毒使い

キタノユ

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第三部 ―出立編―

ep.34 白妙の里(5)

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 夜間は交代で見張りを立てるまで用心したにもかかわらず、結局は再び杞憂のまま、一同は平穏な朝を迎えた。

 大広間は清潔で、畳からは真新しい、い草の香り。用意されていた敷物は日干しされていたりと、宿として細部に渡り心地のいいものだった。

 用意された食事も、血の混入に気がつかなければ、きっと美味かったに違いない。

「おはよう、お兄さんたち」

 広間と廊下を仕切る襖の向こうから、少女の声。白妙だ。

「お、おう」
 猪牙が応えると、音もなく襖が開いて白妙が顔を覗かせた。
 すでに旅支度を終えている凪の一隊を見た白妙の瞳が僅かに見開かれ、次に紅い瞳は手つかずの食事に向く。

「ご飯、食べなかったのかい?」
 白妙の声に、怒りや戸惑いは無い。

「ああ、悪い。せっかく用意してもらったんだが、規則なんだ」
「残念。じゃあ…さよならだね。行くところがあるんだものね」

 隊員一同、襲い掛かられる心の準備をしていたが、これもまた、拍子抜けするほどに白妙からは敵愾心を感じなかった。

 白妙は徐に襖を開ききる。縁側の雨戸は全て開け放たれており、柔らかな朝日を浴びる村が見渡せた。
 田畑の向こう―村の出入口方面は山から降りてくる朝霧の影響か、遠景が白く霞んでいる。

「露もいなくなったよ。いい旅日和だ」
「あ、ああ、世話になった。助かったよ」
「良かった。あの道を真っ直ぐ進むと、村の出口だよ」

 白妙が指すのは、屋敷の正面から文字通り真っ直ぐに伸びた、一本道。右手に水田を見渡せて、左手は雑木林に挟まれた、土を踏み固めただけの道だ。

「さようなら、お兄さんたち」

 屋敷の前で手をふる白妙に見送られて、凪の一隊は村からの出口を目指して進む。追ってくる様子も無い。村人たちが家屋から出てくる様子も無い。

「……」
 列の最後尾を歩く青は、ここでもやはりいつもの癖で視線を左右に巡らせて、村に自生する植物を眺めていた。

「二師」
「え」

 唐突に腕を引かれて顔を上げると、いつの間に後列に移動していたのか、キョウがいた。

「くれぐれも、はぐれないように」
「……はい、失礼しました」

 キョウの意図に気づいて、青は素直に頷いて隊列に戻る。
 今ここではぐれたら、二度と帰れなくなる。そんな恐怖が急にこみ上げてきた。

「あ…」
 進む道の途中、雑木林から、人影が降りてきた。
 薪を背負った少年、小五郎だ。

「おう、案内してくれたボウズだな。世話になったな」
「…お元気で」

 先頭を行く猪牙へ軽く会釈をし隊列を見送る小五郎の姿を見止め、隊列の中頃にいた檜前准士が、足を止める。

「……」
 小五郎も、檜前に気づいて手前で歩を止めた。

「惣……いや、小五郎…だったな」
 檜前は大柄な上背を折りたたむように、小五郎の前に片膝をついた。

「昨日はおどかして悪かった」
「…ううん」
 小五郎は瞳を伏せる。

「炭焼きの仕事は、楽しいか」
「…うん」
「村での暮らしは、楽しいか」
「…うん」

 檜前の質問に、小五郎はただ小さく静かに頷く。
 先頭を歩く隊員らが足を止めた。

「幸せか」
「……え…?」
 伏せられていた小五郎の瞳が、檜前を見た。

 大きな黒目を丸くさせて、
「うん…」
 小五郎は深く頷いた。

「そうか」
 唇を引き結んで微笑み頷くと、檜前は立ち上がる。最後に小五郎の肩を片手で撫でるようはたいた。

「元気でな」
 踵を返した檜前の背中を、小五郎はいつまでも見送っていた。

 それから振り返る事なく真っ直ぐに進んだ一行は、小さな広場に出くわした。
 村に来た時にも通った場所だ。
 草が禿げて土が踏み固められた広場の隅に、目印となる小さな祠が置かれている。

「あれ?」
 祠の前に回り込んだ隊員の一人が、首を傾げた。

 昨晩ここを通った時に供えられていた花と饅頭が消えている。それどころか、祀られていたはずの白い玉石も、消えていた。

「……」
 誰からともなく、来た道を振り返る。

 広場から村へ真っ直ぐ伸びていたはずの道が、途中で藪に覆われて消えていた。



 過酷な峠越えを繰り返すこと、丸三日。
 最後の渓谷を越えるために更に二日。

 凪を出立してちょうど七日をかけて、一隊は翡翠ノ國の首府へ辿り着いた。

 都と表現するにはだいぶ大仰なほどに、翡翠の長が居を構える地は、白妙の村と大差ない規模の里山だった。
 この小国がいかに長年にわたり地理的優位で安寧を保ってきたのかが、窺える。

