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弐
覚悟と信念
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その夜、私は遠くに幸之助の奏でる鈴の音を聞きながら眠りについた。
寝る前に鞍馬から真吉さんと幸之助の事を聞いたからかもしれないけれど、このお屋敷に来てからは初めて、真吉さんの夢を見た。
それは、とても暖かくて優しい、そして黒川家の人間の生き様を垣間見れた夢だった……。
◆◇◆◇◆
家の中から、赤ん坊の泣き声が響き渡る。同時に、おヨネの声も聞こえてきた。
「おお、よしよし……」
そう言いながら軒先に出てきたのは、一歳ほどの赤ん坊を抱えた年若いおヨネだった。真吉の所へ嫁いできて二年ほど経った頃に、二人は一人の女の子を設けていたのだ。
何かが気に入らなかったのか、ただぐすっているだけなのか分からないが、なかなか赤ん坊は泣き止まない。
「おう、もんて来たぜよ!」
「ほらほら、お福。父様《ととさま》が帰られましたよ~」
おヨネが一生懸命子供をなだめている間に、出掛けていた真吉が戻ってきた。
ずかずかと足音を立てて姿を現した真吉の姿は、今までのようにヨレヨレした着物ではなくきちんとした紋付きの羽織袴を着ていた。
真吉は泣き叫ぶ我が子をみて、嬉しそうに目を細める。
「おお、元気がえいねゃ! えい事じゃ、ようけ泣くほど体が丈夫な子に育つ!」
「お前さまったら、そんな大きな声を出したらお福が余計に泣くじゃありませんか」
なかなか泣き止まないお福を抱えたまま、大きな声で話かけてくる真吉におヨネは困ったような笑みを浮かべてそう言うと、「おお、すまざった」と真吉は慌てて声を落とす。
「お福はまっことえい子じゃ。おヨネによく似たべっぴんさんじゃ。大きゅうなったらもっとべっぴんになるにかぁらん」
「もう、お前さまったら」
「ほれほれ、お福。ほれ、泣くな。よし、父が可愛いお前に玩具をやろう」
そう言って着物の袂から取り出したのは手持ちの太鼓だった。くるくると回すと、太鼓の横についている紐が太鼓の表面を「でんでん」と叩く、でんでん太鼓だ。
くるくると回してでんでん太鼓を鳴らしている内にお福は泣き止み、やがてキャッキャッと声を上げて笑うようになった。
「ほうか、嬉しいか!」
娘が喜ぶ姿を見て、真吉もまた嬉しそうに笑いながらでんでん太鼓を鳴らし続ける。だが、おヨネはその太鼓を見て複雑そうな表情を浮かべていた。
「お前さま……そのでんでん太鼓、どこで?」
「うん? これか。これはな、本家で貰うて来た」
本家と聞いておヨネの表情はわずかに顔を固くした。
本家に呼び出されたから、と言う理由で確かに今朝はいつもと違い、武士らしく紋付き袴を履いて髪を結い上げ、毛嫌いしていた脇差を差して出掛けて行ったのだ。
「お前さま、もしかして父上さまに何か言われたがやないですか?」
「……」
お福をあやしていた真吉は瞬間的に顔から笑みを消し、おもむろにおヨネを振り返った。
「もう一度、武士として本家に戻って来いと言われた」
彼が武士として生きることを拒んでいるのを、おヨネは良く知っていた。脇差を腰に差すことをとても嫌がっていて、刀の手入れは時々するもののそれは今回のような急な呼び出しに備えているだけのこと。それ以外は手に取ることもしないような人だ。しかし、黒川家の長男でもある真吉は、黒川を継がなければならない立場の人間。勘当されたとは言え、父親はやはりどこか諦めきれないに違いない。だから今回、急ながら真吉を呼び出したのだ。
初めは、その呼び出しを渋り続けていたが、仕舞には母親に泣きつかれてしまった。母親に泣かれたとあっては呼び出しに応じないわけにはいかなかった。
「それで、お前さまはどうするつもりでおるがです?」
そう訊ねるおヨネに、真吉は腰に携えていた刀を下ろし、畳に胡坐をかいて背筋を正したまま座ると、庭先を見つめながらきっぱりと言い切った。
「わしは武士にはならん。父上にも改めてそう申し上げてきた。武家の血を継いじゅう言うても、わしは人を傷つけ命をも奪う刀が嫌いじゃ。どがな理由があろうとも、わしは人は斬らん。斬るぐらいなら斬られた方がマシじゃ」
「……」
