毒使い

キタノユ

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第三部

ep.35 翡翠の扉(5)

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「鈴(りん)ちゃん~」

 大人の膝丈まで草が茂る山林を、少女の名を呼びながら進む。
 コウとシズネ夫婦と別れた後、青は風術で棚田を飛び越えて裏山へ入った。
 「薬草の森」の名にふさわしく、凪の南の森と同じように様々な薬草や木の実、果実が自生している。

「切り傷や打撲に効くものは、と」

 もし鈴が効能を理解しているのだとしたら、父親のコウの状態に見合った薬草が生えている場所を探せば自ずと見つかる可能性がある。

「鈴ちゃん」と名前を呼び続けながら、草を踏み分けた小さな足跡を探して辿る。少女や家族にとって通い慣れた場所のようで、昨日今日でついたものではない足跡や獣道も数箇所が目に入った。

「…返事が無いって事は、もっと奥へ入ったのか…?」
 辺りを見渡しながら青は式符を取り出す。

「シユウの名に命ず」
 式鳥を呼び出し、空に放った。

 小鳥は青の頭上を数周回った後、迷いながら東側に向かう。鳥を目で追いながら進み、背の高い薮を掻き分けた先で青は足を止めた。

「――あれは!」
 目に入ったのは、若草色の手ぬぐい。高枝に引っかかり、旗のように風に揺れていた。出会った時の鈴が頬かむりに使っていたものだ。

「何であの高さに」
 青が手を伸ばしても届かない距離。ちょうど、大型の四つ足の妖獣の目線ほどの高さ。
 周りを見渡せば、細木は雑草のごとく踏み倒され、大樹の枝々は折られて地面に葉や枝が散乱していた。

「まさか…!」
 脳裏に、浅葱色の着物が映る。
 三つ目猪の針毛に引っ掛かり揺れていた、母さまの着物。

「喰われた…!?」
 
 チチッ チチッ

 頭上で式鳥が鳴いている。
 鳥は手ぬぐいが引っかかっている枝を通り越して、更に山林を進んだ。

「どうか…」
 祈りながら、青は片手に抜き身の刀を握り、鳥を追う。見ると獣道に、追跡者を導くように赤く点々が続いていた。赤い木の実だ。

「鈴ちゃんがこれを…?」

 生きた状態で、妖獣に連れ去られたのだろうか。妖獣の習性は様々で、中には獲物を巣へ持ち帰る種もある。

「近い」

 歩を進めるごとに、森はしじまとなる。
 奴が近い証だ。

 踏み荒らされた「妖獣道」を辿ると、開けた岩場に出た。

「!」

 進む先は切り立った渓谷の崖上。
 そこに、奴がいた。

 猪に似た形態の胴体は濃い灰色毛で覆われ、薄灰色の斑点が散っている。手足、顔は薄汚れた白乳色で、何よりの特徴は巨大な牙と、突き出た長い鼻――獏(ばく)だ。

「鈴ちゃん!」
「!」

 獏の鼻が体に巻きついた少女が、青の声に気が付き振り向いた。

「ぉ…おにーちゃん…?」
 鈴が青へ手を伸ばす。
 抱えていた赤い木の実が獏の足元に散らばった。頬かむりが取れた鈴の頭には、犬か狼かの類と見られる、幼獣特有の大きな耳が生えている。

『グゴ……』

 鼻を鳴らす音と共に、縦に切れ込みを入れたような獏の瞳が、青を見やる。魚類にも似た大きな黒目が無感情にギョロリと動いた。

「その子を放せ!」
 空いた左手で千本を引き抜き、獏の鼻を狙って投げ撃つ。

『ゴッ!!』
 千本の刃先は鈴を逸れ、正確に獏の鼻の付け根に突き刺さった。獏が激しく首を振る。

「きゃっ!」
 鈴の小さい体が揺さぶられ、体を締め付けていた鼻先が緩みかけた。

「シユウの名に命ず」

 続けて青の指先から放られた式符が青く明滅し、蒼い鬣の狼が顕現する。一吠えと共に獏へ飛びかかって鼻先から鈴の首襟をくわえて引き剥がした。

「その子を村へ」
「ワフッ」

 主人の命を受けた式狼は鈴の体をくわえたまま、村に向けて走り出す。「おにーちゃん!」と鈴の叫び声があっという間に遠ざかった。

 式を顕現させている間は術者の気を消費し続ける。高位の式術師ともなれば四六時中顕現させたままでいられると言うが、元々の術力が高くない青にとっては消耗が激しい行為だ。

