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2章
72.貴族と平民
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ゆっくりと、しかし真っ直ぐに歩み寄ってくるジークフリートに、誰かがため息を漏らす。この場の誰よりも鋭く近づき難い雰囲気を醸し出しているが、誰よりも凛々しく堂々とした歩みに男女問わず目を引く。
そんな彼に、アルティーティはほっとした反面、マズイとも思った。
他所様の夜会でこれまた他所様のご令嬢と揉め事を起こした。今の状況はどこからどうみてもそう見える。
野次馬が集まるほどの騒ぎ、しかもヒートアップしていたイレーニアたちの声はかなり大きかった。屋敷の中に聞こえていても不思議ではない。
ジークフリートがアルティーティの声を聞き間違えることはないだろうが、相手は曲がりなりにも侯爵令嬢だ。対するアルティーティはこの場では平民。イレーニアも侯爵令嬢ではあるが、今はリブラック家のメイドだ。
つまり関係者の中で一番影響力のあるのはウルオーラだ。彼女が白と言えば黒も白になる。
集まった野次馬の中に、彼女に賛同する者がいるかもしれない。「先に手を出してきたのはあの平民だ」なんて言われたら目も当てられない。
現に今も。
「ジークフリート様ぁ、今日も素敵ですう!」
いつの間にか、ウルオーラが天蓋をくぐったばかりの彼にすり寄っている。あの巨体で意外と素早い。切れた息も整っているあたり、スタミナもあるのかもしれない。
抜け目ない。そんなイレーニアのつぶやきも、彼に見惚れる野次馬たちの漏らすため息でかき消された。
「先ほどもぉ、アタクシ、ご挨拶しようと思っていたのですけどぉ、ずうっとこの『魔女の形見』が邪魔してぇ、なかなか近づけなくて困ってたんですぅ。あ、ご存じかと思いますけどぉ、アタクシ、シルヴァこうしゃ」
「もう一度聞く、何事だ」
ジークフリートは腕にからみつこうとするウルオーラからさっと距離を取ると、アルティーティを見据えた。
(え、ええと……困ったな。本当のこと言うとイレーニアさんも罰を受けたりする……? それにどこから説明したらいいのかな? 本当だと信じてもらえない気が。特に壺)
彼の視線を受けながら、アルティーティはイレーニアに視線を送った。
すまし顔で四阿の隅に待機する彼女もまた、アルティーティを見つめている。メイドの立場で口など挟めないといったところか。下唇を噛むように口を噤んでいる。
ああ困った。追い詰められての状況説明なんて、今まで数えきれないほど師匠に丸投げされたが、いまだに慣れない。
何を言うべきか、頭の中はぐちゃぐちゃだ。だというのに、整理する時間はいつもない。
表情ひとつ変えない彼に、話を遮られたウルオーラは一瞬ムッとするも、すぐにまた手を伸ばし甘ったるい声を出す。
「もぉ、そんなの、お分かりでしょぅ? アタクシがそこの『魔女の形見』にぃ、貴族としての振る舞いを教えようとぉ、声をかけたらぁ、パウマ卿のご用意したお菓子をぉ、なんと粗末に扱ったのですぅ。『あなたの指図は受けません!』ってぇ。ひどいと思いませんかぁ? アタクシはもちろんぅふぅ、止めましたのよぉ。それなのにぃ、イレーニアが『お嬢様は素晴らしい方だからぁ、何をやってもいいんだぁ!』って。あ、イレーニアってアタクシの妹なんですけどぉ、ホントぉ、出来の悪ぅい妹で、アタクシ恥ずかしくって。そんな権力を持った途端に振りかざすような低俗な平民もぉ、イレーニアもぉ、とても名門リブラック侯爵家にはぁ、ふさわしくないとアタクシ、思いますぅ」
笑い出すウルオーラの下顎が揺れる。上目遣いでジークフリートを見ながらも、イレーニアとアルティーティへの敵意は忘れない。チラチラとこちらの反応をうかがってはニタニタ笑っている。
しかし、事実無根もいいところだ。
