25 / 31
最後の一週間
恋は愛へと
しおりを挟む
彼が出ると私もすぐに起きて、サイドテーブルに置きっぱなしだったブーケをキッチンに持って行って、棚にあった花瓶を出した。ブーケの切り口にジェル状の保水材がつけてあったので、一晩置きっ放しでもまだ、元気に咲いている。様々な形の、濃淡の違う赤色の花々が情熱的なブーケ。茎の先端を1cmほど切って、花瓶に生けると、シャワーに行って、出来る限り手早く身支度を済ませた。
空港に行くまでまだ充分時間があるので、キッチンで、昨晩作り損ねたボカディージョの準備を始めた。ヴィクターに投げつけたものの、形が崩れることもなかったバゲットを、1/3と2/3の長さに切り分け、横に切り目を入れてオリーブオイルを塗る。
パプリカ、ズッキーニとタマネギをフライパンで炒めていると、玄関のドアが開く音がして、ヴィクターが戻って来た。
「いい匂いがする」
キッチンに入って来た彼が、窓際のテーブルに携帯と鍵を置くと、椅子を引いて座る。
目の覚めるような真っ白なシャツに、ブラックデニムの彼。今朝は、髪をバッグへ流したスタイルで、寝起きのベビーフェイスが急に大人びた男らしい表情に見えて、ドキンとした。
そのときめきの理由はもうはっきりと分っている。
やっぱり、今日のフライトでなく、3日後に変更したのは正解だった。
「ほんとは、昨晩食べようと思ってたものなんだけど」
「ボカディージョ?」
テーブルの上のバゲットを見て、ヴィクターが嬉しそうに笑う。
「うん、そうだよ。でも、作った事ないから、どうだろう?挟むの、手伝ってくれる?」
「オッケー」
ヴィクターは私が差し出したイベリコ豚の生ハムのパックを受け取った。
炒めた野菜と、生ハムをバゲットに挟むと、アルミホイルにくるんで、オーブンに入れてみる。
うまく出来るだろうか。
コーヒーの準備をすべく、コーヒーマシンにミネラルウォーターを入れたりセットしていると、後ろに来たヴィクターが黙って私を抱きしめた。ドキンと胸が弾むのを感じながら、なんとかコーヒーマシンのスイッチを押すと、私はくるりと回って彼に向き直る。
見上げると、とても穏やかで幸せに満たされたように微笑むヴィクターが、まっすぐに私を見つめた。
「リオ、これからのことを話したいんだ」
これからのこと?
まだ、この先の3日を彼と過ごすことしか頭になかった私は、その先のことはまだ何も考えていなかった。
そうだった。
ヴィクターはベルリンに住んでいて、私は東京。
いわゆる、遠距離恋愛だ。
そう考えて、さっきまでの幸福感が急にしぼみ、悲しくなってくる。
でも、私はその気持ちを振り切るように笑顔で彼を見上げた。
「3月にまた来るから、すぐに会えるよ。今度は、2週間以上滞在出来るようになんとかしてみる」
離れてしまうのは辛いけれど、遠距離恋愛をしている人は星の数ほどにいるはずだ。
彼等に出来て、私達に出来ないはずはない。
ヴィクターは目を細めて笑うと、窓辺に飾ってあるブーケに手を伸ばし、その中から、一本の千日紅を抜き取った。
深紅で丸い球形の可愛らしい小花。
ヴィクターは私の目の前にその花を持ってくると、茎を指で押さえくるりと巻いて、茎を二重に捻りながら小さな輪を作っていく。
緑の茎の輪の上に乗る、深紅の千日紅。
その形はまるで、指輪のようだった。
「俺達」
ヴィクターの声に、その花輪から目を離し彼を見た。
青い澄んだ目が、強く輝いて私の心を捕らえる。
「結婚しよう」
驚きのあまり息が止まりそうになった。
千日紅。
過酷な環境でも長期に渡り花を咲かせ続け、乾燥してドライフラワーになっても色あせることなくその可愛らしい形を留める、特別な花。
その花言葉は永遠に色あせぬ愛。
彼は私の左手を取ると、優しい眼差しを私に向けた。
「この先、ずっと君の側にいるから」
それは昨晩、私が彼に言った願いへ応える言葉だ。
ずっと、私の側にいて。
それは偽りのない私の心の叫び。
私はゆっくりと頷いて、彼の手をぎゅっと握りしめた。
感動に震えて瞬くと、一粒の涙が頬を滑り落ちる。
