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深き魅惑の暗い沼
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深く暗い沼の淵に立っていた。気づいた時から―否、もう何年も、ずっと。底が見えないこの沼は、一歩足を踏み入れれば戻ることはできない。どこまでも深い沼の中へ、沈んでいくしかできない。そのような沼の淵に立たされているとなれば、普通は恐怖を感じるものなのだろう。後ろから突き落とされるかもしれない、あるいは足を滑らせるかもしれない。確かにそのような恐怖はある。しかし―沼の底からは、酷く魅惑的な甘い臭いがするのだ。嗅いだことのないような、甘い臭い。洋菓子よりも果物に似ているだろう。しかそそれよりももっと強い臭いだ。このまま沼に飛び込んで、この素晴らしい臭いに全身を包まれたなら。冷たく見える黒い沼も、なんだか温かい場所のように見えてくる。でも、この先は終焉なのだ。すべてが終わってしまうのだ。わかっている。それなのに、いっそ終わってしまってもいいのではないかと思う時もあるのだ。
どこからか声が聞こえてくる。深淵へといざなう声。
「飛び込んでもきっと誰も気づかない」
「ここにいたって意味はないし、居場所もないよ」
「自分が一番わかっているでしょう?」
「お前はいるべきじゃない、出来損ないだ」
「ここで終わってしまったほうがいい」
後ろから冷たい手に抱きしめられるような。耳元に冷たい息を吹きかけられるような。無邪気な、それでも悪意を孕んだ声が、楽しそうにささやく。残念ながら、その声を払いのけられるような意志の強さはもうない。この声は、この沼は、いつから傍にあったのだろう。いつからくろぐろとした口を開けていたのだろう。わからない。覚えていない。それほどに長い間、この二つにとらわれている。
きん、と音がして、足を一歩前に出していたことに気が付いた。
首に巻かれた温かな鎖が、動きを阻害する。その先は、意志を持った誰かにきっちりと、掴まれているのを感じる。鎖の鍵は手の中にあって、これを使えばいつでも外して飛び込めるのだろう。しかしそれはできない。冷えた指先が鎖の温もりを求めるので、外すことはできない。
―このような逡巡に、長い間囚われている。もう何年経つのだろう。あとどれくらい囚われ続ければいいのだろう。きっと誰にもわからない。
―日常の、些細なことなのだ。電車に乗り遅れた、洗濯物を干し忘れた、とっくに切れたティッシュを買い忘れた、人の意図をくみ取って自分の活動に反映できなかった、といったような。何か失敗をするたびに、楽しそうな声が頭に響く。
「そんなんだからお前は駄目なんだよ」
「いつも失敗ばかりで普通のことができやしない」
「お前のきょうだいは上手くやっているのに」
「失敗作だ、人間として生きる価値などない」
否定、否定、否定。すべてを否定し、すべてを責める声。けらけらと笑いながら、蟻を踏み潰す幼子のような残酷で無邪気な声が、ぐさぐさと刺さる。この声が周囲のひとから聞こえるものならどんなに良かったか。耳から聞こえる音なら、いくらだって逃げられる。頭の中に響く声は、どう頑張っても逃げることはできない。意味はないと、価値はないと、だからはやくいなくなれ、と。声はそうやって、すぐそばで責めてくる。
やがて、責められている自我はどんどんと入れ替わっていく。意識も記憶もあって、人格が変わるわけではない。ただ、この自我は言われるだけの羊から攻撃的な刃へと変わる。抱くのは自分への憎悪。人間としての基準を満たさない己への、底なしの憎悪による言いようもないほどの殺意。一人きりなら声に出して自らを罵り、仕置きとばかりに刃を手に取る。このままだと殺意のままに動いてしまいそうだと、わずかに残った羊の意思が泣き叫ぶ。それに少しだけ我に返って、代わりとばかりに腕に少しの殺意を何度も叩きつける。薄い皮膚を浅く切り裂いて、赤い線がいくつも滲んでいく。憎悪と殺意と、うまくいかないすべてのことへの憤り。これらを全部、赤い線へと変えていく。
初めてこの線を人に見られたときは、すぐに精神科に入れられた。そこへ行って、己を責める声が聞こえなくなるならば、安寧を手に入れられるならば、喜んで通ったことだろう。しかしそうはならず、赤い線を知ったその人は、よく聞く「生を実感するため」だと決めつけた。実際は全く違うのに、それですべてを理解した気になっている。きっと誰にも想像できないのだろう。常に自分自身に責め立てられる恐怖と苦しみ、未熟な己への憎悪と殺意。これらが爆発してしまえば、声に負けて終わりを選び、殺意のままに己を手にかけるだろう。暗い沼へと飛び降りつつも、自らの背中を押すことになるだろう。
