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2.凍夜のスウィートネス
20 雪解けのあと
しおりを挟むゴソゴソ、カタンカタンと戸の向こうで、引きずる音とぶつかる音がしていた。
「もち丸ですね。なにをしているのでしょうかねえ」
「くぐり戸はありますけど……」
引き戸の右下には、小さな板がついていた。戸の辺りで布擦れの音はするが、向こうにいるもち丸は出てこられないようだった。
「向こうの部屋は真っ暗なので、出口が見えないのかもしれませんね」
陽惟は引き戸を引いた。暗がりからもそもそと前進してきたのは――ブランケットだった。
「あれ、僕が落としちゃったのとすごくよく似てる気がする」
「郁くんの落とし物だったのですね! 成清くんはなんでも『誰の物かわかるか』なんて遺失物拾得所みたいに、私のところに持ってくるもので困りますね」
布の中でなにかが、もぞもぞ動いている。郁はそっと布を取り去った。
小さな白いうさぎがころんと姿を現した。目を丸くして固まっており、なにが起きたのか理解できない様子だ。
「なるほど。ブランケットも一緒に持っていきたくて、入口で詰まっていたのですね」
「ほーら、こちらへ」と手を広げる陽惟にぷいっと顔を逸らして無視して、もち丸は鼻をヒクつかせた。
「お気に入りなんだね、『もち丸』……?」
取り払われた布の方へ、タッタッと走っていき、もち丸はブランケットにダイブした。布の上でもち丸はころんころん転がる。
「ダメですよ、もち丸。そのブランケットは人様の大切な物です」
「ごめんね。これは、僕の宝物なんだ」
もち丸はすくっと起き上がって、だから持ってきてあげたんだよと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「まぁ、得意気で可愛らしいこと」
前足で顔の周りをクシクシ擦る横で、郁はブランケットに顔を埋めてほおずりをしていた。
「素敵な刺繍がしてありますよね」
「誰のものか、よくよく観察してしまったのです」と陽惟は白状した。「全然気にしてません。預かってくださっていて、うれしいです」と言いながら、四隅を手繰り寄せて郁は刺繍を指で擦った。
「ユリ……なんですかね。小さい頃からこれに包まってよく寝ていたので、あると安心するんです。それ以外のことは特に気にしてなかったなあ」
郁はもち丸と目が合った。黒い目が艶やかで、土鍋の中で水に浸かって輝いていた小豆を彼に思い起こさせる。
「もち丸はお汁粉、食べられますか?」
「卯咲のうさぎさんはなんでも食べられるので大丈夫ですよ」
「あはは。そうですよね。今の時期はあまり見かけませんが、よく売店に入りこんで盗み食いしてるなんて聞きますし」
小鍋に甘酒を注ぎ、火をつけるとほんのり甘い香りが漂う。もち丸は興奮して、コンロに立つ郁の足の周りをぐるぐる回った。
「まあ、もち丸! 火を使っているときにお邪魔をしてはいけませんよ」
陽惟の小言が飛んでくるともち丸はおとなしくなり、代わりに郁の足の甲に乗り上げて腰を下ろしてしまった。
「全く。仕方のない甘えん坊ですねえ」
「なんだか、足元がポカポカしていて、いいです」と郁は笑った。
「小豆の残りは冷蔵庫に入れておきますので、ぜひ成清くんと一緒に」
「甘味タイムは逃げるようにいなくなってしまうんですよねぇ、彼」
陽惟がシクシクと泣く真似をするともち丸は、クアーッと大きく口を大あくびをかました。
「来未通りを歩いていたときも、ずっとしかめっ面だったような」
「彼は鼻がよく利くので、色んな匂いが混ざると強烈なのだと思います」
成清のことを聞くとなんでもポンポン答えが返ってくるので、どれぐらい長い付き合いなのか、郁は気になった。
「成清くんのこと、よくご存じなんですね」
「ええ。六つぐらいのときから見てきましたから」
「幼なじみなんですか!?」
「そうなりますかねえ」
ちゃぶ台に置かれた器から、ゆらりゆらり湯気が立ちのぼっている。白と濃い紫がまだらになっているお汁粉だった。
