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2章

53.できなかったこと

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(び、びび、びっくりしたー……)

 ジークフリートから離れたアルティーティは、一旦落ち着こうと背を向けた。

 整った顔の彼と目が合うとドギマギしてしまうのはいつものこと。だがいつにも増して胸が早鐘を打っているのは、彼の様子がいつもと違うからだ。

 笑ったかと思ったら突然固まって、かと思ったら急に頬を触ってきて、そして──。

 うっかり思い返してしまい、頭から湯気が出そうなほど体温が上がる。

(……キス……されると思った……)

 アルティーティは頬に触れた。まだ熱を帯びたそこは、むず痒い。

 さすがにキスは未経験だが、彼に触れられたことはこれまで何度かある。だがこれまでと違って自然だった。

 なぜだかはわからない。
 ただ、まるでそうするのが当たり前のように伸びた手を、アルティーティも受け入れた。躊躇いなどひとつもなかった。

 だからこそ、急に恐ろしくなった。

 この優しい手をもっと受け入れてしまったら、この手が離れていった時に耐えられなくなってしまうのではないか。この人も父と同じなのではないか、と。

 彼女は知っていた。母親が亡くなってから、父親が自分を露骨に避けていたことを。

 母親がいた頃は、仕事だ出張だと言いながらも帰宅後にその手で彼女を抱き上げ、頭を撫でた。

 それが亡くなってからは全く無くなった。塔に幽閉されてからは声すらかけてこなくなった。

 代わりにその手は高慢な継母を抱き、我儘な義妹を可愛がった。

 ずっと前からわかっていた。ただ認めたくなかった。早く忘れたかった。もう戻ってくることはないのだから。

 昔捨てたはずの家族への期待と失望が、なぜ契約結婚の相手に触られたくらいで思い起こされるのか。

 それを考えるには心臓の音が大きすぎた。

 キスされると思いきや、彼の薄い唇から出たのは「変わってるな」の一言。キスなど勘違いも甚だしい。一瞬でも想像してしまった恥ずかしさに悶絶しそうだ。

「……まさか」

 まだ興奮冷めやらぬアルティーティの背後から、ジークフリートの抑え気味の声が聞こえた。

 振り返ると、いつも通りの不機嫌そうな表情の彼がそこにいた。

「まさか黒馬に選ばれるとはな」

 さっきまでのことはなかったかのように、ジークフリートは話しかけてくる。

 相変わらずの不機嫌顔だが、声色は優しい。少々呆れ混じりなのは気のせいだろうか。

 しかしおかげで落ち着いてきた気がする。

「わ……わたしも驚きましたよ」

 そう返すと、ジークフリートがふっと笑ったように見えた。すぐに眉間のしわがぐっと寄せられたので見間違いかもしれないが。

(もしかして、さっき顔近かったのって……普通に顔じっくり見られただけなのかも)

 普段通りの彼を見ていると、そんな錯覚に陥る。

 そうだ、実は隊長は目が悪いのかもしれない。だからすごく近くまで寄らないと顔が見えないのだ。強い人は人の気配を正確に察知できるというし、目が見えなくても問題ない。きっとそうだ。

 顔をじっくり見て「変わってる」と言うのも十分変わってる話だが、アルティーティはそう解釈した。

「もしかして、クロエが男性恐怖症だって知ってたんですか?」

 ようやく調子を取り戻したアルティーティの言葉に、ジークフリートは首を振った。

「いや。知らなかった。他の騎士もおそらく知らないだろう」
「じゃあなぜあの時わたしを止めたんですか?」
「言っただろう。黒馬は生来、気性が荒い。その黒馬の近くであれ以上揉めたらストレスで暴れ出す」

 そんな大袈裟な、と言いかけてやめた。痩身とはいえ、ひと蹴りでマカセが軽々と吹っ飛んだあたりあながち嘘とも言い切れない。

(あれ……? でも……)

「じゃあヴィクター、危なかったんじゃ……」
「あいつはいい。多少馬が暴れたくらいでどうにかなるやつじゃない」

 たしかに。ヴィクターなら蹴られても気絶しなさそうだ。むしろそのまま反撃するんじゃなかろうか。

 クロエと格闘するヴィクターを想像して笑うと、ジークフリートはやれやれと肩をすくめた。

「今回は主人を選んだことで、なんとか治まったが」

(ん? どういうこと?)

 首をひねったアルティーティが疑問を口にする前に、ジークフリートは理由を話し出す。

「馬にとって選んだ主人は心のよりどころみたいなものだからな。お前が側にいればあの馬はちょっとやそっとじゃ暴れない。男性恐怖症の方は……どう転ぶかわからんが」

 そう言って、彼は頭を軽く掻いた。

 言われてみれば、アルティーティの近くにいるときは暴れてなかった気がする。これ以上なくじゃれついてきて、猛烈なアピールは食らったが。

 マカセを蹴ったのは男性恐怖症というより、単に彼のことが心底嫌いなのだろう。その証拠に、ジークフリートやヴィクターが近寄っても無視して離れるだけで、蹴るまではいかなかった。

 あれだけ横柄で自分勝手な人間、馬でなくても嫌いになる気持ちはわかる。

(あ……そういえば……)