ふと周りを見回すと、沼の周りにはたくさんの人がいた。誰もが首や手首、足などに鎖を巻かれ、その鎖は地面に留められていたり別の人が持っていたりする。ほとんどの人が沼を見ておらず、他の人と楽しそうに笑いあっている。自分以外で、沼に手を伸ばす人は少ないように見える。
誰かの鎖が腐り落ち、砂のように崩れて、その人は沼に落ちた。
誰かの鎖がはじけ飛び、反動で横に動いて、その人は沼に落ちた。
誰かが鎖を引きちぎって、伸びる別の鎖を払いのけて、その人は沼に落ちた。
よくよく見れば、沢山の人が沼に落ちて、沢山の新しい人が鎖に繋がれる。
それをまじまじと見ている人は、あまりにも少ない。ほとんどの人が目を背けている。沼の存在に気づかないそぶりを見せる。こんなにも甘く重い匂いがしているのに、それにすら気づいていないのだろうか。
しばらく周りを観察して、頭に響く声を無視し続ける。しかしそれももう限界だ。頭が痛い。甘い匂いに脳が溶かされそうになる。
ふと、首が痛くなった。温かく巻きついていた鎖が食い込んでいる。触れてみると、指先に赤い色がついた。血がにじんでいるのだろうか。
はたしてこの鎖は本当に必要なのだろうか。沼に落ちないように繋ぎとめているこれは、自分の望んでいるものではないような気もする。だって、根本は何も解決していないのだ。どれだけ沢山の鎖が繋ぎ止めようとしたって、それは枷にしかならない。なぜ自分はここで、この悪魔のような声を聞き続けているのだろう。
留めたいのなら、この声を黙らせる方法を提供してほしいのだ。このような、善意の塊の鎖なんかよりも、冷たい声を止める術がほしいのだ。今の自分には、沼に飛び込む以外の方法が見つけられない。それ以外の方法を提示されたこともない。助けを求めようとしても、首の鎖が食い込んで、声を出すことが出来なくなる。もがいて足掻いて口をはくはくと動かす様に、楽し気な嗤い声が聞こえてくる。もういやだ、とかすれた声で呟けば、「じゃあ飛び込めば?」と無邪気な声が返ってきた。
分かっている。きっとこの声はなくならなくて、鎖が砂のように解けて沼に落ちるまで、ずっと脳を抉り続けるのだろう。いつ解放されるかもわからないまま、温かな鎖に首を絞められて、苦しむしかないのだろう。
だったら断ち切って。そのまま落ちてしまったほうがきっと楽だ。
甘い匂い。頭がしびれて、ぼんやりする。そちらに行きたい。甘い匂いに包まれたい。はやく。
ばちん、と音がして、体が前に傾く。吸い込まれるように、誘われるように、引きずり込まれるように。
俺の体は、生暖かく氷のように冷たい甘ったるい匂いのする沼へ、落ちていった。
どこからか声が聞こえてくる。深淵へといざなう声。
「飛び込んでもきっと誰も気づかない」
「ここにいたって意味はないし、居場所もないよ」
「自分が一番わかっているでしょう?」
「お前はいるべきじゃない、出来損ないだ」
「ここで終わってしまったほうがいい」
後ろから冷たい手に抱きしめられるような。耳元に冷たい息を吹きかけられるような。無邪気な、それでも悪意を孕んだ声が、楽しそうにささやく。残念ながら、その声を払いのけられるような意志の強さはもうない。この声は、この沼は、いつから傍にあったのだろう。いつからくろぐろとした口を開けていたのだろう。わからない。覚えていない。それほどに長い間、この二つにとらわれている。
きん、と音がして、足を一歩前に出していたことに気が付いた。
首に巻かれた温かな鎖が、動きを阻害する。その先は、意志を持った誰かにきっちりと、掴まれているのを感じる。鎖の鍵は手の中にあって、これを使えばいつでも外して飛び込めるのだろう。しかしそれはできない。冷えた指先が鎖の温もりを求めるので、外すことはできない。
―このような逡巡に、長い間囚われている。もう何年経つのだろう。あとどれくらい囚われ続ければいいのだろう。きっと誰にもわからない。
―日常の、些細なことなのだ。電車に乗り遅れた、洗濯物を干し忘れた、とっくに切れたティッシュを買い忘れた、人の意図をくみ取って自分の活動に反映できなかった、といったような。何か失敗をするたびに、楽しそうな声が頭に響く。
「そんなんだからお前は駄目なんだよ」
「いつも失敗ばかりで普通のことができやしない」
「お前のきょうだいは上手くやっているのに」
「失敗作だ、人間として生きる価値などない」
