月負いの縁士

兎守 優

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2.凍夜のスウィートネス

12 白檀の萌芽

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 昼下がりの第二食堂にかおるけいはいた。試験期間が終われば、大学は長期の休みに入ってしまうため、学生たちの集う場である食堂も閉まってしまう。が、二月上旬はまだ春休み前で、大学構内のほとんどの施設は通常通り、開いていた。

「つきみんのさ、誰なの。その呪いを解いてくれた人って」
「呪いとはなんのことですか?」
「えー、しゃべれるようになったじゃん」
「そうですね」

 「呪い……だったんですかね……?」と必要ではなくなったメモ帳を癖で開いてしまい、郁は気がついてすぐにパタリと閉じた。『病ではなく守護の一種かもしれない』と陽惟はるいに言われたことを彼は思い出していた。

「てっきり王子様のキスかなんかだと思ったのになぁ」
 尖らせた唇にシャーペンを乗せる恵を見て、郁は先日の『事故』を思い出し、少しだけほおを染めた。「王子様ってあんな感じなのかなあ」と思っていたことを彼はいつの間にか口に出していた。

「ま、さ、か! あの葉月はづきの野郎……な訳ないか」
「ひぃっ! 成清なるせくん……がなんですか?」
 恵から不意打ちを食らった郁は間抜けな声を出してしまった。日が照っている時間帯に自分の声が聞こえることに、郁はまだ慣れておらず、心の中で思っていたことと口に出したことの区別がつかなかった。

「俺様系にも程があるよね、置いてけぼりってさあ?」
「い、いえ、大事な用があったのだと思います」
 『急用ができた』と言っていたような記憶をぼんやりと郁は思い起こした。なんの用だったのか、彼は特に気にしてはおらず、置き去りにされたことも今の今まですっかり抜け落ちていた。
 にひひと恵はねちっこい笑みを浮かべ、郁が照れたのを見逃さずに話を蒸し返した。

「ツンツンの方はいいや。で、さっき誰のこと思い出して照れてたの?」
「まーたここか、ニケ」
 ドアが閉まる風圧を郁が感じるのと同時に、佳也よしやのあきれた声が飛んできた。佳也に腕を掴まれて引きずられる前に、恵は突っ伏して机にしがみついた。

「やーん、俺のオージサマに見つかっちゃったー」
「なんだ、〝オージサマ〟ってのはッ!」
 机に張りつく恵を引き剥がそうと佳也は力を入れる。

「王様の子どものことです。〝白馬の王子様〟とよく言いませんか?」
「ニケが白馬クン」
「それか……って、童話の世界じゃないんだから、さすがにそれはどうかと思うぞ」
「ミカはメルヘンチックなの嫌いだもんねー」
「お前のそれは、ただの怠けだろう」
「もう試験も終わって、四年になるまで暇じゃん」
「あのなぁ。月見はバイトとかあって暇じゃないだろう」
「だってさ、つきみんのお友だち、‪葉月はづきのせいで離れていっちゃったんだもん」
 郁は寂しそうな顔で肩をすくめた。成清と遭遇して以来、河野衛は姿を見せなくなったのだ。

「僕は大丈夫ですよ」
 声が止んだ。空調が回る音だけが、ブオオーンと低く鳴っている。気まずくなった雰囲気を破ったのは、姿勢を正した恵のトーンを落としながらも明るい声だった。

「そういや、もうすぐバレンタインだよねー。なにが欲しい、ミカ!」
「なんだ、はりきって。イベントにそこまでこだわる必要あるか?」
 恵はふくれっ面で、「これだからデリカシーのない脳筋は」などと口を思いきり尖らせ、文句を垂れた。

「バレンタイン……お菓子なら、アドバイスできるかもしれません」
 お菓子と聞いて、郁が身を乗り出して目を輝かせた。恵も乗り気で「心強い味方~」と両手を伸ばした。
「よっしゃ、つきみんにコーディネートしてもらおっと。ミカ、当日まで内緒だから先帰ってて」
 仲よくワイワイし始めた二人を見て、恵の額にさらにシワが刻まれる。
「全く、仕方ないな。裏門の近くで待ってるぞ」
 佳也の姿が完全に見えなくなるまで、恵はドアの方を凝視していた。

「お相手の方……水戸先輩? はどんなお菓子がお好みですか?」
「あー、しくった。甘いの食べてるの見たことなかったなあ」
 「いつも俺にくれるから~。はぁーあ。詰んだ」と恵は、また机に突っ伏してしまった。

