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幸せのリリィ
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しおりを挟む「おはようございます」
それは友紀がタオルを干しているとき。愛猫と日向ぼっこをしているとき。同居人の帰りを待っているとき。その人はベランダの下を通るたびに、友紀に向かって手をあげる。
友紀の部屋は川沿いの道路に面した日当たりのよい場所で、ベランダの白い柵がいつでも日の光を反射して眩しいほどに輝いている。都会の喧騒から少し離れたこの場所が友紀はとても気に入り、同居人とともにここで二人暮らしを始めた。すぐに、川から流れてくる少し湿った風が愛おしく、また、初夏になるまで鳴き続けるうぐいすの声に微笑み、愛猫も幸せそうに腹を見せるようになった。
毎日、ここで友紀は同居人を送り出し、買い物を済ませ、洗濯物を畳んで、夜ごはんを作って同居人の帰りを待つ。そんな変わりばえのしない日々に訪れたほんのわずかな変化が、道を通っていく配達員と交わす挨拶だった。
「おはようございます。今日も時間通りですね」
「今日は、あまり忙しくないんです。珍しく」
「事故には気をつけてくださいね」
「はい。ありがとう」
彼とする会話はその程度で、彼はすぐに去っていく。
ベランダの上と下以外で声を交わすことはなく、名前も知らない。けれども、彼が挨拶するようになってから、友紀はなんとなく外をよく見るようになった。薄く化粧をして、髪を結い、涼やかなワンピースを着る。都会のど真ん中に住んでいた頃は気遣ったことのなかった何もない日のスタイルを、この街はきれいなものに変えてくれる。
「にぁ~」
「ハナコ。お外に出たらだめよ」
足元に擦り寄ろうと鳴いた愛猫を抱き上げ、外の景色を見せてやる。
ハナコは家猫で、外の世界を知らない。狭い室内が彼女の世界のすべてで、その中の女王様である彼女は好きなように生きる。それでいい、それがいい、そんな風に生きている。
時たまこうして外気に触れさせてやると、怖がりながらも鼻をひくひく動かして自然の香りを楽しんでいる。ハナコにとっての非日常は、えてしてこんなものだ。
「さ、戻りましょ。今日はパイを焼こうと思ってるの。ハナコも手伝ってくれる?」
うにぁ~、と返事をして、ハナコはどこかへ行ってしまった。きっと今最も寝心地のいい場所を探しに行ったのだ。
ふられてしまった友紀は、はぁとため息をついて冷蔵庫のドアを開けた。
この前、ぼんやりとテレビを見ていたらカフェの特集が組まれていて、美味しそうなそれらを見ていたら急にお菓子作りがしたくなった。友紀は無類のパイ好きで、どうせなら食べたいものを作ろうと材料を買い込んできたのだ。
メニューはレモンメレンゲパイ。昔、母がよく作ってくれたお気に入りのパイ。子どもの頃はたまに作っていたけれど、大人になってからは思い出しもせず、今回ふと舌の上に降り立ってきたあの懐かしい味がたまらなく食べたくなった。レモンと、卵白。パイ生地。生地から作るのは面倒なので、冷凍のシート。
花柄のエプロンをつけて、友紀はキッチンに立つ。
「えーと、なになに…わっ…」
開け放した窓から風が吹いて、レシピ本のページがひらひらと舞う。
慌てて元のページを探して、適当にそこにあったグラスを乗せて重石にした。右上の角が三角に折られたそのページは、小麦粉やら何やら、過去の奮闘の歴史が染み込んでいる。あの頃より少しはうまくできるかしら。それとも下手になっているかしら。
バターを溶かして、粉を振って、レモンを絞って。卵白をきれいに取り分けたら、泡立て器でツノが立つまで。あっとしまった、今のうちにオーブンを温めておかなくちゃ。
がちゃがちゃと慌ただしい音に興味を持ったハナコが、寝床から抜け出して遊びに来た。メレンゲになろうとしている白い液体を見せると、彼女はなんだかよくわからないといった風に首をそらし、キッチンの入り口あたりにごろんと寝転がって尻尾を揺らした。どうやら彼女は考え直し、友紀が落ち着くまでそばに居てくれるらしい。主人の面倒をみるのも、立派な猫のつとめ。
型に流して熱くなったオーブンの蓋を閉める頃には、日はてっぺんに登り切っていた。
「さあハナコ、焼けるまで時間がたっぷりあるから、ブラッシングでもしましょう」
友紀は、ふくらはぎに擦り寄るハナコを窓際まで連れて行き、そのふわふわの体をゆっくりと撫でた。ピンク色のブラシはハナコのお気に入りで、すぐにごろごろ喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細める。オレンジと、白と、黒の毛。取れた猫毛を丸めてボールにすると、グレーの塊が出来上がる。