「違います」
思わずそう言ってしまった。
おそらく、ジークフリートならばこの場をうまく収められるだろう。彼に任せれば間違いない。黙っているのが吉だ。
そう思っていたのだが、黙って聞いていれば嘘ばかり。何も言えず悔しそうなイレーニアを見れば、口のひとつも出したくなる。
彼に夢中だったウルオーラの首がぐりん、とこちらへ向く。
「何が違うのぉ? なんなら皆さんに聞いてみてもいいのよ? シュークリームを潰したのは誰ですか、って」
「……それはわたしです。枢機卿様には申し訳ないことをしたと思っています」
ウルオーラがニヤリと笑う。
「ほぅらみなさい! やっぱり平民はガサツねぇ! ジークフリート様ぁ、こんな女とご婚約なんて何かの冗談で」
「でもイレーニアさんは『何をやってもいい』なんて傲慢な言葉は言いません。わたしに今日まで、シルヴァ侯爵家ならではの教育方法で立ち振る舞いを教えてくれたのは彼女です。平民のわたしに、いけないことはいけないと厳しく指摘してくれたのも、彼女です。その彼女が、貴族だから、偉いから、素晴らしいからと『何をしてもいい』だなんて言いません。わたしのことは言われても仕方がないですが、イレーニアさんのことは訂正してください」
ウルオーラの言葉を遮ってアルティーティは静かにまくし立てた。ワインレッドの瞳に力がこもる。呼応するかのように、暗がりの中で胸元のサファイアの色も黄色から赤へと移り変わっていく。全身が燃えていくようだ。
アルティーティは知らない。ジークフリートかわずかに目を見開いたことも、イレーニアが噛み締めた唇を離し、ハッとしたように見ていることも。
気迫に押されたウルオーラは小さくうめくと、負けじと甲高い声を上げた。
「な、なによ! ア、アタクシが自分の妹のことをどう言おうと勝手でしょ! アタクシを誰だと思ってるの!?」
「……侯爵家の娘だから何を言っても、何をしてもいい、とでも本気でお思いでいらっしゃいますの? お姉様」
声を張り上げた彼女に冷ややかな言葉を投げかけたのは、妹のイレーニアだった。
颯爽と歩み寄った彼女はジークフリートに恭しく頭を下げた。
「……遅ればせながらジークフリート様、ワタクシに発言をお許しいただけますか?」
「……いいだろう。思う存分言え」
「ありがとうございます」
彼はため息混じりに二つ返事でうなずいた。まさか許されるとは思いもしなかったのか、ウルオーラはふたりを交互に見ながらうろたえている。
「な、なによ……! 今はあなたはメイドでしょう?! 他家の令嬢に文句を言っていい立場じゃないわよ!」
「そうですわね。主人の許可を得たとしてもそれはマナー違反ですわ……では今からワタクシ、大きな独り言を申しますわ!」
詰め寄ろうとするウルオーラの方を見もせず、イレーニアは天蓋の外に向けて話し始めた。思ってもみない彼女の行動に一瞬ポカンと口を開けたウルオーラが眉をひそめる。
「は……な、何を言って」
「先ほど権力を振りかざすのは低俗だとお姉様はおっしゃいましたが、そっくりそのままお姉様にも当てはまりますわね。アルティーティ様を侮辱した上にジークフリート様に擦り寄り、血を分けた妹に濡れ衣を着せてもいいとお思いなのですもの」
「そ、それは……その……」
「お姉様はシルヴァ侯爵家三女の肩書きが大層お気に入りのようですが、ワタクシから見ればシルヴァ家の5人姉妹のうちのひとりというだけ。真に立派なのは爵位を受け継ぎ次世代へと発展させようと奮起されてるお父様と、それを支えるお母様。優秀な婿を迎えた大姉様たちはまだしも、婚約者もいないようなワタクシやウルオーラ姉様が、侯爵家の名を笠に着て平民どころか他家の婚約に口を挟むこと自体おかしいことではなくて?」
「いや、それはっ……ちがっ……」
