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5.待宵のフィースト
54 あやとり結び①
しおりを挟む丘を吹き降りてくる生暖かい風。郁の紺桔梗色の髪がふわりと舞い上がる。
弥生堂の敷地内には、隠れていた白い花がポツポツと顔を出し始めた。五月の陽気をいっぱいに受けて、花茎がもげるほど、頭を振っている。郁の黒曜の瞳いっぱいに、ほんのり桃色の花弁の揺れる庭が映っていた。
爽やかな草木の匂いを運ぶ風の中に、鉄サビのニオイが混じり、郁の鼻をかすめる。どこかでする獣の低いうなり声と引っかくかすかな音も、彼の耳には届いていた。
カーテンをめくり、一歩踏み入れば、纏わりつく臭気も異音もたちまちに雲散し、清浄な空気が彼の肺を満たし、痛いほどの静寂が安心感をもたらした。入ってきた扉を合わせ、遮光カーテンを引いて、陽を閉ざしてから、郁は小声で呼びかけた。
「こんにちは……」
「はーい」
奥の戸がすぐに開き、澄んだ声が返ってくる。そびえ立つ書棚を通り抜け、郁は居間のガラス戸を控えめに叩いた。
「郁くんっ。いつぞやぶりで」
弾けんばかりの勢いで戸が開いたので、彼は前のめりになって、陽惟の胸に倒れこんだ。
「陽惟さん、すみませんっ」
「驚かせて申し訳ありません。ふふ」
腕の中で柔い笑みを浮かべた陽惟の表情を直視してしまい、郁は顔を赤らめる。恥ずかしくてたまらなくなり、彼はさりげなく陽惟から離れた。
「陽惟さん。これ、お返しします」
郁はそう言って、長方形の小ぶりな包みと風呂敷をちゃぶ台の上に置く。
「お気に召しませんでしたか」
陽惟は少し残念そうに、ちゃぶ台の上の包みに手を置く。郁は首を振った。
「いいえ。僕には身に余るものだと思い至りました」
陽惟はだいぶ残念そうに、「物で釣るつもりはありませんでしたが」と包みを引き寄せてしまう。
「フラれてしまいましたね」
うっすら涙目になりながら、陽惟はお茶を啜った。郁はお茶を口に運んでいたら、のどに詰まらせる勢いで驚く。
「ふ、ふる!?」
「バレンタインのお返事のつもりでしたが」
バレンタインになにを贈ったのか、郁は思い出せなかったが、ホワイトデーのお返しがどんな意味を持つのか、両親から聞かされたことがあった。さっと顔を赤らめて、「ぼ、僕は」と声を上擦らせた。
「男……ですよ?」
「おや、裏月では珍しくないですよ。継承者は十二月学園から入門させることもできますし、必ずしもパートナー間で産んだ子が必要なわけではありませんので」
「でも、僕……裏月ではないですが」
「ふふ。将来まで考えてくださってうれしいですが、この話題はこの辺にしておきましょう」
「僕、あの、陽惟さん」
「こちらは一旦お預かりしておきますね。いつでも見に来てくださって構いませんよ」
陽惟は立ち上がり、羽織りとともに包みをタンスにしまいこむ。郁は陽惟を呼び止め、意を決して口を開いた。
「僕、男ですけど」
陽惟は静かに振り返り、郁を見つめる。
「生殖機能が……」
「言いにくいことでしたらご無理なさらず」
郁は首を振って、声を震わせながら続けた。
「二つあって。でも、機能しているのは、女性の方なんです」
「……気持ち悪いですよね」と今にも泣きそうな顔で、郁の言葉は尻すぼみになった。目の前の全てが彼を全否定するように詰り罵る姿に見えて、彼は押し寄せる不安の波に呑まれそうだった。
「いえ、素敵ですね」
郁はハッと顔を上げて、陽惟の目を見つめて、目を丸くした。
「え?」
「あなたが最初に私の目を見て、『キレイ』と言ってくれたことと同じです」
「ブルーとシルバーの二つも持っていて、すごいなと思って」
オッドアイが潤んで揺らめいた。荒む波の中で、慈悲と深い哀情を湛えた眼差しから、郁は目を離せない。誰にでも救いの手を差し伸べそうな温かさをいっぱいに感じるのに、内に秘めた悲しみの方へは誰も手を伸ばせない、そんな陽惟の孤独を思うと郁の胸が焦がれた。
「みなさま、私の目を見ません。見透かされるのが怖いと言われたことが何度かございます」
陽惟の瞳はどこかを見ているようで、どこも見ていないように、郁は思えてしまう。なるべく人の目を見ないように努力をしていたのだろうかと、彼は悲しくなった。
「見えすぎてしまうのは自分でも恐ろしいと感じるので無理もありませんね」
陽惟の瞳に意志が宿る。途端に天の神のように届かない存在ではなくなる。
「ですがあなたはいつも私の目を見て話してくださいます」
笑った彼の目が開いたとき、郁とピントが合った。
「どんなに私が救われたことでしょう」
穏やかに笑う陽惟を見て、郁も胸を撫で下ろした。
「ぼ、僕もホッとしました。友だちにも話したことがなくて」
「私が『見えていた』とは思わないのですね」
思ってもいなかったことを聞かれて、郁は「そうですね……」とこぼした。
「ですが、陽惟さんなら、わかっていても相手が話すまで心に留めておくと思います」
「正直に申し上げますが、私はあたなのことはぼんやりとでしか、見通せません」
「たまにいらっしゃるのです」と陽惟は目をゆっくり瞬かせた。「そうですね。幼少期の記憶が乏しいせいもあるのかもしれませんが」と郁は記憶の中を探るように、まぶたを閉じて目を回した。
「白いぼやけた三角がずっと頭にあって、なんのことだかいまだにわからないんです」
「郁くんは知りたいのですか?」
「知りたい……なぜかわかりませんが、とても知りたいんです」
陽惟は郁にもう少し近づくように促す。そして、声を潜めて話を切り出した。
「最初にお会いした際、あなたには守護の印ともう一つ」
郁は唾を飲みこんだ。
「支配の印が施されていました」
「そんな、いつ……」
「支配の印は解きましたが、守護の方はできませんでした。おそらくは守護の印の影響で記憶にヴェールがかけられている、と私は推測します」
「父さんも母さんも『郁はいつも守られているから大丈夫』と言っていました」
「きっとご両親が特別な祈祷を施されたのでしょう。ですが、記憶に支障をきたしているのでしたら、解く方法を考えねばなりませんね」
「知りたいですが、両親の気持ちも尊重したいので……」
「郁くんのその『思い出したいこと』だけに、どうにかして辿りつきたいですね」
冷めた湯呑みを両手で包みこみ、陽惟は郁を真っ直ぐに見つめた。
「では、こうしませんか? 私とプラトニックな方のお付き合いをするということに」
「僕、他にそういう好きな人はいませんっ」
あっと言って赤くなる郁。ふふふと陽惟は微笑を浮かべた。
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