『グゴォオオ!!』

 獲物を奪われた獏は長い鼻を天へ突き上げて咆吼する。みるみる、鼻と灰色の斑模様が紅潮に色づき始めた。

『ゴォッ!』
 短い嘶きと同時に青に向かって鼻先が伸びる。

「!」
 咄嗟に飛び退く。
 獏の鼻先は青が立っていた地面を抉り、土と砂利が周囲に弾け散った。間髪入れず、舞い上がる砂煙を突き破って獏の巨体が青を狙い飛びかかる。

「わっ…!」
 これも辛うじて飛び退いて避け、獏から間を取ろうとさらに後退した。

 地に大穴を穿った獏は怒りで小刻みに体を震わせながら、無機質な黒目で青を睨んでいた。
 このまま放置すれば、怒りに任せて村を襲いかねない。

「っ!」
 ふ、と青は体が軽くなるのを感じた。
 式狼が、鈴を無事に村まで送り届けて消えたのであろう。気の消耗が止まった。

 右手に持っていた刀を手早く腰に差し、入れ替わりに符を指先に挟み取り出す。その手を前方に掲げ、青は水術を発動させた。

「黒雨(こくう)」

 唱えと共に符の紋様が明滅し燃え尽きる。
 獏の頭上に黒煙が渦を巻き、無数の針を落とすかのごとく激雨が降り注いだ。
 ゴォ、と獏の呻き声が、烟る水煙に包まれる。

 青が掌を強く握る仕草と同時に、獏にだけ局所的に降り注いだ豪雨が止まった。

『グ…グゴゴ……』

 そこに、巨体を泥濘んだ地に沈めた獏の姿。
 顔面と長い鼻を苦しげに軋ませて持ち上げようとしては力尽き泥土に沈む――を繰り返す。

 青が放ったのは、強力な痺れ薬の雨。

 巨体と怪力の持ち主の相手に、粘着水は足止めに効果が薄いと見込んでの、選択だ。

「獏は初めてだけど…」
 獏の正面に回り込み、青は右手で腰の中刀を抜き、左手の指で新たな符を挟んで引き出すと共に親指を苦無の柄に引っ掛けて取り出し握り込む。

 これは朱鷺に「遠隔武器や道具は寝ていても使えるくらい体に叩き込め」と厳しく言われ、数えきれないほどに訓練を繰り返した動きの一つ。

「ふ…っ!」
 短く強く息を吐き出すと共に、青は苦無を獏の眉間へ投げ打った。

『ゴッ!』
 獏の眉間に符を貼り付けるように苦無が突き立った。

「急所はここで良い…はず!」
 すかさず逆手に握り直した中刀を手に地を蹴り、眉間中央に張り付いた符へ全力で刃を突き立てた。間欠泉のように激しく白煙が吹き立ち、刀を突き立てた皮膚と肉を焼く。

『ゴブッ…!!』
 悲鳴とも嗎とも言えぬ音をあげて、獏は目を白黒させた。
 長い鼻を地面に何度も叩きつけ、泥土が激しく跳ね上がった。

「……」
 青は獏の体から飛び降り、数歩飛び退いて様子を伺う。
 初めて対峙する妖獣が相手でも、四つ足の哺乳類と同型であれば大概は眉間の中心が急所か弱点である事が多い。

 地面を打ち付ける鼻の動きが鈍くなり、次第に動かなくなって、停止すると同時に巨体もその場に沈んだ。

「……やった、か…?」
 用心のため刀は握ったまま、青は獏の正面へ近づく。
 瞼が半分閉じかけた瞳の光と瞳孔を用心深く観察しながら、一歩、一歩、進んだ。

「!」

 濁っていた瞳が光を反射して光ったかと思うと、開いていた瞳孔がぐるりと回転して引き絞られた。

『グゴ…ゴゴ……』

 地響きのような音が口から漏れ始め、青が刀を突き立てた眉間の傷口の肉が割れ始める。

「なっ……!?」
 青の目前で、獏の眉間から額にかけての肉を突き破り、骨が隆起して伸び始めた。

「角(つの)が……」

 獏はなおも「ゴゴゴ」と口から地鳴り音を轟かせる。白濁色の角はみるみると、天を指さすように長さを増していた。獏は「何か」へ変容しようとしている。

「形状の変態…という事はこいつは…!」
 妖獣ではなく、妖魔。

「どうする…」
 考えろ。
 強く言い聞かせて冷静さを保とうと必死の青の背後で、

 ボゴッ

 岩が砕ける音。

「!?」
 振り返る青の目の前に、地中から土と岩を突き破った獏の尾――硬化した鎌状の尾先が、青に向かって振り下ろされようとしていた。
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