「ああそうそう、これも大きな独り言ですが、アルティーティ様がシュークリームを潰すことになったのも、元はと言えばお姉様がワタクシに向けて投げたからですわ。威張り散らして粗暴な行動を起こすお姉様と、謙虚に日々努力し、下々の者を庇うことすら厭わないアルティーティ様……どちらが程度の低い人間かは火を見るより明らかですわ!」
大演説の独り言と泡を食ったように呻くだけのウルオーラの様子に、野次馬たちから忍び笑いが聞こえてきた。アルティーティに対してはどこか感心するような視線が向けられる。
(あ……たまたま手が当たったことにしようと思ったんだけど……ま、いっか。誰も変に思ってないみたいだし)
内心ほっと胸を撫で下ろしたアルティーティは、反論できず顔を真っ赤にしたウルオーラを見つめた。
シルヴァ家もリブラック家と同じく名家にあたるが、その子女の彼女たちがこれだけ目立っているのはいいのだろうか。
特にウルオーラの振る舞いは最悪だ。アルティーティの目から見ても、貴族どころか人として卑怯なことをしてると思う。
その最悪の行動を声高に公表するイレーニアも、行儀がいいとは言えないだろう。それだけ不出来な姉に怒っているのかもしれないが、シルヴァ家では許されるのだろうか。あとで怒られやしまいか。さすがに心配になってきた。
アルティーティは周囲の忍び笑いにまぎれて苦笑いを浮かべた。
「そ、そんな、アタクシ、そんな、ただ礼儀を教えようとしただけです! ジークフリート様ぁ! 信じてください!」
縋り付くように手を伸ばしたウルオーラを、ジークフリートは冷たく見下ろした。その視線に彼女だけでなく、アルティーティもたじろぐ。訓練でしか見たことがない、突き刺すような視線だ。見られたら最後、魔物ですら射殺される。
「名も知らぬ者を信じるほど俺はお人好しじゃない」
「そんなっアタクシはシルヴァ侯爵家の!」
「俺の婚約者はアルティーティだ」
(……………………え……?!)
腰を引き寄せられたかと思うと、眼前には顎があった。詰襟からのぞく低音を発する喉がたくましい。周囲からは、驚きと羨望の嘆息が聞こえた。
ほんの少し見上げると、赤眼がきらりと光る。ぞくりとするほど強く、恐ろしく、美しい。
それがジークフリートだと気づくのに時間は要らなかった。
(は…………い……? い、いまわたし、たしかにあなたの婚約者、だけどこんなに引っ付く必要、ある? というか、ち、近い……!)
抱き寄せられたと気づき、かっと顔が熱くなる。今までこんな人前で近づくことなどなかった。せいぜい腕を組むくらいだ。それだけで十分、周りはふたりがそういう仲だと認識できる。それ以上の接触は必要ない。
なのに、今の彼はなぜだろう。
先ほどの射殺すような視線といい、冷静さに欠ける。ウルオーラに対して怒っているのと同時に、アルティーティに対してもなにか激しい感情が蠢いているようにしか見えない。
ただの契約結婚の相手なのに。
動揺するアルティーティを逃すまいと、ジークフリートの腕に力がこもる。
「それ以外の女がどうしようと興味はない。どこぞの侯爵令嬢だとしても、だ。ただ……この騒ぎ、シルヴァ侯爵には報告させてもらう」
彼の冷たい言葉に、ウルオーラは目に見えて狼狽した。
「な……! お、おお、お父様は関係ないですわっ!」
「侯爵家の名を口に出すということはそういうことだ。まさかそこまで考えが及ばなかったわけではないだろう?」
最後の方はやや呆れが混ざった声色で突き放す。
日々「馬鹿者!」と彼に檄を飛ばされているアルティーティには、これだけもって回った「馬鹿者!」は聞いたことがない。こんな言い方をされるなら、いつもの端的で直球な言い方の方がマシだ。いや、もちろん言われないのが一番なのだが。
「そ、そんな……」
シルヴァ侯爵がどんな人物かはわからないが、プライドが高そうな彼女のことだ。親に失態を知られたくはないのだろう。
ふらふらと膝から崩れ落ちたウルオーラに近寄るものは誰もいない。真っ青な顔で今にも気を失いそうだが、それを支えるものは何もない。