もう夏だ。うぐいすは鳴きやみ、代わりにセミの声が聞こえ始めている。
網戸越しに空を見る。どこまでも澄んだ青色のそら。大学に入る前、通っていた予備校に『そらちゃん』がいた。三人姉妹で、姉がうみ、妹がほし、という名前だと聞いた。両親はどんな思いでそんな名前をつけたのだろう。わたしが子どもを産むとしたら、どんな名前にするだろうか。
「こんなこと考えたって言ったら、きっと優子は笑うわね。それか、不安になって泣いちゃうかしら?ねぇハナコ、どう思う?」
「にゃんっ」
友紀を見上げて短く鳴いたハナコは、自分がいるじゃない、と、とんちんかんな答えを返してきた。頭をごつん、ごつんと友紀の手にすり寄せ、可愛らしく見上げてくる。
「あー、もーっ!かわいいなぁ。ハナコとゆきは毎日一緒にいるんだもんねーっ。優子なんかに負けないもんねーっ」
ハナコの頬を両手で包んで顔中を撫でてやると、さっきまでのゴマスリとはうって変わって彼女はめんどくさそうに友紀の手をはねのけ、慌てて乱れた毛並みを整え始めた。手を丸めて顔の毛づくろいをするハナコに嘆息しながら、友紀は膝を抱え込んだ。
--あたしのそばにいてよ。あたしもあんたの隣にいるからさ。寂しくないでしょ、お互いに。
なんともひとりよがりで身勝手な、同居人からもらった言葉を、友紀はずっと頭の中で繰り返している。
同居人の優子は、一流企業に勤めるキャリアウーマンである。短い髪の毛をスタイリングして、スーツを着て毎朝出かける。起きる時間は朝の六時。朝食は一緒に。作るのは優子。ハナコは、優子の連れ子だった。
サバサバした性格とまっすぐな心意気が好きで、友紀はずっと彼女のことを知っていた。
「あー、暑くなったねぇ。エアコンつけよ」
「おかえりなさい。ご飯できてるわよ」
「なになにー?生姜焼き?友紀、好きだねぇ」
別にそういうわけじゃないんだけど、と心の中で呟いて、しかしそれは口にせず、友紀はご飯をよそった。
ダイニングテーブルはふたりでこだわって選んだ木の机。黒い脚のチェアは四脚あるけれど、今のところ客以外が座る予定はない。いつでもふたり、向かい合って食事をする。
「もぉ大変なんだよ、今の仕事がさ…詳しくは言えないけど、こうやって早い時間に帰ってくんのも無理矢理」
「いつもお疲れさま。二人でご飯できるの、嬉しいよ」
「友紀がそう言うからさー、あたし頑張ってんの。褒めて」
「調子いいんだから。ハナコもずっと待ってたのよ」
リビングのソファで寝転んでいたハナコが、ぴくり、耳を動かした。
しばらく無言で箸を運ぶ。ポイント5倍デーに、安売りになっていた豚バラ肉と、ひとつ38円の玉ねぎ。優子はいいものを好むから、このことは内緒。いいじゃない、生姜焼き。スタミナもつくし、安いし、楽だし。
優子のさらさらの髪の毛が、咀嚼のたびにひらひら揺れて友紀を誘った。ああ、きれいだなぁ。
「…私も、働こうかなぁ」
別にそれ自体には意味はなく、なんとなくぼんやりと言っただけだった。働いている優子がスマートでかっこよく見えた、とか、優子と一緒に頑張りたい、とか、そんな誰でも言える理由で構わないくらいの、ちょっとした提案。友紀にとってはそれくらい軽いものだったのだけど、優子にとっては違ったらしい。
「え、必要なくない?なんで?」
「ん…なんとなく」
「じゃあいいじゃん。今のままで。何か不満ある?」
「そういうわけじゃないけど…」
「欲しいものでもできたの。言ってよ」
ああ、しまったな。こういうとき、友紀はすぐに後悔する。後悔して、優子にばれないようにため息をついて、笑顔をつくる。二人で隣を歩くようになってから、もう数年。窓の外、遠くの方で、パトカーのサイレンの音がする。
「ごめんごめん。ちょっと言ってみただけなの。今のままでじゅうぶんよ」
「ほんとに?」
「うん。優子におかえりって言える方がいいもんね」
言いながらお味噌汁を注ぎに席を立って、友紀はこの話を終わりにした。
日がめぐるように、好きと嫌いを行ったり来たりしている。おかえりとただいま、の価値が下がる代わりに、醤油の濃さや柔軟剤の香りが重要になっていく。二ヶ月にいちど、きっちり同じ長さに切り揃えられる優子のショートヘアのように、愛しい気持ちも毎月同じ大きさにリセットできたらいい。
「おなかがすいたなぁ」
誰に伝えるでもなく呟くと、ご飯食べたじゃん、と優子が言った。
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