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2章
54.黒馬は僕のだ
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【マカセ視点】
日が落ち、皆が寝静まった頃。
厩舎の中でうごめく影がいくつかあった。
ひょろりとした身体を干し草のそばで丸めるその人物は、ある馬にギラリとした視線を向けていた。
「あんな平民にあの黒馬は似合わない……僕こそが相応しい……」
ブツブツと呟くその人物──マカセだ。
彼の呟きに反応してか、黒馬のクロエは耳をピクリと震わせる。誰もいないことを確認したのか、再び身体を丸めて眠り始めた。
無防備なその姿に、マカセのねっとりとした視線が絡みつく。
あれは僕のものだ。
伯爵家の跡取りとして生まれたマカセは、生まれながらに全てを与えられた。望めば即日中に与えられ、何をしても怒られるなどということはなかった。それは士官学校に入ってからも変わることはなかった。
唯一例外だったのは、ヴィクターの存在だった。
つい最近まで平民だった彼は、あろうことかマカセの成績を軽々と超えていった。
許せなかった。自分が平民より劣ると思いたくなかった。それでも、彼が一代男爵の息子という中途半端な立ち位置だからこそ、まだ自分の矜持を慰めもできた。
それがまた、あの黒髪の平民のせいで脅かされている。
マカセは貧相な唇を噛んだ。口に広がる鉄の味にはっとして、首を振った。
危ない。黒馬があの平民に見えてきた。
まったく、紛らわしい頭の色をしやがって。そういうところも腹が立つ。
黒馬は黒馬だ。騎士ならば誰しも羨む特殊な馬。
その馬に、昼間二度も蹴られたことを忘れたわけではない。
平民の前で蹴られるなど、伯爵家嫡男としては屈辱だ。
一旦は退散したが、誰もいなくなるのを待っただけ。昼間は油断しただけ。用意が足りなかっただけだ。だからこそ、当主から人手を借りた。
ジークフリートは選ぶだの選ばれないだのと言っていたが、馬が主人を決めるなどあり得ない。
彼はただ、黒馬を奪いたかっただけだろう。取られそうになってそんな嘘をついたのだ。
何が英雄だ、最強の騎士だ。馬が取られそうででまかせを言うなんて、ジークフリートも大したことがない奴だ。
厩舎係のあの女も、ジークフリートに惚れてたに違いない。黒馬を献上して、惚れた騎士を手に入れたかったのだろう。
これだから平民の女はくだらない。ちょっと見た目がいいだけの男に気に入られたいがために、希少な黒馬を差し出すなんて。
あの馬は、僕のだ。自分が先に目をつけて手綱を取ったのだ。
騎士が欲する馬ならば、上官たちが自分より先に得ようとするだろう、ということはマカセの頭にはない。
あるのは平民に奪われた自分の黒馬を奪還する、それだけだった。
マカセは後ろに控えた男たちに合図をした。
屈強な男たちがのそり、とクロエに近づく。
伯爵家に仕える男の中でも選りすぐりの剛腕の持ち主たちだ。いくらあの黒馬でも、手も足も出まい。
もうすぐだ。もうすぐであの黒馬に乗れる。皆が自分を羨望の眼差しで見るのだ。あの平民も恐れをなして平伏すに違いない。
黒馬にまたがった自分を想像し、マカセはニヤつきが止まらない。
そうこうしてるうちに、男たちが一斉にクロエに飛びかかった──その時だった。
「ぐぉ……っ!」
「ゔ……っ!」
夜の静寂に、つんざくような嘶きとともに男たちのうめき声が響き渡った。
暗闇に目が慣れたはずのマカセでさえ、一瞬何が起こったのかわからなかった。
うめき声の後にぶつかるような音が聞こえ、屈強な男たちが地に臥せっている。蹴られたのか踏まれたのか、それとも噛まれたのか。
何をされたのか分からないが、とにかく彼らがしくじったことだけは分かった。
「お、おい、お前たちっ! 早く起きろ!」
マカセは焦った。
黒馬の嘶きで厩舎係に気づかれたかもしれない。気づかれなかったとしても、他の馬が起きてきている気配がする。
危険だ。早くここから離れなければ。
しかし男たちを置いていくわけにもいかない。
最悪、ニッツェ伯爵家とは関係ないと言い張るにしても、男たちが白状してしまえばマカセに疑惑の目が向けられることになる。そうなったら終わりだ。
気絶や悶絶している男たちを必死に起こそうとしているマカセだったが、背後に得体の知れない気配が近づくのを感じ、その手を止めた。
黒馬だ。なぜだか分からないが分かる。黒馬がこの世のものとは思えない気配を纏い、自分の背後にいる。
プレッシャーが、荒い鼻息とともに背中を刺すように降り注ぐ。とてもじゃないが振り返れない。
これが黒馬……特殊馬と呼ばれる理由が今なら分かる。分かると同時に、マカセは宙を飛んだ。
──いや、飛ばされた。クロエによって。
昼間よりも数段強い蹴りを受け、マカセは干し草の上で完全に伸び切ってしまった。
クロエは彼が動かないことを確認すると、鼻をひとつ鳴らし、再び丸くなって眠り始めた。
睡眠を妨害され、気が立った他の馬たちが彼らに襲い掛かっているが、クロエにとってはもうどうでもいいことだった。
──翌朝、干し草にまみれ、全身ボコボコに踏まれた跡のあるマカセと数人の男がテーアによって発見された。