シュークリームを投げた弾みで落ちたのであろうお菓子の残骸の真ん中で、彼女は肩を落として泣き始めた。
時折、嗚咽を漏らしながら泣く彼女を少し気の毒にも思ったが、イレーニアを貶めようとした彼女を許す気には到底なれなかった。
そんな彼に、アルティーティはほっとした反面、マズイとも思った。
他所様の夜会でこれまた他所様のご令嬢と揉め事を起こした。今の状況はどこからどうみてもそう見える。
野次馬が集まるほどの騒ぎ、しかもヒートアップしていたイレーニアたちの声はかなり大きかった。屋敷の中に聞こえていても不思議ではない。
ジークフリートがアルティーティの声を聞き間違えることはないだろうが、相手は曲がりなりにも侯爵令嬢だ。対するアルティーティはこの場では平民。イレーニアも侯爵令嬢ではあるが、今はリブラック家のメイドだ。
つまり関係者の中で一番影響力のあるのはウルオーラだ。彼女が白と言えば黒も白になる。
集まった野次馬の中に、彼女に賛同する者がいるかもしれない。「先に手を出してきたのはあの平民だ」なんて言われたら目も当てられない。
現に今も。
「ジークフリート様ぁ、今日も素敵ですう!」
いつの間にか、ウルオーラが天蓋をくぐったばかりの彼にすり寄っている。あの巨体で意外と素早い。切れた息も整っているあたり、スタミナもあるのかもしれない。
抜け目ない。そんなイレーニアのつぶやきも、彼に見惚れる野次馬たちの漏らすため息でかき消された。
「先ほどもぉ、アタクシ、ご挨拶しようと思っていたのですけどぉ、ずうっとこの『魔女の形見』が邪魔してぇ、なかなか近づけなくて困ってたんですぅ。あ、ご存じかと思いますけどぉ、アタクシ、シルヴァこうしゃ」
「もう一度聞く、何事だ」
ジークフリートは腕にからみつこうとするウルオーラからさっと距離を取ると、アルティーティを見据えた。
(え、ええと……困ったな。本当のこと言うとイレーニアさんも罰を受けたりする……? それにどこから説明したらいいのかな? 本当だと信じてもらえない気が。特に壺)
彼の視線を受けながら、アルティーティはイレーニアに視線を送った。
すまし顔で四阿の隅に待機する彼女もまた、アルティーティを見つめている。メイドの立場で口など挟めないといったところか。下唇を噛むように口を噤んでいる。
ああ困った。追い詰められての状況説明なんて、今まで数えきれないほど師匠に丸投げされたが、いまだに慣れない。
何を言うべきか、頭の中はぐちゃぐちゃだ。だというのに、整理する時間はいつもない。
表情ひとつ変えない彼に、話を遮られたウルオーラは一瞬ムッとするも、すぐにまた手を伸ばし甘ったるい声を出す。
「もぉ、そんなの、お分かりでしょぅ? アタクシがそこの『魔女の形見』にぃ、貴族としての振る舞いを教えようとぉ、声をかけたらぁ、パウマ卿のご用意したお菓子をぉ、なんと粗末に扱ったのですぅ。『あなたの指図は受けません!』ってぇ。ひどいと思いませんかぁ? アタクシはもちろんぅふぅ、止めましたのよぉ。それなのにぃ、イレーニアが『お嬢様は素晴らしい方だからぁ、何をやってもいいんだぁ!』って。あ、イレーニアってアタクシの妹なんですけどぉ、ホントぉ、出来の悪ぅい妹で、アタクシ恥ずかしくって。そんな権力を持った途端に振りかざすような低俗な平民もぉ、イレーニアもぉ、とても名門リブラック侯爵家にはぁ、ふさわしくないとアタクシ、思いますぅ」
笑い出すウルオーラの下顎が揺れる。上目遣いでジークフリートを見ながらも、イレーニアとアルティーティへの敵意は忘れない。チラチラとこちらの反応をうかがってはニタニタ笑っている。
しかし、事実無根もいいところだ。
「違います」
思わずそう言ってしまった。
おそらく、ジークフリートならばこの場をうまく収められるだろう。彼に任せれば間違いない。黙っているのが吉だ。