「わしはただ、貧しくてもここで平穏に暮らしたいがよ。おヨネとお福と、こうして幸せに暮らしたい。おヨネがこんなわしを覚悟を決めて選んでくれたように、わしもとうの昔に武士にはならん事を決めた。そもそも武士言うたち、所詮は田舎侍。江戸に上って百万石の大名をこさえられるほどの力は、どの道黒川にはありゃあせん」
そう言ってニカッと笑うと、もう一度立ち上がっておヨネの腕に抱かれているお福を抱き上げ、高く持ち上げる。
「わしはおヨネとお福は元より、この村の人らぁを幸せに出来ればそれでえいがよ!」
「お前さま……」
「おまんらぁと普通の暮らしを心の底から望んじゅう。村民たちが困らん生活を望んじゅう。当たり前の幸せがありゃあそれ以上は何も望まんき」
満面の笑みを浮かべる真吉を、きょとんとした顔で見下ろしていたお福はつられるようにまた声を上げて笑った。
◆◇◆◇◆
「……」
私は夢から覚めて、ゆっくりと瞼を押し上げる。
今日見た夢は、幸之助がまだ黒川家に来る前の夢だったみたい。
真吉さんとおヨネさんにはお福と言う女の子がいたんだ。色々悩み事はあるみたいだったけど、凄く幸せそうだったな。
でも……。あの時代で真吉が望む生き方は、とても生き難かったに違いない。今みたいに多様性が認められる世の中じゃないんだもの。武士ではない生き方をするのは、周りからの偏見や確執はあって当たり前だった。それを覚悟して受け入れてでも、真吉さんは生き方を曲げなかった。そしておヨネさんもそんな真吉さんの生き方に添い続けた。
そんな生き方、今でも難しい……。ううん、どちらかと言えば今の方が困難なのかもしれない。
自分だけじゃない、家族まで傷つけてしまう。そう思ったらどうしても腰が引けてしまう。そこまでの覚悟を持って貫き通すだけの信念は、なかなか持てないわ。
布団にもぐったままぼんやりとそんな事を考えていると、炊事場の方からとてもいい匂いがしてきた。
幸之助だ……。
彼はいつも明け方近くに帰って来てると思うのだけど、寝てないんじゃないかって思うくらい早くに起きてる。
私もいくら休み期間中だとは言え、あんまりルーズな生活になっちゃいけないと思って、遅くても7時には起きるようにしてるんだけど、私が起きる頃には幸之助はいつも朝餉の支度を済ませてお膳に乗せ、皆で食卓を囲める場所に選んだ奥座敷に私が行く頃に合わせて運び入れて来る。
私は起き上がると急いで身支度を済ませ、炊事場の方へ向かう。すると幸之助は少しだけ驚いた顔をしてこちらを見るけれど、すぐに微笑みかけてきた。
「おはようございます、加奈子殿。丁度、朝餉の支度が出来ました」
お膳の上には白菜の漬物と豆腐のお味噌汁に焼き魚と、切り干し大根の煮つけが乗っていた。
「おはよ。私も手伝うよ」
「え、でも……」
「手伝わせて。幸之助に色々してもらってばっかりじゃ、申し訳ないもの」
私はそう言って笑うと、お膳の一つを持ち上げた。
「加奈子殿……どうされたんですか?」
「え?」
「瞼が腫れてます」
その言葉に、私は思わずドキッとしてしまった。
そうだ。昨日鞍馬に昔の話を聞いて号泣しちゃって、あの後もしばらく涙が止まらなくてそのまま寝落ちちゃったんだった。顔は洗ってきたけど、あれだけ泣けば顔を洗ったぐらいじゃ腫れぼったさが引くわけもないか。
「鞍馬に何かされたとか……」
「な、ないない! それはないよ!」
「ならいいんですが……」
「昨日の夜寝る前に、うっかり泣ける映画を観ちゃって」
昨日の話は出来ないから、何か別の言い訳を咄嗟にしなければと思ったら、出てきたのは映画だった。これは使える。
だけど、幸之助は「映画」と言う単語を初めて聞いて首を傾げた。
「えいが、ですか?」
「うん。役者さんが演技をしているお話の……」
「あぁ、歌舞伎のようなものですか」
「え? あ、うん、そう」
うん。全然違うんだけどね。まぁ説明難しいし、役者さんが演じると言う意味ではあながち大外れって言うほど外れてもいないし、いいか。
「じゃあ運んじゃうね」
「はい。ありがとうございます」
私は幸之助と一緒に奥座敷にお膳を持って行くと、鞍馬は胡坐をかいて満面の笑みで私たちを出迎えた。
「おお! 待ちかねたで! 朝餉じゃ! 腹が減って減ってかなわん!」
そう言いながら自分の膝を叩き「待ってました!」とでかい声で囃し立てて来る。
