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おまけ
妖狐のひとり言
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深々と身に染みる寒さが続く初春の頃。
妖狐は一人自室で妻の玉藻が用意してくれた酒を飲んでいた。
先日子供達から聞いた突然の朗報。
頑なに新たな主を立てる事を拒み続けたあの狸奴が、何をどうしてか新しい主を立てるというではないか。
狸奴はその話に妖狐の心はとても晴れやかな気持ちに包まれている。
「悩んでいる、か……。まぁ、分からんでもない」
400年前に失った大切な主。その人を理不尽に殺されて訪れた突然の離別。
その後の彼の猫としての生は波乱そのものだった。だが、それまで共にあった主との絆はとても深く、その絆によって結ばれた想いは、彼を彼のままでいさせられた唯一のものだ。
もちろん主だけでなく、その主によって引き寄せられた他の者たちとの絆もまた、彼を救って来た。
「君は愛されているんだよ、狸奴。そして何より、君を愛する者たちは皆、君自身の幸せを望んでいる……」
妖狐はぐいっと手元の杯を煽り、それを畳の上にそっと置いた。そして着物の袂に入れていた手の平よりも小さく丸い徳利のような入れ物を取り出す。入れ物の口には栓がしてあり、その蓋の上にはご丁寧にもお札のような物でしっかりと封印をしてある。
これは、然るべき時に一度だけ使えるもの。
妖狐はそれを見つめ、その口元に小さな笑みを浮かべる。
「真吉殿……あなたの望みが400年経った今、ようやく叶いそうですよ」
********
妖狐が真吉に出会ったのは、真吉が惨殺される半年ほど前の事だった。
どこかで小耳に挟んだのだろう。”讃岐の山奥にある小さな祠に、供え物を持ち願い事をすると何でも叶えてくれる”と言う場所があることを。
険しい山道を登り、獣道を進まなければ辿り着けない場所にあるその祠は、一度立ち入れば帰って来れるかどうかは運しだい、と言われるほど奥深く迷いやすい所にあった。
その祠こそ、妖狐の住まう屋敷のほんの一角に過ぎないと言うのを人間たちは知らない。
妖狐は時折外から誰かが訪ねて来ては、その祠の内側に出向き一心に願いを込める者たちの願いを聞いて来た。
どの願いも自分勝手なものばかり。もちろんそれだけではないものもあったが、正直辟易してしまうような願いばかりが集まって来る。
人間の何と愚かしい事か……。たまには真っ当な願いを言える者はいないのか。
そう思いながらも、妖狐は訊ねてきた来た者たちの願いを叶えてきた。
もちろん、『それ相応の対価』を支払ってもらった上で、だ。
そんな時祠を訪ねて来た真吉は、両手いっぱいの山菜や果実を祠の前に置き両手を合わせる。
「稲荷大明神様、どうぞわしの願いを叶えて下さい。わしは土佐の山奥に住む黒川真吉と言う者。自分勝手な願いを叶えてもらおうなどと浅ましい事は重々承知の上で、どうしても、どうしても叶えて頂きたい願いがございます。この愚かなわしの願いを、どうか、どうか聞き届けてやって下さい」
一心不乱に手を合わせ、誰よりも熱心なその願いに妖狐は祠の前にゆっくりと腰を下ろした。
「わしは土佐藩に属する黒川家の武家の産まれ。わしは武士になることを拒み、本分を全うできぬ武士崩れとして村人たちに村八分にされとります。しかし、それでもわしは人を傷つける事は嫌いじゃ。どの人間にも平等に与えられちゅう命を、他人が勝手に奪ってえいとはわしはどうしても思えんのじゃ」
