毒使い

キタノユ

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第三部 ―出立編―

ep. 41 一蓮(2)

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「はぁ…、っはぁ…」
 森の暗がりで、青の足は止まった。

 大した距離でもないのに、息が上がって呼吸が止まりそうになっている。
 過呼吸を起こしかけていると、自覚できた。

 目眩に揺らぐ体を、手近な木の幹に手を突いて支える。
 夜の驟雨が徐々に強さを増し、頭上を覆う広葉樹の葉の隙間をすり抜けた雨粒が、青の体を打ち始めた。

「キョウさんに…見られた……」

 幹から離した手で、覆面も額当ても剥がされた素顔に触れる。歯の根がガチガチと小刻みに音を立てて、噛み合わない。

「何で…よりによって………」
 想定外の出来事が起きながらも、順調に事が進んでいたはずだった。

 ただ、キョウがあそこにいた事だけが、想定外だった。

「は…、っ…は…」
 無理矢理に荒れる呼吸を抑え込んで、もう片方の手を見る。
 要塞から持ち出した金印が一つ、血の気を失って白い手のひらに握り込まれていた。

「少しでも遠くへ…離れないと…」
 要塞街の外へ抜ける方へ体を向けかけた背中へ、

「シユウ、二師」
 声がかかった。

「!」
 考えるまでもない。
 キョウの声だ。

「……それとも、大月君…? どっちで呼べばいい」
 振り返ろうとしない青の背中へ、とどめのように呼びかけが重なる。

「っぐ…」
 前方へ逃れようと体重が僅かに移動した瞬間に、背後から伸びた腕が首に回った。
 固定される寸前に片足で弧を描くように前方に振り上げて重心を真下へ落とし、腕をすり抜ける。

「待…っ!」
 すかさず上から掴もうとしてくる手から横に転がって逃げ、すぐさま体を起こして低い姿勢で前方へ駆け出す。が、

「待て! 話を…!」
 後ろから腕を掴まれ、振りほどき、また掴まれ、を二度三度繰り返す。

「大月、くっ…」
「っわ」

 雨で泥濘み始めた土に足をとられかけ、重心が崩れた。
 その隙をキョウは逃さない。

「逃げるな!」
 上から肩を強く押されて地面に叩きつけられる。

「っ…!」
 肩から背中にかけて走った衝撃で、息が止まった。
 尚も抵抗を見せかけた真上から、

「青!!」

 刺すような声で名を叫ばれる。

「!」
 背中に痺れが走って体が硬直した。
 両手で両肩を上から地面に押しつけられた体勢のまま、青は抵抗を止めた。

 観念すると同時に、組手訓練で一勝もしていない割には健闘した方だ、などと暢気な考えも浮かぶ。

「………」
「………」

 男二人が暴れて取っ組み合う音がおさまり、入れ替わるように雨の音が強くなった。
 秋雨によって冷やされた夜の空気が、吐息を白くする。

 お互い第一声に何を発するべきか分からないままで沈黙が続く中、

「頼むから…逃げるな」

 キョウが口を開いた。
 白い息が細かく霧散する。
 強さを増す雨粒が、キョウの銀髪を伝って青の顔面に落ちた。

 僅かな月明かりが逆光となり、青からはキョウの表情がうかがえない。
 だが吐き出される白い息の不規則さと、これまで耳にした事のない微かな声の震えが、キョウの心情を表していた。

「……」
「説明してくれ…俺は君を、弾劾したいわけじゃない。俺は――っ!?」

 鋭い風斬り音と同時に、キョウの語尾が唐突に切れた。

 キョウの右手側の宙空に銀色の影が飛びかかる。
 広葉樹の葉枝の隙間から僅かに差す朧な月光が、白銀の獣の輪郭を描いた。

「狼…!?」
 肩越しに振り返るキョウの水色の目が、眼の前で牙をむき出しにした顎門(あぎと)をとらえた。

「やめ、…っぅ!!」
 くぐもった青の呻き声。
 同時にキョウの頬に生暖かい飛沫の感触。

「大月君!」
 咄嗟に体を起こした青が、牙とキョウの間に左腕を突き出したのだ。
 牙が肉に食い込む。

「おのれ…!」
 罵りを口走りながら、流れるような動きでキョウの手が刀を抜いた。

『グル…ッ』
 狼は短く唸り、青の腕から口を離し仰け反り飛び上がる。

 白い腹をキョウの刃先が掠めた。
 間髪入れずキョウが刀を返すが、

「待、待って、キョウさん!」
 青が今度はキョウの腕を掴んで止めた。
 二歩、三歩と退く白狼と、キョウの間に割って立つ。

「どういう事だ」
 キョウの目が、青の力無く下げられた左腕を見やる。
 袖が破れ、露出した腕は赤く染まっていた。
 指先を伝い、雨粒と混ざり合って泥濘へと落ちていく。