深皿によそったお汁粉を郁は、もち丸の前にも置いた。一口コクリと飲みこんだ陽惟は、「ほわー」と声を上げた。
「染みます~」
陽惟と郁の間にいるもち丸も、モッモッと食みつつ、顔を皿に埋めて、小さな口を懸命に動かしていた。
「陽惟さんのお父さんは本がご趣味だったのですか?」
陽惟はゆるりと目を伏せがちに、少しうつむきながら答えた。
「父もたまに買ってきてくれた覚えはありますが、そうでした。確か、私が物心ついた頃にはもう、本棚がびっしりでしたね」
食べるのに忙しそうなもち丸の背中を陽惟はそろりそろりと撫でた。
「颯葵……いえ、志希さんのものは父が持ってきたと思うのですが、それ以前のものはどなたが揃えたのやら」
「お父さんのさらにお父さんの方も収集家だったのかもしれませんね」
食べるのを止めて、もち丸がくるんと振り返って、陽惟を見上げた。「驚かせてごめんなさいね、もち丸」と彼は手をひざに戻した。
「父は書物以外にも用途のわからないものでもなんでも、珍しいものを持って帰ってきて……今は倉庫に眠っています」
「へぇ……珍物コレクターなんですね」
「ですが、私のことを一番に思ってくれる優しい父親でした」
大人びて見える陽惟の表情が、父のことを語るときだけ少年のように、コロコロと表情を変えることに郁は気づいた。
「甘味はお父さんの影響ですか?」
「いえ。父のご友人がよく弥生堂に出入りしてまして、たくさん教えてくださったのです」
陽惟の湯呑みを持つ手がわずかに震えた。
「お父さん、ヤキモチ妬きませんでしたか?」
「へ?」と陽惟は顔を上げて、「ああ」と言う彼の顔はやはり寂しさをにじませていた。
「父がいなくなったあとなんです。私を気にかけて、父のご友人がよく顔を出してくださるようになったのが」
「お父さんは……行方不明なのですか?」
「まぁ……。雪の日に出かけたきり、十年以上も帰ってきません」
郁はしまったと険しい顔つきになった。陽惟はお茶を啜って、パンッと軽く手を叩いた。もち丸が驚いて飛び跳ねる。
「将来の夢の話をしていたのに、しんみりしてしまいましたね」
「いえ。では、陽惟さんの将来の夢、なにかありますか?」
二人が話す間で、もち丸が自分のしっぽを追いかけながら、くるんくるん回っていた。
「家庭を持つこと……ですかね」
郁が口を開こうとすると、もち丸が飛び跳ねたまま、彼のひざに着地した。
「そろそろ夕焼けが始まる頃合いでしょうか。ご帰宅のお時間は大丈夫ですか?」
飛び乗ってきたもち丸にあわあわしながら、郁は返事をする。
「そ、そうでした。早く帰らないと父さんが心配、あ、すみません」
「気を遣わせてしまって申し訳ありません。構いませんよ、ご両親を大切になさってくださいね、郁くん」
「はい。ハッピーバレンタインです、陽惟さん」
「遠慮なくまたお越しになってくださいね」
陽惟とまたねのあいさつをしたのに、帰ろうにも郁は立ち上がれなかった。
「もち丸。ほら、郁くんはお帰りの時間ですから」
郁が気に入ったというよりは、彼のひざに掛かったブランケットが好きなようで、陽惟の言葉を無視して、もち丸はごろんごろん転がり続けた。
「プフッ。フフフ、くすぐったいよ、もち丸」
「はーい、もち丸。またねをしましょうね」
郁のひざから抱き上げようとした陽惟の腕をすり抜けて、もち丸は郁の背後に回った。肩に掛けていた羽織りを引っ張って、持っていこうとし始めた。
「返すのを忘れるところでした。ありがとうございました」
「いえ。気をつけて、コラ、もち丸!」
引き戸の奥の暗闇で追いかけっこをしている二人から、郁はそっと離れていった。
弥生堂の建つ丘を下りて、郁は来た道を引き返していく。土手沿いに大学が見えて、陽惟の元で蔵書に刺激された彼は、図書館に寄ろうと思い立った。
大学の正門前に差し掛かる。見覚えのあるジャンパーを持つ人を見つけて、郁は「あっ!」と小さく叫んで、走っていった。
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