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2章

50.その名前でいいんですか

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 マカセの姿が見えなくなった頃、テーアが黒馬の手綱を引いて近づいてきた。

「アルト様、黒馬に名前を授けてください」

 いつの間にか「あなた様」から「アルト様」と呼ばれている。その表情も邪魔者マカセがいなくなったのもあってにこやかだ。

 少しは彼女の信頼を得られたのだろうか。

 もしそうだとしたら嬉しい。天涯孤独とも言っていいアルティーティに、信頼を向けてくれる初めての女性かもしれない。

 密かに喜んでいるアルティーティだったが、ふと、一つ疑問が湧いてくる。

「えーと……テーアさんがずっと呼んでるクロっていうのが名前では?」

 そう。ずっとテーアは黒馬を「クロ」と呼んでいた。

 てっきりそれが名前だと思っていたのだが……。

 テーアは首を横に振った。

「それは馬の識別をするためにつけられたもので、主人がつける名前とは別物です。黒馬が他にもいたら番号が与えられ、クロイチ、クロニ、クロサンと呼ばれます。この厩舎には黒馬はこのコだけなので、クロです」

 なるほど、他の馬との区別のためか。

 黒馬は希少らしいので識別と言われてもピンとこないが、他の馬を見ればほとんど似たような茶色だ。

 それがここにいるだけで何十頭もいる。厩舎がいくつも並んでいるので、全体で百はくだらないだろう。

 こうなると、区別が必要なのもうなずける。

(でも名前……うーん、悩むなぁ……)

 アルティーティは黒馬をまじまじと見上げた。

 穏やかな目元に、虫を避けようとピクピク動く耳。真っ黒で綺麗な毛並みにふさふさのたてがみ。人ひとり蹴り飛ばすほどの力強く、細い脚。

 こんな綺麗な馬の名付けの親になれるとはまったく考えてもみなかったことだ。

(名付けかぁ……難しいな…………あ、そういえば……)

「………………じゃあクロエ、っていうのはどうでしょう?」

 アルティーティは過去のある出来事を思い返していた。

 彼女自身、偽名アルトを名乗っている。その偽名は師匠がつけてくれたものだ。

 師匠が言うには、『本当の名前と似た名前の方が呼ばれた時に反応しやすいだろう?』という、非常に合理的な理由だ。
 
 それに識別のための名前とはいえクロ、という名前も似合っていると思っていた。

 決して考えるのを諦めたというわけではない。決して。

 アルティーティの言葉に、テーアは口をあんぐりと開けた。
 
「クロ……エ……? い、いいんですかその名前で……?」
「はい、きっとこのコもクロって呼ばれるのに慣れてると思うし、急に違う名前で呼ばれるよりは近い名前の方がいいかなと……あ、もしかしてダメ……でしたか……?」

 ぽかんとしたテーアの様子に、アルティーティはだんだん不安になってきた。

 何か気に障ったのかもしれない。名前が気に入らなかったのか。適当につけたように見えたのかも。

 しかしそんなことは取り越し苦労だったようだ。

「……クロエ……素敵な名前ですね。クロエがアルト様を選んだのもわかる気がします」

 テーアは名前を噛み締めるように笑みを浮かべた。

 黒馬──クロエは彼女を一瞥すると、会釈をするように首を振った。まるで今までの礼のようにも見える。

 彼女たちが交わす視線がどことなく寂しそうで、アルティーティは少し視線を落とした。

「アルト様、ありがとうございます。クロエをどうか……大切にしてくださいね」

 テーアの瞳が潤んでいるように見えたアルティーティは、ただ戸惑いながらもうなずくしかできなかった。
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