「彼女は、協力者なんだ…」
「彼女?」

 訝しがるキョウの前で、白狼は太く長い尾を振り上げた。
 立ち昇る蜃気楼のように空気が揺らめいたかと思うと、美しい獣は、美しい女の姿に変容する。

「…なるほど。この男が、そうか」
 女の碧色の瞳が、己と同じ色を持つキョウを見据えた。

「説明…説明する、から…」
 刀を握るキョウの腕を掴む青の手に、力が入る。

「……」
 女から視線を外さず、キョウは渋々と刃を下ろし、青の手が離れると刀を腰の鞘に戻した。



 遡ること、凪へ一時帰還した日。

 朱鷺との面会を断られた青は、シユウの姿のまま、その足で七重塔へ向かった。

 キョウも帰還早々に長からの呼び出しを受けていたため、入れ替わる形となったが、お互いの姿は目にしていない。

「すでに峡谷上士から、西方での活動について報告を受けている。彼とは良い連携がとれているようだね」

 久しぶりに対面した長は、常と変わらず、柔和な面持ちで青を出迎えた。

「私の方がいつも助けて頂いています」
 青の返答に、長はわずかに首を傾けるようにして頷くのみで返す。

「それで、君には帰還して早々に申し訳ないのだが、一つ頼まれて欲しい事がある」

 言葉を継ぎながら、長は執務机上の紙を手に取り、
「時間稼ぎをしたくてね。高位の毒術師にしかできない事だ」
 それを青へ差し出した。

「…要塞落とし」
 場所は、狼の背骨の先、蒼狼領側。

「しかしこれでは、蒼狼との戦になるのでは」
「いや。「凪が落とす」のではない。おのずと「落ちる」んだよ」

 キョウ達からも挙がった同じ疑問へ、長は同じ答えを返す。

「………」
 毒術師、獅子の位、シユウには、それが何を意味するのか、理解できた。

「疫病の蔓延…その後、賊の略奪や妖により荒廃……といったところでしょうか。浄化と立て直しには相当の時間を要すると思われます」

 手渡された極秘の依頼書に視線を這わせ、青は淡々と素案を言葉にした。

「いいね。頼まれてくれそうかな」
「承りました」
 青の淡々とした応えに、長は柔らかく微笑んだ。

「後日、チョウトク達に要塞内の調査に向かわせる。蒼狼側の軍備規模や、被害状況を記録、それから…生存者の始末もね。いつ頃を目処にしたら良いかな」
「途中で合流すればよろしいですか」
「彼らにはちょっと別の役割も与えているから、君の仕事が終わった後で、ゆっくり調査してもらう事にする」
「役割…? 承知しました。時期についてですが――」

 一通りの任務内容の確認と打ち合わせを終えたところで「そういえば」と長は話題を切り替えるとともに、姿勢を変えた。

 肘を机について、肩から力が抜けたような体勢だ。

「先日新たに目録に採用された、君の「一蓮」だが。良い名だね」
「あ、ありがとうございます」

 期せずして手向けられた褒め言葉に、青はぎこちなく微笑み返す。

「死後、天にて同じ蓮華の上に生まれ変わる…死にゆく者への慰め、良き手向けとなろう」
「……」
「期待しているよ」

 最後にまた柔和に微笑んで、長は青を送り出した。



 任務を受託するや否や、青は再びその日のうちに凪を発った。
 後発の調査隊が到着するまでに、要塞内を片しておかなければならず、時間の猶予はさほど、無い。

 今回の任務で用いるのは、新しく目録に登録されたばかりの「一蓮」。
 後発隊用の予防薬は、薬術の蓮華一師に依頼を出してある。
 予防や浄化薬は、獅子以上の技術を持つ他の技能師であれば、毒術師でなくとも調合できるように作られているのだ。