平等。その言葉がこの時代何の意味も成さず、それを唱え続ける者が奇異な目で見られるのはおかしなことではなかった。その目に晒され続けても、自分の気持ちに嘘を吐きたくないと言う信念を持った真吉の願いは、この時の妖狐には新鮮に感じられた。
「いや、それよりも、稲荷大明神様に聞き入れて頂きたい願いはただ一つ。わしには嫁いで行った娘と、わしを信じてついて来てくれとる妻と同じくらい大切にしちゅう猫がおります。幸之助と言う黒い猫です。ほんまに可愛らしい猫ながです。いつもわしと一緒におってくれて、出掛ければ戸口まで見送りに来たり出迎えてくれたり。幸之助はほんに賢い子ながです」
幸之助を想い、その話をしている時の真吉の表情は本当に幸せそうだった。
口元に笑みを浮かべ、大切な大切な者たちを想う深い愛情に満ちたその表情をする人間を、妖狐は今まで見たことが無い。こんなにも満たされている表情をする者が一体何の願いがあると言うのだろうかと考える。
人間とは欲深く、口では何とでも言える仮面をかぶる生き物。凡そ、この真吉の願いも大したものではないに違いない。
妖狐はそう思いながらも、真吉の表情から目が離せずにいた。しかし、真吉は次の瞬間すっと表情を曇らせると、膝の上に置いた手をぎゅっときつく握りしめる。
「……わしは、わしは近々殺されるやろう」
声のトーンがぐっと下がり、自分のこれからの未来を確信したようなその言葉に、妖狐は目を細める。
「わしは分かっちゅうんじゃ。今の世の中、人とは違う生き方が受け入れられんことは誰でも分かる。そんな事をしゆうき、家族にもかけんでいい苦労を強いらせてしまっていることも、よーく分かっちゅう。やから、妻にはわしと離縁をして、まっと幸せに生きて貰いたいと思っちゅうけんど、妻はそれを拒むんじゃ。こがなわしと一生を添い遂げると頑として聞きやせん。ほんに、わしは恵まれた幸せ者じゃ」
真吉は力なく笑いながらも、その表情からはどこか嬉しそうな色も窺い見えた。
彼は妻を心から愛し、妻もまた彼を心から愛していることがよく分かる。茨の道と分かっていても、お互いが信頼し合っている事がひしひしと伝わる、そんな様子だった。
「しかし、妻はそう言ってくれとっても、わしの心には苦しさしかない。申し訳なさしかない。それでも、どうしても、どう転んでも、立ち返るのは自分に嘘を吐きたくないと言う想いなんじゃ。後ろめたさが残るような生き方はしたくない。後悔が大きく残るような生き方はどうあってもしたくないがじゃ。わしはただ、みんなが幸せになって貰いたいだけながです」
必死に話す真吉の目には、いつの間にか涙が込み上げてボロボロと頬を伝い落ちていた。
自分の中の気持ちが昂り、抑えきれないのだろう。
真吉は零れた涙を汚れた着物でぐいっと拭い去り、言葉を続ける。
「……でもなぁ……人間、どうあっても後悔が残るんやろうと思う。だったら、少しでも軽く済ませたいと思うがです。妻の事は、妻の意志を汲んで望むとおりにすることにわし自身納得させたがですけど、ただ幸之助は、わしがおらんなって、妻もおらんようになってしまったらどうなるかと思うと心配ながです。幸之助は尻尾が長い猫で、わしら以外の人には気味悪がられるようなそんな子じゃき……ただただ、心配しよるがです」
真吉はそう言うと、突然両手を膝の前に付き深々と頭を下げた。
あまりにも唐突な事に、黙って話を聞いていた妖狐も驚いたほどだ。
「だから、お願いします。わしが殺されて、もし今後幸之助が独りぼっちになるような事があったら、あの子の為にあの子の幸せを願うわしの言葉を、どうか、どうか届けてやって欲しいがです! あの子の生きる道しるべになるような、背中を押してやれるようなわしの言葉を届けてやって下さい!!」