「それなら、手料理を振る舞ってはどうですか?」
 郁の提案を聞いて、恵はガバッと飛び起きた。
「なるほど、ご飯作ってあげる作戦か!」
「そうです。それなら多少好物が」
「でも俺、いつもミカに作ってもらって自炊したことないからなぁ」

 「それなら」と郁は手をパチンと叩いた。
「では、水戸先生に教えてもらってはいかがですか?」
 「うっしゃあ!」と恵は叫んで立ち上がる。
「名案、つきみん。ありがと」
「楽しいバレンタインになるといいですね」
「つきみんも上手くいくといいね!」
「え? あ、はい」
 「ありがとう、ありがとね」と恵に握手され、揺すられる郁。丘の上の庭で陽惟と話せるようになって、よろこんで跳ねた、甘酸っぱい思い出が郁の心の中に、トクントクンと下りていった。

 カシャンカシャンとひさしが下ろされていく。差しこむ薄陽が遮られていき、朝を迎えたばかりの陽光でいっぱいになるはずの居間が、暗闇に閉ざされていった。戸の向こうで上がったくぐもった声を成清は聞き取った。はっきりと聞こえなくてもわかる。また始まった、例のアレだ。

「成清くーん、私」
「はいはい、〝恋〟したんですね、はい。お相手は」
 いつものまたアレだと言わんばかりに、成清は陽惟の〝甘誘かんゆう〟をすぐさま呑んだ。

「成清くんには秘密です」
「いいんですか? 俺、連れてこられませんけど?」
「成清くん、強引ですね~。そんな乱暴に育てた覚えはないんですが」
「……へーい」

 買ってきたばかりの菓子を成清は戸棚に詰めながら、深いため息を吐いた。陽惟のいつものアレとは、〝甘味誘引〟――甘味を引き寄せる変な引力のことである。成清は今まで回避できたためしがなかった。
 逃げられないなら、最初から乗ってしまう方が楽、と合理的な判断を下した成清を悩ませるもう一つの不可避の面倒事。それは一番厄介な甘誘かんゆう――「適当に見つくろって」と「未だ見ぬ所望の甘味を当てる」であった。

 鼻が利きすぎてしまう成清は、できれば専門外の冒険をしたくはなかった。早々に自分で探すことをあきらめた彼は覚えたニオイを辿り、羽純はずみ大学の第二食堂に乗りこんでいった。

「おい、月見小僧」
「わ! 成清くん、どうかした?」
 ご機嫌うかがいのあいさつも長ったらしい前置きも、いずれもなく成清はド直球に用件を投げた。
「最近流行ってる菓子を教えろ」
 唐突で横暴な訪問者を前に、おどおどしていた郁の態度が急に変わる。菓子と聞くと目の色が変わったのだ。急にハキハキと話し始め、口調に熱がこもった。

「やみつきチョコ系かな。チョコレートのコーティングの厚さと中のサクサクの生地層が絶妙な噛み応えで」
「どこで買える」
「スーパーで」
「そんな気軽に買えるもんなのか!」
 成清はガタンと机に手をついて、大声を上げて仰天した。

「成清くん……もしかして隠れ甘党なの?」
「ちが、いや、どうでもいいだろ」
「よくないよ! 甘党の程度によって舌の肥え加減が違うんだから。いい? 白みそ派、赤みそ派、合わせみそ派、おみそにもこだわりが強い人もわりといるんだよ?」
 自分から啖呵を切っておいて、成清はだんだんと郁の勢いに圧倒されて、態度を軟化させていった。

「わ、わ、わかった。甘味に目がないっていう感じだ」
「贈答用? それならお菓子専門のお店がよさそう。今度の休みなら行けるよ」
「いや、店だけ教えてくれれば」
 「ダメだよ!」と郁は机に両手をついて立ち上がった。

「成清くん、あのお店一帯は迷う穴場スポットだから、案内がいた方が絶対いい」
 相手をけしかけて、言ったことはなんでも引き寄せてしまう、陽惟のように押しが強いなと成清は降参して、都合をつけることにした。

「……土曜は?」
「午前なら。夕方からバイトなので」
「駅前に九時」
「わかりました」
 成清は心の中で軽くガッツポーズを決めて、これでノルマが達成できるとよろこんで、裏門の林道を行く。

「は?」
 彼は足を止めて考えた。なぜそんなにうれしいと舞い上がるような気持ちになったのか、成清はわからなかった。顔がだらけていないか、彼は心配になって、ほおを何度も押していた。
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