毒使い

キタノユ

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第一部 ―幼少期編―

ep.13 手紙(1)

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 青は独り、闇を走っていた。

 わずかな星明りも月明りもない、完璧な漆黒。

 手を延ばしても触れる物は何もなく、足裏は地を踏みしめる感覚もない。

 前に進んでいるのかも分からない。
 前後左右の感覚もなくなってきた。

 息を吸えば吸うほどに、闇が頭の中を侵食する。
 なぜ走っているのか理由も分からない。

 立ち止まり後ろを振り返るが、何かが追ってくる様子もない。

 いっそ妖獣であっても、自分以外の気配があってくれた方が気持ちが楽であった。


 青


 声がした。

「師匠…?」

 口から漏れたつぶやきが、闇の静寂の中で耳障りに響く。

「師匠、どこ?」

 水をかき分けるように両手を動かし、辺りを見渡す。
 背中に温度を感じた。
 振り返るとそこに、涼やかな目許の男が立っている。
 出立直前に見た、藍鬼の素顔。

「師匠!」

 柔らかい笑みをたたえた影へ、青は左手を伸ばした。



「待っ…!」

 自分の声で目を覚ました。

 最初に視界に入ったのは、宙へ突き出した己の手、その向こうの白い天井へ徐々に焦点が定まってきた。

「大月君!」
「青!」
「セイ!」

 三人の声が同時に降ってくる。

「え…」

 手を下ろし、首を左へ僅かずつ傾けると、横に並んだ小松先生、つゆり、トウジュの顔があった。

「ここは病院ですよ。大月君、本の下敷きになったって」

 記憶が定まらないような顔の青へ、小松先生が状況を説明してくれた。

 蟲之区の資料室にて躓いた青が書架へぶつかり、落ちてきた重たい図鑑や書籍の下敷きになって気を失ったという。

「その場にいた方たちが医院へ運んで下さって。お医者様のお話では、ケガは無いようだけど、頭を打ったかもしれないので念のため様子を見る事になりました」

 経過観察のための入院措置とのことだ。

 ゆっくりと体を起こして周りを見渡すと、そこは白い壁と天井に囲まれた小さな病室で、青が眠っていた寝台の他は小さな箪笥と机だけの簡素な空間だ。

 格子柄の硝子窓を秋雨が打ち付けて、トツトツと心地よい拍を刻んでいる。

 病院に運ばれてから丸一日眠っていたようで、学校も欠席となっていた。

 病院から連絡を受けた霽月院経由で小松先生に報せが行き、心配したトウジュとつゆりを伴って見舞いに来てくれて今に至る。

「それにしても、本につぶされるとか、セイらしいよなー」

 寝台の脇に座るトウジュが、がははと笑う。青が目を覚ました安堵感から、つゆりも「笑いごとじゃないってば」と言いつつ、笑みが零れた。小松先生も二人のやりとりに苦笑している。

「…大月君、どこか痛いですか?」

 二人のやりとりを遠い目で見つめている青の様子へ、小松先生は怪訝な面持ちで顔を近づける。

「う、ううん、ちょっとまだ混乱してて」

 迷惑をかけてごめんなさい。
 お見舞いに来てくれてありがとう。

 言いたい事があるはずなのに、うまく口に出せずに黙り込むしかなかった。

 俯いて、掛布を握る両手を見つめる。

 入院着の袖が捲れて左腕の赤黒い模様の端が覗いた。

「!」

 二の腕まで袖を捲り上げると、左腕の内側には赤黒いミミズ腫れのような模様が浮かび上がっている。夢や幻ではなかった。

「ああ、それ、病院の方も不思議がっていましたよ」

 すぐ隣にいるはずの小松先生の声が、やけに遠くに聞こえる。

 青は指先で模様を撫でる。痛みはなく、触れた感触も見た目ほど凹凸はなく、肌組織に模様が浸透しているように見える。

 あるものを開ける鍵。
「その時」がくれば分かる、今がその時。

 その意味は―

「!」

 布団を剥ぎ寝台を飛び降りて、青は壁際の小さな箪笥の上に置かれた自分の鞄を引っ手繰った。

「大月君?」

 どうしたの、と三人の心配そうな様子を背中で感じながらも、青は寝台の上に置いた鞄の中を探る。指先で固く乾いた感触を探り当て引き抜いた。長方形の木片、いつも御守代わりに持ち歩いている、森への血判通行証だ。

「!」

 そこに書かれていたはずの血文字と龍の血判が、消えていた。

 俺が生きている間は使える。
 そう言って藍鬼に渡されたもの。

「そ、そんな…」

 木片を凝視し肩を震わせる青。

「大月君、どうしましたか」

 異変を感じた小松先生は青の両肩に手を添えて呼びかける。トウジュとつゆりも口を噤んだ。

「行かないと、僕」
「え??」

 言うが早いが青は駆けだした。三人の間を抜けて部屋を飛び出し、院内の廊下へ出る。

「大月君!?」

 背後から先生たちの慌てた声。廊下にいた他の入院患者や医療職員たちが足を止めて振り返る。それらを無視して青は廊下を駆け抜けた。

「誰か!その子を止めて下さい!」

 先生の声で我に返った職員が立ちふさがろうとするが、小柄な体を活かして脇をすり抜ける。

 休憩所のような広い区画に出る。

 半開きにされた大きな出窓へ飛び上がり、秋雨が降る外へ飛び出した。

「青!」
「どこ行くんだよ!」

 つゆりとトウジュが追いかける。窓から飛び出した場所は医院の表玄関だった。来院する患者や医院職員が、二階の窓から飛び出した子どもたちにぎょっと足を止める。

「風神、神足!」

 着地と同時につゆりが風術を発動する。風の力で跳躍したつゆりの体が、一気に青との距離を縮めた。

「どうしたの!止まって!」

 つゆりの手が青の背中に届きかけた、瞬間、

「!」

 秋雨の粒が束となって奔流となりつゆりへ横殴りに降り注いだ。

「きゃっ!」

 つゆりがひるんだ瞬間に風術が消え失速。その横を、トウジュが駆け抜けた。再び雨粒が意思を持ったまるで大蛇のようなうねりを作り出す。

「これ、水術なのか??」

 トウジュは青の背中を見据える。術を唱えた様子もなく、雨がまるで青を護るかのように渦を巻く。

「んなら、全部吹き飛ばす!風神!」

 青の背を追いながらトウジュが術を唱える。青を護るようにうねる水の奔流へ、トウジュが風術で作り出した大蛇がぶつかる。凄まじい飛沫が八方へ霧消した。

「よっしゃ!」

 トウジュの確信はだが直後、目の前に隆起した土壁によって遮られる。

「っうわ!」

 追いついた小松先生ともども、二人は足を止める。

「雷神!」

 渾身の雷術が小松先生から放たれ、土壁を打ち崩す。だが崩れた壁の向こう、すでに青の姿は消えていた。

「っくしょー!」

 トウジュの足が泥を蹴る。

「青…どうしちゃったの…」

 びしょ濡れになったつゆりも二人に追いつく。

「セイのやつ…あんなに術うまかったっけ…?」

 呆然とするトウジュの呟きが、静けさを取り戻した秋雨と共に流れて消えた。
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