月負いの縁士

兎守 優

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3.浮かれた夜のミミック

29 結血、紡がるる

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 朝日がまぶたをつつく気配がして、郁は目を開ける。どことなくお日様の匂いが漂う。
「んー、うぅ」
 照明の明かりが目に染みて、目を擦った。布団の中で左手を上げて伸びをしてごろんと転がった先に、人の目があり、郁は「はひ?」とあくびをかみ殺した。

「は、陽惟さっ、ん!?」
 彼の上擦った声を聞いて、起きていた陽惟はくすりと笑った。
「大丈夫ですよ、なにもしていません」
 「ですが、おまじないぐらいはかけましたが。ふふふ」と陽惟は口に手を当て目を細めた。
「お客さま用のお布団を出していなくて、ご一緒してしまいました」
 郁は陽惟がすぐ隣にいることに妙にそわそわしたが、彼の目元に違和感を覚えて、目を逸らせなかった。

「僕、お泊まりでもしたんでしょうか」
「夜中に成清くんがあなたを置いてけぼりにしたのでお預かりました」
 郁の瞳が揺れる。陽惟は穏やかな目で彼の表情の機微を追っていた。
「僕、成清くんを怒らせてしまったのでしょうか……」
「聞いてみてはいかがですか?」

 「ですが今は」と彼はずっと繋がれたままの手に力をこめた。
「二人の時間を楽しみたいものです」
 途端に郁のほおがほんのり紅潮した。
「この間の接吻はお嫌いでしたか?」
「り、りんぷん?」
「蝶の粉の方ではないですよ、これです」
 郁の目の前が暗くなる。彼は森で襲われたような恐怖を感じなかった。
 ぐぅぅうとうなり声が聞こえ、郁はビクンと体を震わせ、目をぎゅっとつむった。獣のような重低音が彼に、昨夜のぞわりとした感触を呼び戻させたのだった。

「お腹の虫に邪魔されてしまいましたね」
 陽惟はそっと手を離した。「ご飯、作りますっ」と郁は飛び起きて、居間へ行ってしまう。
「ふふ。助かります」
「お、お台所、お借りしますっ」
 終始ペースを乱さない陽惟にドギマギしながら、郁は朝食の支度に取りかかった。

 お勝手からみその香りが漂ってくる弥生堂のすだれをくぐる一人の男。通路の両脇にそびえる本棚の道は、みそとカビ臭が混じり、彼は鼻を摘まんで、明かりのもれる部屋の前まで早足で進んだ。
「なあ」
 ちゃぶ台でのほほんとしている陽惟と台所に立っている郁の後ろ姿が成清の目に飛びこんできた。

「うーん、成清くん、遅ようですね」
「飯買ってきてやったんだよ」
 コンビニ飯を続けるのは良くないと思い、スーパーが開く時間まで自宅で待機していた成清はバカバカしくなって、ビニール袋をどさりと落とした。

「日持ちしますか?」
「日持ちするったって、数日ですよ? わかりました、陽惟さん? ほんと、食材にまでカビ生やすなよ」
「そんなんじゃありませんよ。今日は郁くんに甘えようと思いまして」
 郁は食事の準備で忙しいのか、成清が来たことに気づかず、シンクで水をジャージャー流し、食器を洗っていた。成清は惚けた顔の陽惟を小突いて、声を潜めた。

「なあ。陽惟さん、アイツのこと、好きなの?」
「どうしました? 成清くんが先でしたか?」
 陽惟は勝ち誇った笑みを浮かべて、成清を見た。
「はあ? 違ぇよ。あんなガキ臭ぇの願い下げだって」
「ありがとうございます」
 郁を見る目が真剣な様子に、成清は軽く舌打ちして、嘆息をもらした。

「はーあ、陽惟さんのタイプってもっと勝ち気で年上かと思ってたんですけど」
「私の属性は病弱気質のガチャ目のお兄さんです」
「陽惟さんのこと聞いてねえって」
 洗い物を終えて振り返った郁は「できましたー、わっ、わわ?」と飛び上がった。

「成清くんも来てたんですね」
「悪ぃかよ」
「昨日はすみませんでした」
「なんでお前が謝んだよ。気持ち悪ぃな」
「ご、ごめんなさい」
 郁が申し訳なさそうに縮こまるので、成清は大きく舌打ちを鳴らして、口を開いた。

「お前さぁ、夜、出歩くなって。わかってやってんのか、それとも死にてぇのか」
「成清くん」
「あのな、はっきり言ってやる」
 陽惟が制しても、成清はそのままの勢いで、強く口に出してしまった。

「お前みたいに能力がない襲われるだけの奴は足手まといッ」
 パシンと叩かれ、成清は押し黙った。
「ハツキ、口が過ぎますよ」
「いいです、陽惟さん。僕、両親が心配してるので帰りますねっ」
「郁くん、待っ」
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいとつぶやく声が遠退いていった。

「ハツキくん」
「……うるせぇ。名前で呼ぶんじゃねぇ」
「上に立つ者は無意味に人を傷つけることはしません」
「うるせぇ。俺はなり振り構っていられねぇんだよ!」
「それではまた同じ惨劇を繰り返すだけですよ」
 成清は奥歯をギリリと噛んだ。

「二度と同じ目に遭わせないために必要なんだよ、上進じょうしんが」
「そのためには人の道を外れても構わないと?」
「俺は親父たちとは違う」
「頭を冷やしなさい。そうすればわかりますよ、あなたがそちらへ傾いているのが」
 成清の鼻がヒクついた。顔が真っ青になり、冷や汗をかいていた。

「アイツだ、あの匂い……俺が殺した夜の、だから俺は」
 「強くならなきゃ……」と彼は頭を抱えて爪を立てた。
「あなたが罪に問われることはないです」
 立ち上がり触れようとする陽惟から、成清は飛び退いて避けた。彼はは背を向けてしまう。振り向かないその背中に、陽惟の言葉が刺さった。

「ただし、罪は消えません」
 償いへの道筋を行く先を見失った罪人は、血に塗られた修羅の道を歩み続けなければならない。成清の瞳に宿る紅の罪証が、逃れようのない責罰いましめをその身に刻んでいた。
 陽惟がため息交じりに、放り出されたビニール袋に手をかけたとき、玄関の方で悲鳴がした。
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