……随分偉そうじゃない。
私は昨日とは別人かのように振舞う鞍馬に、ついジト目を向けてしまった。
寝る前に鞍馬から真吉さんと幸之助の事を聞いたからかもしれないけれど、このお屋敷に来てからは初めて、真吉さんの夢を見た。
それは、とても暖かくて優しい、そして黒川家の人間の生き様を垣間見れた夢だった……。
◆◇◆◇◆
家の中から、赤ん坊の泣き声が響き渡る。同時に、おヨネの声も聞こえてきた。
「おお、よしよし……」
そう言いながら軒先に出てきたのは、一歳ほどの赤ん坊を抱えた年若いおヨネだった。真吉の所へ嫁いできて二年ほど経った頃に、二人は一人の女の子を設けていたのだ。
何かが気に入らなかったのか、ただぐすっているだけなのか分からないが、なかなか赤ん坊は泣き止まない。
「おう、もんて来たぜよ!」
「ほらほら、お福。父様《ととさま》が帰られましたよ~」
おヨネが一生懸命子供をなだめている間に、出掛けていた真吉が戻ってきた。
ずかずかと足音を立てて姿を現した真吉の姿は、今までのようにヨレヨレした着物ではなくきちんとした紋付きの羽織袴を着ていた。
真吉は泣き叫ぶ我が子をみて、嬉しそうに目を細める。
「おお、元気がえいねゃ! えい事じゃ、ようけ泣くほど体が丈夫な子に育つ!」
「お前さまったら、そんな大きな声を出したらお福が余計に泣くじゃありませんか」
なかなか泣き止まないお福を抱えたまま、大きな声で話かけてくる真吉におヨネは困ったような笑みを浮かべてそう言うと、「おお、すまざった」と真吉は慌てて声を落とす。
「お福はまっことえい子じゃ。おヨネによく似たべっぴんさんじゃ。大きゅうなったらもっとべっぴんになるにかぁらん」
「もう、お前さまったら」
「ほれほれ、お福。ほれ、泣くな。よし、父が可愛いお前に玩具をやろう」
そう言って着物の袂から取り出したのは手持ちの太鼓だった。くるくると回すと、太鼓の横についている紐が太鼓の表面を「でんでん」と叩く、でんでん太鼓だ。
くるくると回してでんでん太鼓を鳴らしている内にお福は泣き止み、やがてキャッキャッと声を上げて笑うようになった。
「ほうか、嬉しいか!」
娘が喜ぶ姿を見て、真吉もまた嬉しそうに笑いながらでんでん太鼓を鳴らし続ける。だが、おヨネはその太鼓を見て複雑そうな表情を浮かべていた。
「お前さま……そのでんでん太鼓、どこで?」
「うん? これか。これはな、本家で貰うて来た」
本家と聞いておヨネの表情はわずかに顔を固くした。
本家に呼び出されたから、と言う理由で確かに今朝はいつもと違い、武士らしく紋付き袴を履いて髪を結い上げ、毛嫌いしていた脇差を差して出掛けて行ったのだ。
「お前さま、もしかして父上さまに何か言われたがやないですか?」
「……」
お福をあやしていた真吉は瞬間的に顔から笑みを消し、おもむろにおヨネを振り返った。
「もう一度、武士として本家に戻って来いと言われた」
彼が武士として生きることを拒んでいるのを、おヨネは良く知っていた。脇差を腰に差すことをとても嫌がっていて、刀の手入れは時々するもののそれは今回のような急な呼び出しに備えているだけのこと。それ以外は手に取ることもしないような人だ。しかし、黒川家の長男でもある真吉は、黒川を継がなければならない立場の人間。勘当されたとは言え、父親はやはりどこか諦めきれないに違いない。だから今回、急ながら真吉を呼び出したのだ。
初めは、その呼び出しを渋り続けていたが、仕舞には母親に泣きつかれてしまった。母親に泣かれたとあっては呼び出しに応じないわけにはいかなかった。
「それで、お前さまはどうするつもりでおるがです?」
そう訊ねるおヨネに、真吉は腰に携えていた刀を下ろし、畳に胡坐をかいて背筋を正したまま座ると、庭先を見つめながらきっぱりと言い切った。
「わしは武士にはならん。父上にも改めてそう申し上げてきた。武家の血を継いじゅう言うても、わしは人を傷つけ命をも奪う刀が嫌いじゃ。どがな理由があろうとも、わしは人は斬らん。斬るぐらいなら斬られた方がマシじゃ」
「……」
「わしはただ、貧しくてもここで平穏に暮らしたいがよ。おヨネとお福と、こうして幸せに暮らしたい。おヨネがこんなわしを覚悟を決めて選んでくれたように、わしもとうの昔に武士にはならん事を決めた。そもそも武士言うたち、所詮は田舎侍。江戸に上って百万石の大名をこさえられるほどの力は、どの道黒川にはありゃあせん」