 山あり谷あり時々妖や賊ありの道中を越えた隊員たちは「これは何が何でも絶対に転送陣を置かせてもらいたい」との強い気持ちを新たにしたのは言うまでもない。

 国や都としての規模は小さいながら、翡翠の首府は決して貧相ではなかった。

 翡翠ノ國の建築様式は、凪よりも石材の使用率の高さが目立つ。その国名の通り、至る所に濃淡様々な翡翠石の装飾品があしらわれ、清廉な翠の艶が首府に奥ゆかしい趣を醸し出していた。

 首府の中央に鎮座する長の屋敷も、石柱、玄関までの歩道や中庭の石畳、土間と、ふんだんに翡翠混じりの石材が使われている。

 大広間に通された凪の一隊は、長と対面する。
 長い白髪をまるで水引のように頭部で複雑に結った、老齢の女長。その斜め後ろに壮年の女が座っており、色違いの飾り紐で長と同形の髪型である事から、後継者と思われる。
 いずれも翡翠石の装飾品を、首、手首に身に着けていて、石の数と大きさで位の違いを表しているようだ。

「まあまあ、いらっしゃい。大変だったでしょう」
 穏やかな声が、一同の旅路を労う。

 代表者たる上士二人が儀礼的な挨拶口上を述べるさなか、大広間の両脇に並ぶ翡翠の女高官や文官たちが、耳打ちしあってはしゃいでいる。
 おおかた若い男揃いの凪一同の中でどれが好みか、キョウの顔の話か、であろう。

 値踏みする視線の中で、上士二人以外の男たちは居心地が悪そうだが、最後列の青は周囲の観察に忙しかった。屋敷の大広間を眺めるだけでも、凪と異なる文化、様式が詰め込まれていて、興味が尽きない。

「初めて見た…」
 特に青の、他の隊員達にとってもそうであろうが、目を引いたのは、高官たちの中に並ぶ獣人の存在だ。

 どう見ても「兎」が、翡翠の高官服を着て二本足で立っている。

 高帽からはみ出た茶毛の長い耳が折れ曲がって顔面の両側に垂れていて、木の実のような黒目に、突き出た桃色の鼻、齧歯類特有の少し前歯が覗く口許が小刻みに動いていた。

「か、かわいい…」
「かわいい……触りたい…」
「抱きつきたい…」

 青の前に並ぶ隊員たちから、そんな悶え声が聞こえてくる。

 彼らの葛藤を他所に、大広間前方では長と上士二人による「外交」は粛々と進んでいた。

「あの峰々をたった三日で越えるなんて、さすがは法軍の精鋭の方々ですねぇ」
 上士二人の旅話に、翡翠の長はまるで孫の話を聞くように目を細め、頷いている。

「そういえば…「露」には遭遇なさらなかった?」
「露…、いいえ、幸いにも」
「そう。運がよろしかったわ。でもご帰還の際はお気をつけてね。夜に露流河(つるがわ)へお近づきにならぬよう」

 長の話によると。露流河とは森と連峰の間を横切る大河の名で、白妙と遭遇した河で間違い無いようだった。

 露流河は太古の昔から頻繁に大氾濫を起こし、村ができては流されてを繰り返してきたという。更にここ数百年で水の妖まで現れるようになり、そのために今では全く人が居付かず、東方と西方を遮る難関地帯の一つとして、多くの旅人を呑み込んできた。

「露」というのは、河の氾濫と、水の妖を含めた露流河で起きる水害全般を差す言葉である事も、長の話から理解できた。

「その水の妖というのは、蛇の姿で…?」
「ええ。夜闇に紛れる黒蛇なの」
「黒…白ではないのですね」

「……あなた達、もしかして……」
 若者たちの様子に何かを察したか、

「露流河には「しろたえのさと」という昔噺があってね」
 翡翠の長は、ゆるりと、語りだした。

 むかし むかし つるがわのほとりに
 やせっぽっちの しろへびが すんでいました

 から始まるよくある昔噺は、力が弱く、半端者で孤独な白蛇の物語。

 白蛇は、荒ぶる黒の水神蛇に村を流された哀れな村人たちを隠れ屋へ連れていき、自らの血肉を分け与えた。
 すると村人たちはみるみる元気を取り戻し、永き命を得て、白蛇とともに山間に村を築いた。
 そうして孤独だった白蛇は、村人たちに「しろたえさま」と慕われて、いつまでも仲良く、楽しく、暮らしましたとさ。

 露流河周辺で東西を渡る途中に倒れた旅人は、しろたえさまに導かれる――今もそんな伝承が残っているのだという。
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