残されるものに託したい言葉。それを届けて欲しいと言う真吉の言葉に妖狐は目を見開いた。
自分の為の願いでもあるが、決して独りよがりではない、それを上回る自分以外へ向けられた温かい想いの詰まった願い。そんな願いをする者がまだいたのかとそう思った。同時に、真吉の心根に妖狐は心を打たれた。
この願いは、これまでのどの願いよりも確実に叶えてやりたい。
そう、妖狐自身が思えるほどに。
「……あい分かった。その願い、叶えよう」
気付いた時には妖狐はそう口にしていた。
突然聞こえてきた声に、真吉は一瞬ビクッと肩を震わせ思わず周りを見回すが、すぐに祠に向かい深々と頭を下げる。
「ありがたき幸せに存じます!!」
真吉は心底嬉しそうに礼を述べ、顔を上げた時には先ほどとは比べ物にならないほど大粒の涙を零し、嬉しそうに微笑んでいた。
妖狐はすぐ近くにある小さな壺を一つ手に取ると、近くに控えていた小さな子供が受け取り、そっと祠の戸口を開いてそれを真吉の方へと差し出した。
真吉は突然現れたその壺を手に取り、もう一度祠に目を向ける。
「それは言霊の壺と言う。そなたの願いをその壺に閉じ込め、取っておくことができる。だが、これを渡す代わりにそなたには相応の対価を支払ってもらおう」
「対価……? 対価とは一体……」
「そこに置かれた供物のように、物として表せられるものではないもの。何かそなたの中の大切なもの一つと交換だ。それを差し出せないのであれば、この話は無かったものにする」
妖狐はこの時ほど心苦しいと思ったことはない。
それでも、願いを叶えることに対しての対価を支払う決め事は揺るがすわけにはいかなかった。
真吉はしばし口を閉ざして考え込む。だがすぐに顔を上げるときっぱりと口を開いた。
「ほんなら、わしのこれからの願いじゃ。わしは欲深いけぇ、願い出したらいくらでも願うてしまう。家族の幸せ、周りの幸せ、生きるもの全ての幸せ……。どんどん膨らんで尽きることが無い。やから、今回の願いを最後にそれ以外の願いは全て、出来んようにしてほしい」
「……」
妖狐は無意識にぎゅっと膝の上に置いた手を握り締めた。
何の願いも持たない人間は、どうなってしまうのか。つい、そう考えてしまう。
「どの道、わしは死ぬ運命にある。別段、願い事が無くなったからと言って問題はないですろう」
「……あい分かった」
妖狐の返事を待ち、真吉は涙に滲んだ目を細めてニカっと笑うと壺の栓を抜き、ありったけの想いを込めて幸之助への言葉を詰め込んだ。
たくさんたくさん、言いたいことはある。伝えたいことがある。それでも、その中から一つでも幸之助の背中を押してあげられる言葉を慎重に選び、真吉は壺の中に言葉を詰め込んで行った。
「これで十分ですきに。ほんまに、ありがとうございます」
思いの丈を壺に込めた真吉が再び栓をして差し出すと、壺を持ってきた子供はそれを受け取り再び祠の中へと戻ってきた。
妖狐はそれをしかと受け取り約束通り真吉からの対価をもらい受けると、彼は憑き物が落ちたかのように祠を後にしていった。
*****
夜。加奈子を突き放すように別れてしまった狸奴が思い悩み、社の上で膝を抱えて呆然とする姿を見た妖狐は着物の袂から願いの壺を取り出してそっとその栓を引き抜いた。
解放された真吉の言葉を少しだけ変えはしたが、それらは紛れもない真吉が幸之助に向けて込められた想いであることには変わりない。
幸之助の幸せを願うのは、どれだけ時が流れようと変わらない。
妖狐もまた、幼い我が子同然に見守ってきた彼の幸せを願う一人なのだ。
