理科準備室のお狐様

石澄 藍

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10.狐憑き

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 これは、あきがまだ小学生の頃のことである。

 孤塚こづか家は、政界や財界で活躍する人材を数多く輩出している名家だ。
 その経営手腕や危機回避能力は、周囲から一目置かれている。

 たとえば、バブル景気の際はひと足早く土地や株を買い占め、崩壊する前に売り払った。まるで、全てを知っていたかのように。
 しかも、このときばかりでなく、数十年、数百年前からずっと、全てを見越したような行動をとってきた。

 そのおかげで、一族は大層繁栄していた。「一族のものは先見の明があり、皆ことごとく出世する」というような噂まで立つほどだ。

 しかし、これには外部に漏らしてはいけない秘密があった。孤塚家は、狐憑きの一族だったのである。

 狐憑きとは、人間に狐の霊がとり憑く現象である。多くは精神異常や病気をひき起こすといわれているが、この家に憑いている狐は予言や占いを得意としていた。
 孤塚家はそれを利用して、ここまで栄えてきたのである。

 灼は、その孤塚家の本家に産まれた。
 6歳上の兄がひとりと、1歳下の妹がひとりいた。

 妹とはよく遊んだが、兄とは少し距離を置いて接していた。歳が離れているせいか、一緒に遊んだ記憶も、面倒をみてもらったこともほとんどない。

「お前はいずれ、この家を出ていくんだからな。あんまり、ゴミは増やすなよ」

 灼が「学校で流行っているテレビゲームがほしい」と、母にねだっていたときの兄の言葉だ。もちろん、この言葉がなくてもゲームは買ってもらえなかっただろうが。

 当主を継ぐ予定の兄は、何ももてない幼い弟を見下していたらしい。ことあるごとに、自分の方が偉いのだとマウントをとってくる。
 高校生のくせに、大人げがない。灼は正直どうでもよく思っていたため、相手にもしていなかった。
 しかし、何もいわなければいわないで、どんどんつけあがっていく。だから、灼はあまり関わらないようにしていた。
 どこまでも、孤塚家の性質が染みこんだ兄なのであった。

 灼は兄に何ごとかあれば、代わりに家督を継げるように厳しい教育をされてきた。いわば、兄のスペアである。

 しかし、灼自身は金や地位にそこまでの執着はなく、金儲けのための勉強が嫌いだった。
 あるとき、それを母に伝えたら、思いきり頬を平手打ちされた。泣きながら、母の説教を聞いた。

「いい? あなたは次男なのです。何ごともなければ、いずれ独りだちをして、この家を出ていかねばなりません。そのために一生懸命勉強して教養を身につけ、立派な大人になるのです」

 どうやら、母だけはスペアとしてではなく、灼自身のために勉強をさせたかったらしい。
 しかし、それがわかったところで、嫌なものは嫌だった。

 周りの子どもたちは、自由に遊びまわっている。それなのに、自分だけはそれが許されない。
 不条理だ、と灼は思っていた。
 普通に学校に行って、普通に就職して、普通に人生を終えられれば、それでよい。何も権力者になんて、なりたくない。

 しかし、その願いは母に理解されないことがわかった。

 打たれた頬が熱を帯び、その上を涙の筋がいく本も伝う。顔中が火照る中、唇をギュッと結ぶ。
 灼はそれから、もう何もいわなかった。

 兄が成人すれば、自分はスペアの役割から解放され、父や親戚たちからの監視はなくなるはずだ。
 この締めつけも、いくぶんか緩くなるだろう。
 もう少し、自分が中学校を卒業するくらいまで頑張れば、解放される。
 それを希望に、灼は生きてきた。

「ね、兄様! お勉強は終わりましたか? お狐様の社で遊びましょ?」

 殺伐とした家の中で、妹だけは唯一、いつもニコニコして愛嬌があった。

 息抜きがてら、灼は勉強の合間に家族の目を盗んで、たまに妹と一緒に遊んだ。
 ふたりとも家の外ではなかなか遊ばせてもらえなかったので、場所は決まって敷地の奥にある古い社だ。