そう言ってニカッと笑うと、もう一度立ち上がっておヨネの腕に抱かれているお福を抱き上げ、高く持ち上げる。
「わしはおヨネとお福は元より、この村の人らぁを幸せに出来ればそれでえいがよ!」
「お前さま……」
「おまんらぁと普通の暮らしを心の底から望んじゅう。村民たちが困らん生活を望んじゅう。当たり前の幸せがありゃあそれ以上は何も望まんき」
満面の笑みを浮かべる真吉を、きょとんとした顔で見下ろしていたお福はつられるようにまた声を上げて笑った。
◆◇◆◇◆
「……」
私は夢から覚めて、ゆっくりと瞼を押し上げる。
今日見た夢は、幸之助がまだ黒川家に来る前の夢だったみたい。
真吉さんとおヨネさんにはお福と言う女の子がいたんだ。色々悩み事はあるみたいだったけど、凄く幸せそうだったな。
でも……。あの時代で真吉が望む生き方は、とても生き難かったに違いない。今みたいに多様性が認められる世の中じゃないんだもの。武士ではない生き方をするのは、周りからの偏見や確執はあって当たり前だった。それを覚悟して受け入れてでも、真吉さんは生き方を曲げなかった。そしておヨネさんもそんな真吉さんの生き方に添い続けた。
そんな生き方、今でも難しい……。ううん、どちらかと言えば今の方が困難なのかもしれない。
自分だけじゃない、家族まで傷つけてしまう。そう思ったらどうしても腰が引けてしまう。そこまでの覚悟を持って貫き通すだけの信念は、なかなか持てないわ。
布団にもぐったままぼんやりとそんな事を考えていると、炊事場の方からとてもいい匂いがしてきた。
幸之助だ……。
彼はいつも明け方近くに帰って来てると思うのだけど、寝てないんじゃないかって思うくらい早くに起きてる。
私もいくら休み期間中だとは言え、あんまりルーズな生活になっちゃいけないと思って、遅くても7時には起きるようにしてるんだけど、私が起きる頃には幸之助はいつも朝餉の支度を済ませてお膳に乗せ、皆で食卓を囲める場所に選んだ奥座敷に私が行く頃に合わせて運び入れて来る。
私は起き上がると急いで身支度を済ませ、炊事場の方へ向かう。すると幸之助は少しだけ驚いた顔をしてこちらを見るけれど、すぐに微笑みかけてきた。
「おはようございます、加奈子殿。丁度、朝餉の支度が出来ました」
お膳の上には白菜の漬物と豆腐のお味噌汁に焼き魚と、切り干し大根の煮つけが乗っていた。
「おはよ。私も手伝うよ」
「え、でも……」
「手伝わせて。幸之助に色々してもらってばっかりじゃ、申し訳ないもの」
私はそう言って笑うと、お膳の一つを持ち上げた。
「加奈子殿……どうされたんですか?」
「え?」
「瞼が腫れてます」
その言葉に、私は思わずドキッとしてしまった。
そうだ。昨日鞍馬に昔の話を聞いて号泣しちゃって、あの後もしばらく涙が止まらなくてそのまま寝落ちちゃったんだった。顔は洗ってきたけど、あれだけ泣けば顔を洗ったぐらいじゃ腫れぼったさが引くわけもないか。
「鞍馬に何かされたとか……」
「な、ないない! それはないよ!」
「ならいいんですが……」
「昨日の夜寝る前に、うっかり泣ける映画を観ちゃって」
昨日の話は出来ないから、何か別の言い訳を咄嗟にしなければと思ったら、出てきたのは映画だった。これは使える。
だけど、幸之助は「映画」と言う単語を初めて聞いて首を傾げた。
「えいが、ですか?」
「うん。役者さんが演技をしているお話の……」
「あぁ、歌舞伎のようなものですか」
「え? あ、うん、そう」
うん。全然違うんだけどね。まぁ説明難しいし、役者さんが演じると言う意味ではあながち大外れって言うほど外れてもいないし、いいか。
「じゃあ運んじゃうね」
「はい。ありがとうございます」
私は幸之助と一緒に奥座敷にお膳を持って行くと、鞍馬は胡坐をかいて満面の笑みで私たちを出迎えた。
「おお! 待ちかねたで! 朝餉じゃ! 腹が減って減ってかなわん!」
そう言いながら自分の膝を叩き「待ってました!」とでかい声で囃し立てて来る。
……随分偉そうじゃない。
私は昨日とは別人かのように振舞う鞍馬に、ついジト目を向けてしまった。
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