「狸奴。そなたの幸せを願うのは、私とて同じだ。真吉殿の最後の願いを私は叶えたいと思うよ」
終
妖狐は一人自室で妻の玉藻が用意してくれた酒を飲んでいた。
先日子供達から聞いた突然の朗報。
頑なに新たな主を立てる事を拒み続けたあの狸奴が、何をどうしてか新しい主を立てるというではないか。
狸奴はその話に妖狐の心はとても晴れやかな気持ちに包まれている。
「悩んでいる、か……。まぁ、分からんでもない」
400年前に失った大切な主。その人を理不尽に殺されて訪れた突然の離別。
その後の彼の猫としての生は波乱そのものだった。だが、それまで共にあった主との絆はとても深く、その絆によって結ばれた想いは、彼を彼のままでいさせられた唯一のものだ。
もちろん主だけでなく、その主によって引き寄せられた他の者たちとの絆もまた、彼を救って来た。
「君は愛されているんだよ、狸奴。そして何より、君を愛する者たちは皆、君自身の幸せを望んでいる……」
妖狐はぐいっと手元の杯を煽り、それを畳の上にそっと置いた。そして着物の袂に入れていた手の平よりも小さく丸い徳利のような入れ物を取り出す。入れ物の口には栓がしてあり、その蓋の上にはご丁寧にもお札のような物でしっかりと封印をしてある。
これは、然るべき時に一度だけ使えるもの。
妖狐はそれを見つめ、その口元に小さな笑みを浮かべる。
「真吉殿……あなたの望みが400年経った今、ようやく叶いそうですよ」
********
妖狐が真吉に出会ったのは、真吉が惨殺される半年ほど前の事だった。
どこかで小耳に挟んだのだろう。”讃岐の山奥にある小さな祠に、供え物を持ち願い事をすると何でも叶えてくれる”と言う場所があることを。
険しい山道を登り、獣道を進まなければ辿り着けない場所にあるその祠は、一度立ち入れば帰って来れるかどうかは運しだい、と言われるほど奥深く迷いやすい所にあった。
その祠こそ、妖狐の住まう屋敷のほんの一角に過ぎないと言うのを人間たちは知らない。
妖狐は時折外から誰かが訪ねて来ては、その祠の内側に出向き一心に願いを込める者たちの願いを聞いて来た。
どの願いも自分勝手なものばかり。もちろんそれだけではないものもあったが、正直辟易してしまうような願いばかりが集まって来る。
人間の何と愚かしい事か……。たまには真っ当な願いを言える者はいないのか。
そう思いながらも、妖狐は訊ねてきた来た者たちの願いを叶えてきた。
もちろん、『それ相応の対価』を支払ってもらった上で、だ。
そんな時祠を訪ねて来た真吉は、両手いっぱいの山菜や果実を祠の前に置き両手を合わせる。
「稲荷大明神様、どうぞわしの願いを叶えて下さい。わしは土佐の山奥に住む黒川真吉と言う者。自分勝手な願いを叶えてもらおうなどと浅ましい事は重々承知の上で、どうしても、どうしても叶えて頂きたい願いがございます。この愚かなわしの願いを、どうか、どうか聞き届けてやって下さい」
一心不乱に手を合わせ、誰よりも熱心なその願いに妖狐は祠の前にゆっくりと腰を下ろした。
「わしは土佐藩に属する黒川家の武家の産まれ。わしは武士になることを拒み、本分を全うできぬ武士崩れとして村人たちに村八分にされとります。しかし、それでもわしは人を傷つける事は嫌いじゃ。どの人間にも平等に与えられちゅう命を、他人が勝手に奪ってえいとはわしはどうしても思えんのじゃ」
平等。その言葉がこの時代何の意味も成さず、それを唱え続ける者が奇異な目で見られるのはおかしなことではなかった。その目に晒され続けても、自分の気持ちに嘘を吐きたくないと言う信念を持った真吉の願いは、この時の妖狐には新鮮に感じられた。