否定、否定、否定。すべてを否定し、すべてを責める声。けらけらと笑いながら、蟻を踏み潰す幼子のような残酷で無邪気な声が、ぐさぐさと刺さる。この声が周囲のひとから聞こえるものならどんなに良かったか。耳から聞こえる音なら、いくらだって逃げられる。頭の中に響く声は、どう頑張っても逃げることはできない。意味はないと、価値はないと、だからはやくいなくなれ、と。声はそうやって、すぐそばで責めてくる。
やがて、責められている自我はどんどんと入れ替わっていく。意識も記憶もあって、人格が変わるわけではない。ただ、この自我は言われるだけの羊から攻撃的な刃へと変わる。抱くのは自分への憎悪。人間としての基準を満たさない己への、底なしの憎悪による言いようもないほどの殺意。一人きりなら声に出して自らを罵り、仕置きとばかりに刃を手に取る。このままだと殺意のままに動いてしまいそうだと、わずかに残った羊の意思が泣き叫ぶ。それに少しだけ我に返って、代わりとばかりに腕に少しの殺意を何度も叩きつける。薄い皮膚を浅く切り裂いて、赤い線がいくつも滲んでいく。憎悪と殺意と、うまくいかないすべてのことへの憤り。これらを全部、赤い線へと変えていく。
初めてこの線を人に見られたときは、すぐに精神科に入れられた。そこへ行って、己を責める声が聞こえなくなるならば、安寧を手に入れられるならば、喜んで通ったことだろう。しかしそうはならず、赤い線を知ったその人は、よく聞く「生を実感するため」だと決めつけた。実際は全く違うのに、それですべてを理解した気になっている。きっと誰にも想像できないのだろう。常に自分自身に責め立てられる恐怖と苦しみ、未熟な己への憎悪と殺意。これらが爆発してしまえば、声に負けて終わりを選び、殺意のままに己を手にかけるだろう。暗い沼へと飛び降りつつも、自らの背中を押すことになるだろう。
ふと周りを見回すと、沼の周りにはたくさんの人がいた。誰もが首や手首、足などに鎖を巻かれ、その鎖は地面に留められていたり別の人が持っていたりする。ほとんどの人が沼を見ておらず、他の人と楽しそうに笑いあっている。自分以外で、沼に手を伸ばす人は少ないように見える。
誰かの鎖が腐り落ち、砂のように崩れて、その人は沼に落ちた。
誰かの鎖がはじけ飛び、反動で横に動いて、その人は沼に落ちた。
誰かが鎖を引きちぎって、伸びる別の鎖を払いのけて、その人は沼に落ちた。
よくよく見れば、沢山の人が沼に落ちて、沢山の新しい人が鎖に繋がれる。
それをまじまじと見ている人は、あまりにも少ない。ほとんどの人が目を背けている。沼の存在に気づかないそぶりを見せる。こんなにも甘く重い匂いがしているのに、それにすら気づいていないのだろうか。
しばらく周りを観察して、頭に響く声を無視し続ける。しかしそれももう限界だ。頭が痛い。甘い匂いに脳が溶かされそうになる。
ふと、首が痛くなった。温かく巻きついていた鎖が食い込んでいる。触れてみると、指先に赤い色がついた。血がにじんでいるのだろうか。
はたしてこの鎖は本当に必要なのだろうか。沼に落ちないように繋ぎとめているこれは、自分の望んでいるものではないような気もする。だって、根本は何も解決していないのだ。どれだけ沢山の鎖が繋ぎ止めようとしたって、それは枷にしかならない。なぜ自分はここで、この悪魔のような声を聞き続けているのだろう。
留めたいのなら、この声を黙らせる方法を提供してほしいのだ。このような、善意の塊の鎖なんかよりも、冷たい声を止める術がほしいのだ。今の自分には、沼に飛び込む以外の方法が見つけられない。それ以外の方法を提示されたこともない。助けを求めようとしても、首の鎖が食い込んで、声を出すことが出来なくなる。もがいて足掻いて口をはくはくと動かす様に、楽し気な嗤い声が聞こえてくる。もういやだ、とかすれた声で呟けば、「じゃあ飛び込めば?」と無邪気な声が返ってきた。
分かっている。きっとこの声はなくならなくて、鎖が砂のように解けて沼に落ちるまで、ずっと脳を抉り続けるのだろう。いつ解放されるかもわからないまま、温かな鎖に首を絞められて、苦しむしかないのだろう。
だったら断ち切って。そのまま落ちてしまったほうがきっと楽だ。
甘い匂い。頭がしびれて、ぼんやりする。そちらに行きたい。甘い匂いに包まれたい。はやく。
ばちん、と音がして、体が前に傾く。吸い込まれるように、誘われるように、引きずり込まれるように。
俺の体は、生暖かく氷のように冷たい甘ったるい匂いのする沼へ、落ちていった。
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