「よく見える」

 乾いた谷の向こうに城塞が望める距離までたどり着いた青は、休憩のために日陰となる横穴の入口に腰掛けた。

「…石灰岩…か?」
 岩に手を触れると、指先に白い粉が付着する。

 通常、石灰岩は温暖で湿潤な気候条件において形成されるものだが、いま青がいる場所は、不毛の乾燥地帯と言われている白狼領側だ。

「狼の背骨が関係しているんだろうな…地下空間が実はすごく居心地が良い場所なのか……後にしよう」
 好奇心が散らかり始めた事に気が付き、青は首を振る。

「シユウの名のもとに命ず」
 偵察用の鳶の式を呼び出し、空へ放った。
 要塞周辺に結界や毒罠が仕掛けられていないかを計るのだ。

 鳶は撃ち落とされる事もなく、要塞の上空や周辺を数周ほど旋回し続ける。

「長の心はきっと、決まっているのだろうな」
 遠目に鳶の様子を眺めながら、青は長の意図について考えた。

 蒼狼の魂胆をとうに把握していて、元より初めから利用もしくは潰すつもりでいたに違いない。

 幼い頃に出会った時は「おじちゃん」と気さくに接したものだが、毒術師となり所謂「汚れ仕事」に類する任務を数多く受けるようになってから、青は長の本質を知るようになる。

 凪之国を守るために手段を選ばず容赦がなく、強引で大胆でもある。
 他の四大国情勢の陰りを察知し、これまで数百年の有史において不可侵であった西への進出を決断するなど、長の一声でなければ実現はできなかったであろう。

「師匠との関係はまだ聞けてないし…」
 思い浮かんだのは、西へ旅立つ直前に見た、藍鬼の素顔。

 涼やかな目許や顔の輪郭、髪や肌の色等が、長との血のつながりを即座にはかり知るほどに面影が濃かった。

 長がいち早く西へ諜報部の面々を送って調査を続け、進出に踏み切った要因の一つに、藍鬼の存在は否定できないと、青は考えている。

「……」
 眼前に広がる蒼狼領と白狼領の堺を分断する青天へ、蒼は左腕を掲げた。

 袖が落ちて、わずかに刻印が見え隠れする。
 十五年が経過してもまだ、消える事なく青の肌に残っていた。

「散」
 青が宙に伸ばした手を握ると、鳶は要塞から離れていき、白狼領側の峡谷の隙間へと降下しながら空気に溶け込むように消失。

 式を手元に戻す事で、万が一にも場所を特定される事を防ぐためだ。

「行くか」
 青は岩から立ち上がった。



 夜の闇を待って青は要塞街へ接近した。
 周辺の警備、敷地内の様子、水の巡り、風の流れ、地域の気候等も調べる。

 問題は、要塞の内部構造の調査だ。

 鼠や鳥等の式を放って感覚を共有する事で、概ね把握はできる。
 ただし青にとっては非常に精神力と体力が削られるため、身の安全の確保に細心の注意を払わなければならない。

「ホタル一師なら一刻もかからず終わらせられそうなのにな…」

 それよりは、商人か医者でも装って堂々と正面から入るか――などと、高枝に腰かけて、聳える要塞の灯りを眺めていた時だった。

「夕涼みか。風邪を引くぞ」
 真下から、声。

「!?」
 咄嗟に腰の苦無を抜き、枝上で体勢を起こす。
 どこかで耳にした覚えのある声だ。

「誰だ」
 苦無を構えたまま高枝から木の根元を覗き込む。
 闇夜にわずかな人間の輪郭が判別できた。

「そうか、見えないのだったな。玉」
 短い唱えと共に灯った火の玉が、夜霧に銀髪と空色の瞳を映し出す。

「あ…」
 そこにいたのは、翡翠の陣守村近辺で遭遇した、白狼の女だった。
 なるほど、夜目が利くというわけだ。

「玉…神通術…?」
 油断を解かず、片手に苦無の刃先を隠し持ったまま、青は高枝から飛び降りた。
 対峙する女は、出逢った時と同じ、長い銀髪を後ろで結わえ、黒を基調とした軽装だ。

「昼間の鳶は「式」か?」
「…え」
 青が尋ねる前に、女が先手を取った。

「我らの谷に見知らぬ鳶が舞い降りてきてな。怪我でもしているのかと思い捕まえようとしたが、煙のように消えてしまった。あれは東方の「式」という術であろう」

 女いわく、式から僅かに感じ取った青の匂いに覚えがあり、残り香を辿ってきたところ、木の上の青を発見したのだという。

「さすが…狼の嗅覚……」
 術や式に「匂い」があるとは、予想外だった。

「それで、私に何か」
「蒼狼の要塞を調べているのか?」

 小さな明かりが、女の白い横顔を照らしている。
 その目は、木々の向こうに見える、鉄壁。

 青が答えずにいると、
「協力しよう」
「…何…」

 その代わり、と女は青へ向き直る。
 女の碧い瞳の中で、手元の小さな灯りが反射して蜃気楼のように揺れている。

「力を貸して欲しい事がある」
「……」

 言葉が途切れた二人の頭上で、ヨタカがキョキョキョと夜鳴きの声を連発していた。
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