そう思っていたのだが、黙って聞いていれば嘘ばかり。何も言えず悔しそうなイレーニアを見れば、口のひとつも出したくなる。
彼に夢中だったウルオーラの首がぐりん、とこちらへ向く。
「何が違うのぉ? なんなら皆さんに聞いてみてもいいのよ? シュークリームを潰したのは誰ですか、って」
「……それはわたしです。枢機卿様には申し訳ないことをしたと思っています」
ウルオーラがニヤリと笑う。
「ほぅらみなさい! やっぱり平民はガサツねぇ! ジークフリート様ぁ、こんな女とご婚約なんて何かの冗談で」
「でもイレーニアさんは『何をやってもいい』なんて傲慢な言葉は言いません。わたしに今日まで、シルヴァ侯爵家ならではの教育方法で立ち振る舞いを教えてくれたのは彼女です。平民のわたしに、いけないことはいけないと厳しく指摘してくれたのも、彼女です。その彼女が、貴族だから、偉いから、素晴らしいからと『何をしてもいい』だなんて言いません。わたしのことは言われても仕方がないですが、イレーニアさんのことは訂正してください」
ウルオーラの言葉を遮ってアルティーティは静かにまくし立てた。ワインレッドの瞳に力がこもる。呼応するかのように、暗がりの中で胸元のサファイアの色も黄色から赤へと移り変わっていく。全身が燃えていくようだ。
アルティーティは知らない。ジークフリートかわずかに目を見開いたことも、イレーニアが噛み締めた唇を離し、ハッとしたように見ていることも。
気迫に押されたウルオーラは小さくうめくと、負けじと甲高い声を上げた。
「な、なによ! ア、アタクシが自分の妹のことをどう言おうと勝手でしょ! アタクシを誰だと思ってるの!?」
「……侯爵家の娘だから何を言っても、何をしてもいい、とでも本気でお思いでいらっしゃいますの? お姉様」
声を張り上げた彼女に冷ややかな言葉を投げかけたのは、妹のイレーニアだった。
颯爽と歩み寄った彼女はジークフリートに恭しく頭を下げた。
「……遅ればせながらジークフリート様、ワタクシに発言をお許しいただけますか?」
「……いいだろう。思う存分言え」
「ありがとうございます」
彼はため息混じりに二つ返事でうなずいた。まさか許されるとは思いもしなかったのか、ウルオーラはふたりを交互に見ながらうろたえている。
「な、なによ……! 今はあなたはメイドでしょう?! 他家の令嬢に文句を言っていい立場じゃないわよ!」
「そうですわね。主人の許可を得たとしてもそれはマナー違反ですわ……では今からワタクシ、大きな独り言を申しますわ!」
詰め寄ろうとするウルオーラの方を見もせず、イレーニアは天蓋の外に向けて話し始めた。思ってもみない彼女の行動に一瞬ポカンと口を開けたウルオーラが眉をひそめる。
「は……な、何を言って」
「先ほど権力を振りかざすのは低俗だとお姉様はおっしゃいましたが、そっくりそのままお姉様にも当てはまりますわね。アルティーティ様を侮辱した上にジークフリート様に擦り寄り、血を分けた妹に濡れ衣を着せてもいいとお思いなのですもの」
「そ、それは……その……」
「お姉様はシルヴァ侯爵家三女の肩書きが大層お気に入りのようですが、ワタクシから見ればシルヴァ家の5人姉妹のうちのひとりというだけ。真に立派なのは爵位を受け継ぎ次世代へと発展させようと奮起されてるお父様と、それを支えるお母様。優秀な婿を迎えた大姉様たちはまだしも、婚約者もいないようなワタクシやウルオーラ姉様が、侯爵家の名を笠に着て平民どころか他家の婚約に口を挟むこと自体おかしいことではなくて?」
「いや、それはっ……ちがっ……」
「ああそうそう、これも大きな独り言ですが、アルティーティ様がシュークリームを潰すことになったのも、元はと言えばお姉様がワタクシに向けて投げたからですわ。威張り散らして粗暴な行動を起こすお姉様と、謙虚に日々努力し、下々の者を庇うことすら厭わないアルティーティ様……どちらが程度の低い人間かは火を見るより明らかですわ!」
