メロウトワイライト

兎守 優

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5.トワイライト

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 開け放たれた窓に、光に消えそうなほど毛の白い小鳥がとまっている。
「ついに成人か。絶好の機会だ、春弥はるやは始末して、成り代わらせよう」
「何も口にしないが、欲しいものぐらい、最後に聞いてやるのはどうだ?」
「さすがは我が息子。情けが深い。お前は次期当主にふさわしいぞ」

 屋敷の主の座を強奪しようとしている男に、あごで使われた者が階上へ行ったのち、すぐに戻ってきた。
「花が欲しいそうです」
「いつもさしてあるだろうに。代わり映えのない。まぁ、いい。庭で摘んでこい」
 言いつけに従い、庭に出た男を窓際から小鳥はじっと見ている。男が花を摘んで、屋敷へ上がり、階上へ行ってしまうと、小鳥はすぐに飛び去って浮上した。

 閉めきられた窓の外。わずかにカーテンが開いており、ふわりと舞い上がった小鳥のクリクリとした目が窓の向こうをのぞいていた。
 摘み取られた細い茎の花を骨ばった指が愛でている。華奢な少女様の痩せ細った少年はベッドから立ち上がった。

 おぼつかない足取りで屈んで、ベッドの下に潜ってしまう。引っ張り出してきた分厚い本を開いて、小さくページを二切れほど破った。そうして折った紙切れの一つに、小さなその花を閉じてしまった。

 それから彼は花瓶に活けてある瑞々しく張りのある花を抜きとって、斜めに切られた茎の先端を腕に強く当てて引いた。
 花弁の一つをもぎ取り、淡い花を赤く染め、もう一枚の紙切れに挟んで、窓際へやってきた。

「トワイライト、トワイライト。このお花はいつものおすそ分けだよ」
 小鳥は初めて少年のさえずりを聞いた。
 窓のすき間から差し出された紙切れが開く。挟まれる花はいつも小鳥のものだった。小鳥はよろこんでついばむ。

 小鳥は食べ終えてもすぐには去らなかった。さえずりの続きを待つように、小鳥の目がまだ少年を見ていた。

「トワイライト、トワイライト。どうかこのお手紙、届けてね。さようなら」
 もう一枚の紙切れを小鳥は受け取った。ごちそうである花弁が挟まれていたが、小鳥はもうお腹がいっぱいで満足で、夕の薄明が迫る空へ羽ばたき、いつもの方へ飛んでいった。


 いつの間にか私の意識は微睡みに落ちていた。眠れるはずなどないのに。
 静かで冷たい硬質の檻。ぬくもりに包まれる暖かく柔らかいベッドの上に、これほど焦がれるとは思いもしなかった。

 カサリという音がした。またいつものネズミだろう。律儀にも毎回、足元まで運んでくる。
 今日は食事はないから、あげるものがない。食事がない日は、殺しがない日だ。ネズミも今日は食事の匂いがしないと分かっているはずだ。

 妙なことに今日に限って、ネズミは去らない。じっと私を見ているようだ。その紙片を開けろと言わんばかりに。
 いつものように、その紙片からは鉄サビと甘い誘惑の香りがする。欲しくてたまらないが、すんでのところで留まっており、まだ一度も口にしたことがない。

 春弥はるや様がどうにかして届けてくださるのだから、一度だけは開く。そうしたらまた暗がりの隅に放ってしまおう。
 トワイライト、すきという文字は毎度必ず書かれていた。ペンなども取り上げられてしまったのだろうから、どうにかして春弥はるや様がご自身を傷つけながら綴っているのだと思うと、胸が張り裂けそうだ。

 小さな紙片を開く。そこには──

 赤黒く染まった花びらが挟まれていた。
 どうして、こんな。

 視界に光が横切る。暗がりにあるはずのない、淡き光の浮遊。それは小さな羽を羽ばたかせる蝶だった。

 思い出した。それを見た日、前当主、黒桐屋こくとうや治秋はるあき様が亡くなられたのだった。

 血が騒いだ。気づけば部屋の隅に築いた紙片の塊がなくなっていた。残るは、新しく届いたこのお手紙だけだ。
 もう覚えてしてしまった、春弥はるや様の味を。

 迷いなど捨て去った。春弥はるや様からいただいたすべてを食らい尽くして、私はネズミのあとをついて、この檻を出た。
 何者でもいい。早く会えるのならどんな形になってもいい。私は人の形を捨てた。ありとあらゆる生き物になって、檻の割れ目をかいくぐって、ようやく自分の意志で外へ出た。


