「郁はとてもいい子なんだ。あの子みたいな子が救われなければ誰が救われると言うんだ」
満生は裏月の人間と郁を関わらせるのは、ずっと反対だった。巷には裏月の横暴や悪行の話が絶えないし、裏月の周囲を顧みない戦い方に自身も巻きこまれ、体に大ケガを負ってしまっていた。
満生はため息をつく。あの子が選んだ人なら誰だって受け入れるつもりだった。しかし、よりによってあの裏月の者だなんて。疑念や不安が渦巻いて彼は陽惟の前では、笑うことなどできなかった。
満生の悶々とした気持ちなどつゆ知らず、一足お先に居間を離れ、二階へ上がった郁と陽惟は、二人でベッドに並んで座っていた。
「陽惟さんのおかげで、僕、最近、痛いときが少なくなったんです」
郁がそう言ってうれしそうに笑うと、陽惟はふふと口元を覆って笑った。
「特別な祈祷を施しましたので」
いつもなら二人の間に割って入ってくるはずのもち丸は、部屋の隅で伸びている。もち丸は耳だけ動かして、二人の会話を聞いているようだった。
「最近、むすびが来ないから、少し安心しました」
「それにしてはさみしそうですよ、郁くん」
「むすびが群れに戻れたならいいなって思ってはいるんですけど」
「もち丸もちょっかい出すかもしれませんからね」と陽惟の足元にいつの間にか潜りこんだもち丸を見つけて、彼は言った。
「あの……僕、思い出せたことがあるんです」
郁の方へそろりと行こうとするもち丸を陽惟は、足で挟みこんで止めた。
「白い三角の……おにぎり。あれがいつも待ち遠しかった」
陽惟は黙って郁を見つめた。郁はどこか遠くに思いを馳せているようだった。
「暗くて寒いのに、おにぎりを見るととてもあったかい気持ちになるんです」
むすびと一緒におにぎりを食べた日々を郁は思い起こす。おにぎりを見るとき、胸がじんわり温かくなるのは、それがきっといい思い出だったからなのだと、郁は勇気を出して記憶を手繰っていく。
「小さい頃のこと、思い出すのは怖かったはずなのに、今はこんなにも陽惟さんに話せるぐらい、穏やかに思い浮かべられる」
少しだけ顔を強ばらせながらも、郁は陽惟に笑いかけた。陽惟も柔く笑い返して、郁の手をそっと握った。
「では私の思い出も聞いてもらえますか? 父と幼なじみのことですが」
「はい!」
元気よく郁が返事をすると、陽惟の足の拘束からちょうど抜け出したもち丸が、勢いよく飛び上がって郁のひざに着地した。驚いて郁の手が浮いても、陽惟は彼の手を離さなかった。
「父は私に惜しみない愛情を注いでくれて、私も父が大好きでした。仕事で長いこと家を空けるときはそれはもう寂しくて」
ひざの上で落ち着く場所を探すもち丸を片手で撫でながら、郁は陽惟の方をじっと見つめた。
「父が親交のあった梅見家の……双天さんにはよくしてもらいました。彼が私に、ハネルと寧を紹介してくれたのです」
ハネル、聞いたことのある名前だ。郁は音の響きを頼りに、すぐに記憶から答えを引っ張り出した。
「ハネルさんは確か、宇津木さんの奥さんですよね」
「ええ、まあ。よくあの破天荒なハネルが宇津木さんみたいな凡人を選んだなあと。今でも驚いていますよ」
「凡人……」と郁は反芻した。ずいぶんと辛らつな評価だったが、彼は特段気に留めなかった。それよりも、あの物騒な雰囲気の人をやりこめられるなんて、奥さんはどんな人だったのだろうかと彼は考えていた。
「寧はね、今の睦樹家の当主です。彼は私より重度の陽退症で長いこと伏せっています」
陽惟さんにも親しい人がいっぱいいたんだと思うも、陽惟の話に出てきた人は、今、誰一人として、彼のそばにはいないことに、郁は気づく。『私の縁は短いのです。だから、すぐに切れてしまう』と言った陽惟の言葉の真意が、ようやく彼の心に染み入ってきた。
「たいへんでしたね、陽惟さん」
「そうですね。振り返ると会えない人ばかりで」
なにも知らずに、『何度でも結びましょう』と口にした。軽い気持ちではなかったけれど、もっと真剣に伝えなければならないと郁は思う。
「僕は、陽惟さんのこと、離しませんから」
「ふふ。ありがとうございます、郁くん」
陽惟のその微笑みは、甘味を口に運んで顔をほころばせるときの表情によく似ていた。郁はハッとして、祝祭の景品のことを口にした。
「そう言えば陽惟さん。なかなか機会がなくて行けなかったんですが、来未通りのお菓子券、ようやく使えそうです!」
「そうでした。それはとーっても楽しみですね」
日が落ちる頃、一緒に行きましょう。郁は陽惟と約束をした。
うれしそうな顔をして眠りについたはずなのに、郁は苦しそうにうなってなにかを口にした。
「にぃ、さま……」
陽惟は髪をすいて額に口づける。郁は明らかに、あの話題を避けていることを彼は、薄々感じ取っていた。
あの男──永槻界人が本当に郁の実の兄だとして、今はまだ十分に動ける体ではないと陽惟は踏んだ。亡き水無月和枝が口にしていた、『暮れ枯坂で、闇縫いの刀を振るい、縁を斬ってしまった男の子』こそ、永槻界人に違いないと。
「しかし、時間の問題ですねぇ」
幼いハツキを抱え、暮れ枯坂で月喰いの群れから逃げおおせた災夜。あれから幾何か年月が経った。その間、彼は何らかの方法により、再び縁を繋ぎ、闇縫いの刀から受けた傷を眠りによって、回復に当ててきたのではないか。
復活の時は熟しつつあるのだろう。彼が魔の手を郁に向けるとしても、陽惟はなにがなんでも守り抜くと、郁の手を握りこんだ。もう、この手を陽惟だって、離したくはないのだ。
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