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2.凍夜のスウィートネス
14 白檀の消香
しおりを挟む丘の上で吹く風はいつだって冷たかった。それなのに凍える様子もなくサクサクと迷いのない足取りで、風が筒抜けのジャージ姿の男は丘を上がっていく。脇に差した刀がカタカタチャキチャキ、音を鳴らしていた。
カビ臭いと鼻を覆うのが、いつもの流れだが、成清はお菓子街で酔ってしまい、弥生堂の古書のニオイが気にならなくなっていた。
暗幕を垂らして、室内を閉め切り、完全に日光を遮断してから、成清は寝室に声をかけた。
「陽惟さん。菓子だ、菓子」
途端にスーッと襖が開いた。
「いつもありがとうございます。お茶淹れますね」
「いや、俺は菓子はあまり……じゃなくて茶は淹れるから寝てろ病人は!」
「お言葉に甘えて……」
陽惟は口元に両袖を当てて、あくびを隠した。が、ラッピングされた包みを見て、ササッと駆け寄った。
「成清くん。これは」
「なに……外れだったんですか?」
スンスン、カサカサと匂いを嗅いだり、包みを掲げたり、陽惟はくまなくチェックして、感嘆の声を上げる。
「木こり屋の……よく迷いませんでしたね」
鉄瓶に入れた湯がシューシューと細く蒸気を上げ始めた。
「私、以前、時雨さんとご一緒した際、軽く迷子になりかけて」
「陽惟さんが時雨さんのそばから離れるからだろ」
成清は火を止めて、湯呑みを棚から一つ、手に取った。
「やはり鼻が利くからでしょうか?」
お茶と言っても、ただのお湯を差し出した。『甘味の味を最大限に楽しむには、白湯が一番』との陽惟のリクエストゆえだ。
残りの湯をポットに注いで、成清は鉄瓶を火にかけて、水気を飛ばした。
「いや、あの界隈、んな匂いばっかなんで、初めての俺がわかる訳ないじゃん。月見小僧の紹介だ」
ガタンッとちゃぶ台が揺れる大きな音がした。成清はバッと振り向く。陽惟は口をわななかせて、興奮気味にまくしたてた。
「なななるせくん!! それはでーと、でーと!?」
「落ち着けって、また寝こむぞ」
「成清くん、やりますねぇ」とぶつぶつ言いながら、シュンとして陽惟はちゃぶ台に突っ伏した。
「郁くんも連れてきてくだされば良かったのにぃ」
「午後からバイトだって」
「もっとお話ししたいなぁー。なあー、成清くんばっかりずるい~」
コンロの火を止めるとともに、成清のため息が吐き出された。
「もうわかってる癖に」
「ほんとですか!」
「水曜に約束した。汁粉のレクチャーしたいってさ」
成清が渡した包みを胸に抱えて、陽惟は畳をごろんごろん転がった。寝室の襖に頭をぶつけ、「はわわ」と声を上げた。ふると襖の角につけられた小さなドアが持ち上がる。
「いいですか、陽惟さん。月見小僧を送り届けたら俺は用事あるんで、遅くまで引き留めないでくださいよ?」
「私に気を遣わなくても」
陽惟は寝転がったまま、小さな戸に右手だけ入れて、向こうで様子をうかがっている者をわしわし撫でた。
「満月が近いだろ」
撫でられる手にすり寄るがままに、毛色の白いうさぎがころんと居間に転がり出た。キョロキョロと見回し、台所に立つ成清を認めるなり、くぐり戸を押し上げて、サッと襖の向こうに戻ってしまった。
「そうでしたね……」
行ってしまった後ろ姿を残念そうに「つれないですねぇ」と陽惟は見つめた。
鉄瓶を出窓に上げて、去っていこうとする成清に「あれ?」と彼は呼び止めた。
「お昼はよろしいのですか?」
彼は振り返らずに返した。
「もう、食えないぐらい、食らったからいいです」
もううんざりするぐらい、鼻に食らったのだった。今なら成清にも「匂いだけで食った気になる」感覚がわかりそうだった。
存在するかぎり、人も物もなにかしらの在証を放つ。礼門が奇襲を仕掛けて来なければ、あの日、成清は〝透明なニオイ〟がした人物のあとをつけるはずだった。その者はいずれ影斬りの領分となると考え、成清は逃げた礼門の方の行方を追うことを優先したのだった。
雪がもうもうと水蒸気を上げるニオイがそこかしこでしている。成清が感じ取った〝透明なニオイ〟の正体はこれであった。
「雪でも食ったみてぇだな」
木々がまだらに生える、なだらかな斜面は凍りついていた。辺りは闇夜に沈んだはずなのに、氷が張った箇所だけ、照らされたように明るかった。
「こりゃひでぇーな」
ブリザードでも通ったかのような氷道を目にして、木乃芽結人がつぶやく。
「夜道でも目立つ」
大柄の結人の隣に並んだ花景聖は表情を変えずに、目でじっと道が続く方を辿っていく。
「かえって好都合。派手な足跡を親切に追ってやろうじゃないの」
二人の前に進み出て、梅見丹那は刀を振り上げた。如月一門、梅見家当主の抜刀を合図として、後続の影斬りたちが続々と刀を抜いた。
足元から凍てつく寒さの中、今にも凍りつきそうな者が夜道をフラフラ歩いていた。
「サムい、さム、イ……」
「あんた、フルムーンイーターに喰われたのか?」
こんな真夜中にするはずのない人の声に、凍える者はぎこちない動きで振り向く。丈が詰まった色あせた上着に、霜が降りていた。
「そのサイズ間違えてる服、やっぱお前か。月見と一緒にいた……河野 衛……」
「くるナ!」
河野は氷鞭を繰り出し、振るい、吹雪を起こして追っ手を遠ざける。
「一応聞くが、わかってやってんのか?」
遅いペースで放たれる攻撃を紅染の瞳の影斬りは、刀を抜かず、かわしながら、その姿を瞳に捉え続けた。
「それとも単に喰われただけか?」
通信がブツブツ途切れるような機械音の混じった声が答えた。
「縁ヲ切るためニハ、こうすルしカ」
猛吹雪が起こる中、河野の体は氷に蝕まれていく。苦しみうめき、彼はよろめいた。
「良かったな。お前はもう、人の縁ごと、消えるしかねぇーよ」
バキバキと音を立てて硬化する体を揺らして笑う河野の目から、涙が流れた。流れ落ちるそばから、凍っていき、落ちていくはずの涙は、肩の所で氷の柱となって止まった。
「そこまでして誰との縁を切りてぇって言うんだよ」
氷柱がメキメキと立ち上る。成清が向き合う目の前の者は、人の形をした、倒すべき者へと変貌していく。地下との縁が完全に結ばれてしまった。人へ戻る道はもう絶たれた。
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