 力を失った腕から、泣く春弥はるや様を託され、この小さな光は地上に戻されねばと思い立った日の思いがよみがえる。光を求め、声を上げて泣く小さな命を私のような闇を生きるべき者が捕らえていてよいものではないと。
 私はこの光に導かれるまま、暗い部屋を出た。この光だけは絶やしてはならないと、赤子の春弥はるや様のお世話に毎日必死だった。日々成長されていく、主の忘れ形見の春弥はるや様。地上の陽を浴びて、微笑むお姿を見ることが叶ったのならどんなに、よかったか。

「ナギ、ナギー!」
 忘れもしない。春弥はるや様のお声。私を呼ぶ声。私はそれだけで、人の形に戻れる。
 呼べるのか、この罪にまみれた体をもって、言葉を発したそばから純真無垢な春弥はるや様をけがしてはしまわないだろうか。

 背中を押された。お前に託したのだぞと。前当主の幻影に。
「はるや、さま……」
「ナギ」
 夕暮れが迫る、枯れ木ばかりの雑木林で、私は白い天使を見た。私が焦がれてやまない淡い光。

「ボク、約束、守った、よ」
 春弥はるや様の声に張りがない。消えてしまいそうだ。見れば手足がずっとわなないている。微笑んではいるが、今にも泣き出しそうで、ほおがこけて、大変やつれたお姿になっていた。
 春弥はるや様が震えながら、手を差し出される。

春弥はるや様……!」
 駆けた。よろめきながら春弥はるや様の元へ。わずかな距離だった。あともう少しで手が届く。

 触れようとした手前で、鮮血が舞った。白い首筋から止めどなく噴き出し続けるそれは、なんだ、どうして。
 力を失ったお体が地に伏す。私のひざが落ちた。

「私の役目はこれで終わりです」
 私に似せたような物言いをする、知らぬ男の声がする。
「奴隷同然だった私を人間として見てくれた、わずかばかりの礼です」
 開いた傷口から止めどなく、鮮血があふれ続ける。
「最期に会わせるべきだったのか、悩みましたが」

 春弥はるや様の愛らしい口からあかがこぼれていく。虚ろな目が私を捕らえて離さない。
 じきに夜が来る。闇がすべてを覆ってしまう。忍び寄る夜の影が、冷えゆく愛しい人を連れていってしまう。

 誰にも。知らぬあの男にさえも。この光だけ奪わせない。私だけのトワイライト。尽きるとしても、灯火を摘みとるのは、私の手でなければならないのだ。
 この浅ましく醜い欲が募るのは、長く心の内に押し止めていた干からびた愛ゆえなのか。

 唇に牙を立てる。私自身の血の味がする。こんな生臭いものを愛と呼べるのか。私は震えながら、その汚れた愛を春弥はるや様のなかへ流しこんだ。

 甘くて、瑞々しくて、心地よい味へと変わる。春弥はるや様と一つになって溶け合っている心地さえしてくる。

 陶酔に浸ったまま、名残惜しく唇を離せば、春弥はるや様の目はすでに閉じられていて、安らかなお顔に戻られていた。
 裂かれた傷口はもう塞がっている。お眠りになった春弥はるや様のお身体を清め、流れ出てしまった春弥はるや様のすべてを啜った。

 もうこの地にはいられない。春弥はるや様と黒桐屋こくとうや家のお屋敷へ戻ることもできない。春弥はるや様を抱えて立ち上がる。
 夕闇の中、雑木林を歩く私はひどく満ち足りていた。前当主と、そしてその息子である春弥はるや様と過ごしたお屋敷での日々を永遠に失うことになるというのに。

 この腕に抱える重みが私の永遠となる。暗く長い夜が明ければそのまぶたを開けて、目を覚まされる。そして、私をとらえて離さない。ナギと愛らしいお声で私を呼ぶのだ。
 これは運命だったのだろうか。謀らずとも私と春弥はるや様の、共にありたいと思う道が重なった。こちらの世界へ引きずりこんでしまった、詫びる気持ちなどもう起こらない。

 私とこれから生をともにしていく春弥はるや様を胸に強く抱く。おいたわしい、私だけのトワイライト。至上のよろこびで私の心は満たされていた。

 夜が更けていく。最後に黒桐屋こくとうや家のお屋敷を目に焼きつけてから去ろうと舞い戻ってみれば、目を疑う光景がそこには広がっていた。
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