彼らが厩舎場を出入り禁止になったことは言うまでもない。
日が落ち、皆が寝静まった頃。
厩舎の中でうごめく影がいくつかあった。
ひょろりとした身体を干し草のそばで丸めるその人物は、ある馬にギラリとした視線を向けていた。
「あんな平民にあの黒馬は似合わない……僕こそが相応しい……」
ブツブツと呟くその人物──マカセだ。
彼の呟きに反応してか、黒馬のクロエは耳をピクリと震わせる。誰もいないことを確認したのか、再び身体を丸めて眠り始めた。
無防備なその姿に、マカセのねっとりとした視線が絡みつく。
あれは僕のものだ。
伯爵家の跡取りとして生まれたマカセは、生まれながらに全てを与えられた。望めば即日中に与えられ、何をしても怒られるなどということはなかった。それは士官学校に入ってからも変わることはなかった。
唯一例外だったのは、ヴィクターの存在だった。
つい最近まで平民だった彼は、あろうことかマカセの成績を軽々と超えていった。
許せなかった。自分が平民より劣ると思いたくなかった。それでも、彼が一代男爵の息子という中途半端な立ち位置だからこそ、まだ自分の矜持を慰めもできた。
それがまた、あの黒髪の平民のせいで脅かされている。
マカセは貧相な唇を噛んだ。口に広がる鉄の味にはっとして、首を振った。
危ない。黒馬があの平民に見えてきた。
まったく、紛らわしい頭の色をしやがって。そういうところも腹が立つ。
黒馬は黒馬だ。騎士ならば誰しも羨む特殊な馬。
その馬に、昼間二度も蹴られたことを忘れたわけではない。
平民の前で蹴られるなど、伯爵家嫡男としては屈辱だ。
一旦は退散したが、誰もいなくなるのを待っただけ。昼間は油断しただけ。用意が足りなかっただけだ。だからこそ、当主から人手を借りた。
ジークフリートは選ぶだの選ばれないだのと言っていたが、馬が主人を決めるなどあり得ない。
彼はただ、黒馬を奪いたかっただけだろう。取られそうになってそんな嘘をついたのだ。
何が英雄だ、最強の騎士だ。馬が取られそうででまかせを言うなんて、ジークフリートも大したことがない奴だ。
厩舎係のあの女も、ジークフリートに惚れてたに違いない。黒馬を献上して、惚れた騎士を手に入れたかったのだろう。
これだから平民の女はくだらない。ちょっと見た目がいいだけの男に気に入られたいがために、希少な黒馬を差し出すなんて。
あの馬は、僕のだ。自分が先に目をつけて手綱を取ったのだ。
騎士が欲する馬ならば、上官たちが自分より先に得ようとするだろう、ということはマカセの頭にはない。
あるのは平民に奪われた自分の黒馬を奪還する、それだけだった。
マカセは後ろに控えた男たちに合図をした。
屈強な男たちがのそり、とクロエに近づく。
伯爵家に仕える男の中でも選りすぐりの剛腕の持ち主たちだ。いくらあの黒馬でも、手も足も出まい。
もうすぐだ。もうすぐであの黒馬に乗れる。皆が自分を羨望の眼差しで見るのだ。あの平民も恐れをなして平伏すに違いない。
黒馬にまたがった自分を想像し、マカセはニヤつきが止まらない。
そうこうしてるうちに、男たちが一斉にクロエに飛びかかった──その時だった。
「ぐぉ……っ!」
「ゔ……っ!」
夜の静寂に、つんざくような嘶きとともに男たちのうめき声が響き渡った。
暗闇に目が慣れたはずのマカセでさえ、一瞬何が起こったのかわからなかった。
うめき声の後にぶつかるような音が聞こえ、屈強な男たちが地に臥せっている。蹴られたのか踏まれたのか、それとも噛まれたのか。
何をされたのか分からないが、とにかく彼らがしくじったことだけは分かった。
「お、おい、お前たちっ! 早く起きろ!」
マカセは焦った。
黒馬の嘶きで厩舎係に気づかれたかもしれない。気づかれなかったとしても、他の馬が起きてきている気配がする。
危険だ。早くここから離れなければ。
しかし男たちを置いていくわけにもいかない。
最悪、ニッツェ伯爵家とは関係ないと言い張るにしても、男たちが白状してしまえばマカセに疑惑の目が向けられることになる。そうなったら終わりだ。
気絶や悶絶している男たちを必死に起こそうとしているマカセだったが、背後に得体の知れない気配が近づくのを感じ、その手を止めた。
黒馬だ。なぜだか分からないが分かる。黒馬がこの世のものとは思えない気配を纏い、自分の背後にいる。
プレッシャーが、荒い鼻息とともに背中を刺すように降り注ぐ。とてもじゃないが振り返れない。
これが黒馬……特殊馬と呼ばれる理由が今なら分かる。分かると同時に、マカセは宙を飛んだ。
──いや、飛ばされた。クロエによって。
昼間よりも数段強い蹴りを受け、マカセは干し草の上で完全に伸び切ってしまった。
クロエは彼が動かないことを確認すると、鼻をひとつ鳴らし、再び丸くなって眠り始めた。
睡眠を妨害され、気が立った他の馬たちが彼らに襲い掛かっているが、クロエにとってはもうどうでもいいことだった。
──翌朝、干し草にまみれ、全身ボコボコに踏まれた跡のあるマカセと数人の男がテーアによって発見された。
彼らが厩舎場を出入り禁止になったことは言うまでもない。
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