「いや、それよりも、稲荷大明神様に聞き入れて頂きたい願いはただ一つ。わしには嫁いで行った娘と、わしを信じてついて来てくれとる妻と同じくらい大切にしちゅう猫がおります。幸之助と言う黒い猫です。ほんまに可愛らしい猫ながです。いつもわしと一緒におってくれて、出掛ければ戸口まで見送りに来たり出迎えてくれたり。幸之助はほんに賢い子ながです」
幸之助を想い、その話をしている時の真吉の表情は本当に幸せそうだった。
口元に笑みを浮かべ、大切な大切な者たちを想う深い愛情に満ちたその表情をする人間を、妖狐は今まで見たことが無い。こんなにも満たされている表情をする者が一体何の願いがあると言うのだろうかと考える。
人間とは欲深く、口では何とでも言える仮面をかぶる生き物。凡そ、この真吉の願いも大したものではないに違いない。
妖狐はそう思いながらも、真吉の表情から目が離せずにいた。しかし、真吉は次の瞬間すっと表情を曇らせると、膝の上に置いた手をぎゅっときつく握りしめる。
「……わしは、わしは近々殺されるやろう」
声のトーンがぐっと下がり、自分のこれからの未来を確信したようなその言葉に、妖狐は目を細める。
「わしは分かっちゅうんじゃ。今の世の中、人とは違う生き方が受け入れられんことは誰でも分かる。そんな事をしゆうき、家族にもかけんでいい苦労を強いらせてしまっていることも、よーく分かっちゅう。やから、妻にはわしと離縁をして、まっと幸せに生きて貰いたいと思っちゅうけんど、妻はそれを拒むんじゃ。こがなわしと一生を添い遂げると頑として聞きやせん。ほんに、わしは恵まれた幸せ者じゃ」
真吉は力なく笑いながらも、その表情からはどこか嬉しそうな色も窺い見えた。
彼は妻を心から愛し、妻もまた彼を心から愛していることがよく分かる。茨の道と分かっていても、お互いが信頼し合っている事がひしひしと伝わる、そんな様子だった。
「しかし、妻はそう言ってくれとっても、わしの心には苦しさしかない。申し訳なさしかない。それでも、どうしても、どう転んでも、立ち返るのは自分に嘘を吐きたくないと言う想いなんじゃ。後ろめたさが残るような生き方はしたくない。後悔が大きく残るような生き方はどうあってもしたくないがじゃ。わしはただ、みんなが幸せになって貰いたいだけながです」
必死に話す真吉の目には、いつの間にか涙が込み上げてボロボロと頬を伝い落ちていた。
自分の中の気持ちが昂り、抑えきれないのだろう。
真吉は零れた涙を汚れた着物でぐいっと拭い去り、言葉を続ける。
「……でもなぁ……人間、どうあっても後悔が残るんやろうと思う。だったら、少しでも軽く済ませたいと思うがです。妻の事は、妻の意志を汲んで望むとおりにすることにわし自身納得させたがですけど、ただ幸之助は、わしがおらんなって、妻もおらんようになってしまったらどうなるかと思うと心配ながです。幸之助は尻尾が長い猫で、わしら以外の人には気味悪がられるようなそんな子じゃき……ただただ、心配しよるがです」
真吉はそう言うと、突然両手を膝の前に付き深々と頭を下げた。
あまりにも唐突な事に、黙って話を聞いていた妖狐も驚いたほどだ。
「だから、お願いします。わしが殺されて、もし今後幸之助が独りぼっちになるような事があったら、あの子の為にあの子の幸せを願うわしの言葉を、どうか、どうか届けてやって欲しいがです! あの子の生きる道しるべになるような、背中を押してやれるようなわしの言葉を届けてやって下さい!!」
残されるものに託したい言葉。それを届けて欲しいと言う真吉の言葉に妖狐は目を見開いた。