 そこでは、狐を家の守り神として祀っている。
 齢100歳前後の老婆と40代くらいの歳の世話係の女が、ふたりで暮らしていた。

 老婆は霊力が人一倍高く、狐の依代だった。
 狐をその身に降ろし、予言をする。そのためだけに生かされ、社から出ることも叶わない。
 もとは何代か前の当主の妹だったらしいが、一生をこの社に閉じこめられて生活してきた。

 そして、霊力の高い灼の妹は、次の依代に決められていた。

 老婆の寿命が尽きるのは近い。依代は必ず本家から出さなくてはいけない。
 そして、歳が若くて寿命の長いものを依代にすれば、この先しばらくは犠牲を出さずにすむ。
 そのような理由からだったらしい。

 まだ妹は義務教育中のため、母屋で暮らしながら、依代としての修行を受けている。
 しかし、中学校を卒業したら、あるいは老婆が亡くなったら、この社で一生を過ごさなければならない。

 ふざけるな、と灼は思った。
 犠牲とは何だ。妹の人生を、そんな簡単に奪ってよいものか。
 まだ自分はひとり暮らしができるようになったら、最悪家を出るという選択肢がある。だが、妹には何の選択肢もない。

 しかし、自分にはその決定を覆す権限がない。ずいぶん前に現当主である父に、何とかできないか相談したことがある。

「あの子が依代になるのは、もう決まったことだ。お前が口を出すことではない」

 とりつく島もなかった。それを聞いていた次期当主の兄も、横で意地悪く笑っていただけだった。
 こいつにも頼めない、と灼は悟った。母にいったところで、どうせ母にも権力はない。

 灼は諦めるほかなかった。
 同じ中学校の卒業だというのに、片や幽閉生活、片や自由の身。時間はなんて残酷なのだろう、と思った。
 だからせめて、妹が寂しくないように、なるべく一緒に遊んでやることにした。

 普段は家人でも、神域である社への立入は禁止されている。
 しかし、次期依代の妹だけはいつでも入ることが許可されており、灼はその妹にくっついて度々遊びにいっていた。
 家のものの目が届かない、まさに絶好の遊び場だったのである。

 老婆も世話係も来客が嬉しいらしく、灼が来ても黙認してくれていた。

「よく来たわねえ、ふたりとも。ちょうどお菓子をもらったから、食べていきなさい」

 遊びにいくと老婆は暖かく迎えいれてくれ、妹の修行のついでにいろいろ教えてくれたり、おいしいお菓子を振るまってくれたりした。

「あらあら、灼様。よくいらっしゃいました」

 世話係も灼を見ると、いつもニコニコと笑いかけてくれた。
 家では、誰もこんなふうに笑いかけてくれるものはいない。灼は社にいる間だけ、普通の子どもになれたような気がしていた。

 世話係は分家の中から、霊力の強いものを雇う習わしらしい。
 この世話係も老婆の身のまわりの世話から、ときには占いの手伝いまでこなす有能な人物だった。

 灼も妹も母屋にいるときより、社にいたほうが居心地がよかった。ここにいる間だけが、唯一の幸せな時間だった。

 しかし、その時間はあっけなく崩れさった。
 妹が交通事故で、亡くなったのである。

「どうして、あの子が!? どうして、お狐様は教えてくれなかったの!! 知っていたら、あの子を行かせなかったのに……」

 通夜の席で母は泣きくずれ、半狂乱だった。灼も同じ気持ちだった。
 しかし、周りの大人たちは妹のことよりも、次の依代をどうするかで揉めていた。

「長男は駄目だ。家督を継いでもらわねばならん」
「しかし、あの次男は霊力が低すぎないか?」
「いっそ、他のものを養子にして……」
「そんな前例はないぞ! もしものときは、どう責任をとるつもりだ!?」
「やはり、ここは長男を依代に……」

 皆んな、金や権力にしがみつくことばかり考えている。
 灼は嫌気がさし、逃げるようにその場を離れた。ひとり向かった先は、敷地奥の社だった。
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