大演説の独り言と泡を食ったように呻くだけのウルオーラの様子に、野次馬たちから忍び笑いが聞こえてきた。アルティーティに対してはどこか感心するような視線が向けられる。
(あ……たまたま手が当たったことにしようと思ったんだけど……ま、いっか。誰も変に思ってないみたいだし)
内心ほっと胸を撫で下ろしたアルティーティは、反論できず顔を真っ赤にしたウルオーラを見つめた。
シルヴァ家もリブラック家と同じく名家にあたるが、その子女の彼女たちがこれだけ目立っているのはいいのだろうか。
特にウルオーラの振る舞いは最悪だ。アルティーティの目から見ても、貴族どころか人として卑怯なことをしてると思う。
その最悪の行動を声高に公表するイレーニアも、行儀がいいとは言えないだろう。それだけ不出来な姉に怒っているのかもしれないが、シルヴァ家では許されるのだろうか。あとで怒られやしまいか。さすがに心配になってきた。
アルティーティは周囲の忍び笑いにまぎれて苦笑いを浮かべた。
「そ、そんな、アタクシ、そんな、ただ礼儀を教えようとしただけです! ジークフリート様ぁ! 信じてください!」
縋り付くように手を伸ばしたウルオーラを、ジークフリートは冷たく見下ろした。その視線に彼女だけでなく、アルティーティもたじろぐ。訓練でしか見たことがない、突き刺すような視線だ。見られたら最後、魔物ですら射殺される。
「名も知らぬ者を信じるほど俺はお人好しじゃない」
「そんなっアタクシはシルヴァ侯爵家の!」
「俺の婚約者はアルティーティだ」
(……………………え……?!)
腰を引き寄せられたかと思うと、眼前には顎があった。詰襟からのぞく低音を発する喉がたくましい。周囲からは、驚きと羨望の嘆息が聞こえた。
ほんの少し見上げると、赤眼がきらりと光る。ぞくりとするほど強く、恐ろしく、美しい。
それがジークフリートだと気づくのに時間は要らなかった。
(は…………い……? い、いまわたし、たしかにあなたの婚約者、だけどこんなに引っ付く必要、ある? というか、ち、近い……!)
抱き寄せられたと気づき、かっと顔が熱くなる。今までこんな人前で近づくことなどなかった。せいぜい腕を組むくらいだ。それだけで十分、周りはふたりがそういう仲だと認識できる。それ以上の接触は必要ない。
なのに、今の彼はなぜだろう。
先ほどの射殺すような視線といい、冷静さに欠ける。ウルオーラに対して怒っているのと同時に、アルティーティに対してもなにか激しい感情が蠢いているようにしか見えない。
ただの契約結婚の相手なのに。
動揺するアルティーティを逃すまいと、ジークフリートの腕に力がこもる。
「それ以外の女がどうしようと興味はない。どこぞの侯爵令嬢だとしても、だ。ただ……この騒ぎ、シルヴァ侯爵には報告させてもらう」
彼の冷たい言葉に、ウルオーラは目に見えて狼狽した。
「な……! お、おお、お父様は関係ないですわっ!」
「侯爵家の名を口に出すということはそういうことだ。まさかそこまで考えが及ばなかったわけではないだろう?」
最後の方はやや呆れが混ざった声色で突き放す。
日々「馬鹿者!」と彼に檄を飛ばされているアルティーティには、これだけもって回った「馬鹿者!」は聞いたことがない。こんな言い方をされるなら、いつもの端的で直球な言い方の方がマシだ。いや、もちろん言われないのが一番なのだが。
「そ、そんな……」
シルヴァ侯爵がどんな人物かはわからないが、プライドが高そうな彼女のことだ。親に失態を知られたくはないのだろう。
ふらふらと膝から崩れ落ちたウルオーラに近寄るものは誰もいない。真っ青な顔で今にも気を失いそうだが、それを支えるものは何もない。
シュークリームを投げた弾みで落ちたのであろうお菓子の残骸の真ん中で、彼女は肩を落として泣き始めた。
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