「あの、黒馬って……厩舎係にとっても特別なのでしょうか?」
「……どうした?」
「いえ、あのテーアさんが……」

 アルティーティはテーアが泣いていたことと、もしかしてクロエと離れたくなかったのではないかということを話した。

「……そうか……」
「隊長、わたし、彼女になにも言えなかったです……」

 突然の別離の辛さはアルティーティには嫌というほどわかる。これから先もずっと一緒だと思っていたならなおさらだ。

 彼女に声をかけたい。だが気持ちがわかるからこそ、安易な言葉をかけたくなかった。

 落ち込むアルティーティに、ジークフリートは「またこのお節介な……」と心の中でつぶやいた。

 自分のことで余裕がないくせに、困ってる人の存在に気づいたら放っておけない。そこがいいところでもあり、彼が目を離せない理由のひとつでもあった。

 いろいろ言いたいことをぐっと飲み込んだジークフリートは、励ますように彼女の肩に手を置いた。

「……明日からも普通に接してやれ。厩舎係に育てた馬との別れはよくあることだ」
「そう……ですか……でも」
「彼女が乗り越えなくてはならないことであって、お前が気に病むことじゃない。お前もクロエに選ばれたんだ。胸張れ」
「はい……」
「ちゃんと世話してやれよ」

 ジークフリートは肩を数回叩くと、またさらに不機嫌そうに眉間のしわを作った。

(世話できなさそうに見えるのかな……そりゃ、動物どころか花も育てたことないけど)

 眉間のしわがまさか笑うまいとした結果だとは全く想像もついてない彼女は、やや憮然とした表情でうなずいた。

(……でもそうだよね。隊長の言うとおり、わたしにできることはクロエの世話をちゃんとすること、だ)

 テーアのことは気になるが、そのテーアが大切にしていたクロエをぞんざいに扱ってはならない。そんなことをすれば彼女は余計に悩んでしまうだろう。

 クロエが今まで通り、いや今以上にいい馬になったらきっとテーアも安心するかもしれない。

 反芻するように何度もうなずくアルティーティに、ジークフリートはため息混じりに口を開いた。

「しかし名前、クロエで良かったのか?」
「え?」
「あの黒馬、オスだぞ」

 ………………。

「…………え?」
「気づいてなかったのか……」

 ジークフリートはやっぱりな、と頭をかかえた。

 言わずもがな、クロエという名は女性の名前だ。

 思い返せば、テーアも戸惑っていた気がする。クロエが主人を選んだことに戸惑っていただけかと思っていたが、実は名付けがおかしかったからか。

(男性恐怖症だからてっきり……)

 今更名前を変えるのは無理だろうか。いや、できるとなってもアルティーティにはクロエ以上の名前を思いつける自信がない。

「ど、どうしましょう……」
「……まぁ、クロエは気に入ってたようだし、気にするな。それに……」

 オロオロするアルティーティの頭を、ジークフリートは捕まえるように手を置いた。

「お前らしいしな」

 片眉を下げた、困ったような微笑みを浮かべる彼に、そのままわしゃわしゃと頭を撫でられる。例の心臓に悪い笑みだ。アルティーティは抵抗するように小さく呻いた。

 今日、テーアが頬を染めていたのを見てわかったことがある。

 女性ならば誰しも、彼の笑みを見れば胸がときめき、頬を染めるのだろう。ならば。

 に扮しているアルティーティには、彼の笑みは天敵だ。せっかく騎士になれたというのに、女のように振る舞ってしまいそうになる。

 ダメだ、と思いながらもその不器用な笑みから目が離せない。だからといって、まじまじと見れば見るほど顔が赤くなってしまう。

 とてもこの笑みには慣れそうにない。

 厄介な人が上官になってしまったな、とボサボサになった頭で思った。

「……それと一応、気をつけろ。あのマカセとかいう男」

 思う存分撫で回したのか、ジークフリートは手を離すと声を低くした。低音の響きが妙に艶っぽい。

(ちょ……っ……魅力的なのはわかったから! これ以上は無理ー!!)

 アルティーティは目を白黒させながらうなずくのがやっとだ。

 そんな彼女には気づかず、ジークフリートは続ける。

「あちらの隊長には報告するが、近衛騎士団は基本的に身内びいき、貴族びいきだからな。処分はあまり期待できん。何かあったらすぐに言え。俺が……」

 はたと目が合うと、彼は言葉に詰まった。

 困惑気味に下がった眉に少し潤んだ彼女の瞳。撫で回したお陰で、分厚い前髪は目隠しの役割を放棄している。

 控えめに言っても美しい瞳に、彼は一瞬見惚れた。

 とはいえ、不思議そうに見つめる彼女に正直にも言えず、ジークフリートは視線を逸らした。

「……いや、なんでもない。それより、明日、馬の世話のあとは暇か?」

 暇か忙しいかと問われれば「休日が欲しい」と本当は答えたい。

 しかしそう答えたところで、目の前の不機嫌なこの人は休みをくれそうにない。

 これ以上心は動かされまいと腕組みをした彼に、アルティーティは渋々ながらも「はい」と答えた。

「そうか。なら空けとけ」

 彼はそっけなくそう言うと、らしくもない緊張感を吐き出すようにため息をついた。
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