自分の為の願いでもあるが、決して独りよがりではない、それを上回る自分以外へ向けられた温かい想いの詰まった願い。そんな願いをする者がまだいたのかとそう思った。同時に、真吉の心根に妖狐は心を打たれた。
この願いは、これまでのどの願いよりも確実に叶えてやりたい。
そう、妖狐自身が思えるほどに。
「……あい分かった。その願い、叶えよう」
気付いた時には妖狐はそう口にしていた。
突然聞こえてきた声に、真吉は一瞬ビクッと肩を震わせ思わず周りを見回すが、すぐに祠に向かい深々と頭を下げる。
「ありがたき幸せに存じます!!」
真吉は心底嬉しそうに礼を述べ、顔を上げた時には先ほどとは比べ物にならないほど大粒の涙を零し、嬉しそうに微笑んでいた。
妖狐はすぐ近くにある小さな壺を一つ手に取ると、近くに控えていた小さな子供が受け取り、そっと祠の戸口を開いてそれを真吉の方へと差し出した。
真吉は突然現れたその壺を手に取り、もう一度祠に目を向ける。
「それは言霊の壺と言う。そなたの願いをその壺に閉じ込め、取っておくことができる。だが、これを渡す代わりにそなたには相応の対価を支払ってもらおう」
「対価……? 対価とは一体……」
「そこに置かれた供物のように、物として表せられるものではないもの。何かそなたの中の大切なもの一つと交換だ。それを差し出せないのであれば、この話は無かったものにする」
妖狐はこの時ほど心苦しいと思ったことはない。
それでも、願いを叶えることに対しての対価を支払う決め事は揺るがすわけにはいかなかった。
真吉はしばし口を閉ざして考え込む。だがすぐに顔を上げるときっぱりと口を開いた。
「ほんなら、わしのこれからの願いじゃ。わしは欲深いけぇ、願い出したらいくらでも願うてしまう。家族の幸せ、周りの幸せ、生きるもの全ての幸せ……。どんどん膨らんで尽きることが無い。やから、今回の願いを最後にそれ以外の願いは全て、出来んようにしてほしい」
「……」
妖狐は無意識にぎゅっと膝の上に置いた手を握り締めた。
何の願いも持たない人間は、どうなってしまうのか。つい、そう考えてしまう。
「どの道、わしは死ぬ運命にある。別段、願い事が無くなったからと言って問題はないですろう」
「……あい分かった」
妖狐の返事を待ち、真吉は涙に滲んだ目を細めてニカっと笑うと壺の栓を抜き、ありったけの想いを込めて幸之助への言葉を詰め込んだ。
たくさんたくさん、言いたいことはある。伝えたいことがある。それでも、その中から一つでも幸之助の背中を押してあげられる言葉を慎重に選び、真吉は壺の中に言葉を詰め込んで行った。
「これで十分ですきに。ほんまに、ありがとうございます」
思いの丈を壺に込めた真吉が再び栓をして差し出すと、壺を持ってきた子供はそれを受け取り再び祠の中へと戻ってきた。
妖狐はそれをしかと受け取り約束通り真吉からの対価をもらい受けると、彼は憑き物が落ちたかのように祠を後にしていった。
*****
夜。加奈子を突き放すように別れてしまった狸奴が思い悩み、社の上で膝を抱えて呆然とする姿を見た妖狐は着物の袂から願いの壺を取り出してそっとその栓を引き抜いた。
解放された真吉の言葉を少しだけ変えはしたが、それらは紛れもない真吉が幸之助に向けて込められた想いであることには変わりない。
幸之助の幸せを願うのは、どれだけ時が流れようと変わらない。
妖狐もまた、幼い我が子同然に見守ってきた彼の幸せを願う一人なのだ。
「狸奴。そなたの幸せを願うのは、私とて同じだ。真吉殿の最後の願いを私は叶えたいと思うよ」
終
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