「私も、貴方から離れたくない。ずっと一緒にいて」
溢れる気持ちを絞り出すようにそう答えると、彼は眩しいほどの明るい微笑みを浮かべて、その赤い花の指輪を私の左手薬指に通した。柔らかな緑の茎のリングが肌を滑り、やがて、その深紅の千日紅の小花が私の左手の薬指に止まる。
これが、彼がくれた婚約指輪だ。
彼の手から生まれた、この世にたったひとつの、世界で一番美しい指輪。
強い命を宿し、永遠に咲き続けるこの花の指輪が、私達の誓いを見届けてくれた。
「ありがとう。幸せすぎて、他に言葉が見つからない」
私は泣き笑いしながら、思い切り彼に抱きついた。
「当分、他の何も考えられない。頭の中、リオのことで完全に埋まって、爆発しそう」
ヴィクターも楽しそうに笑いながらぎゅっと私を抱きしめた。
爆発、という言葉にはっとする。
「あっ、ボカディージョ!」
慌ててオーブンの電源を消して、テーブルにあったピンク色のミトンを取ると、そっとオーブンの扉を開く。もわっと熱気が吹き出すのを待ってから、トレイを取り出しカウンターに置くと、ヴィクターがアルミホイルに手を伸ばして包みを開けた。
二人で中を覗いてみる。
中はいい具合に温まっていた。
「美味しそう!」
「これは上出来だな」
二人で顔を見合わせて頷く。
バゲットの皮はパリパリの金色、挟んだ色とりどりの野菜もピカピカ、生ハムも温まって汗をかいている。
「リビングに持って行って、あっちで食べるか」
ヴィクターが棚からカップを取り出して、コーヒーポットに手を伸ばす。
私もテーブルに置いてあった二枚のプレートに、ほかほかのボカディージョを乗せると、彼の後ろをついてリビングルームへ行く。
昨晩、彼が突如現れたこの場所。
コーヒーテーブルにプレートを置くと、私は窓辺に行ってガラスの扉を開けた。
雨上がりの柔らかい風が部屋に流れこんでくる。
今朝は静かだなと思って下を見下ろすと、工事の人達は一番下のところで、固まったコンクリートの土台の周りに煉瓦を積み始める作業をしていた。
「リオ、こっち」
ソファに座った彼が手招きをしている。
ちょっぴり照れくさく感じながら、窓を離れて彼の隣に腰掛けた。肩が触れ合う近さで、顔を見合わせる。昨日まで、こんなに近い距離にいなかったのに、今はもう、隙間なんてないくらいだ。
「いただきます」
私が手を合わせたのを合図に、それぞれのボカディージョに手を伸ばした。
パリッとしたバゲットの皮と香ばしい小麦の味、熱々で歯ごたえと甘みのある野菜、塩気とコクのある生ハム。
初めて二人で作って、一緒に食べるボカディージョ。
喋ることも忘れて食べてしまうくらい、美味しくて満足感のあるものだった。
一息ついて、コーヒーカップを片手にソファの背もたれによりかかったヴィクターが、お日様のように明るい笑顔で私に微笑みかける。
「こんな朝が、ずっと続くと思うと夢みたいだ」
「うん、ほんとに」
私も嬉しくて笑いながら同じくコーヒーに手をつけた。
「リオ、帰国したらすぐに書類を集めて、準備して」
コーヒーを置いたヴィクターがiPadに手を伸ばしながらそう言った。
「書類?」
「市役所で、戸籍謄本と婚姻要件具備証明書をもらって、それを、外務省で認証してもらうんだ。それから、ドイツ大使館の指定の翻訳者か翻訳事務所に送って訳文を添付してもらうこと。日本国内ですることはそれで終わり。ベルリンに戻ってきたら、戸籍役場で婚姻手続きするから。 配偶者ビザの申請はその後」
まるで移民局の人が言いそうな具体的な指示にびっくりしていると、彼は可笑しそうに笑う。
「リオ、忘れてるだろ?弁護士は職業上、こういう法手続き関係は全部把握してるって」
「あっ、そうだったね」
思い出して納得する。
彼の本業は弁護士。
婚姻関係に関する法律も当然、彼が知っているわけだ。
「俺の方の書類も11月中に準備して、12月の頭には君を迎えに行くから」
「ヴィクター、東京に来てくれるの?」
「君の家族に会わせて。突然すぎて、かなり心配するだろうから、ちゃんと挨拶する」
それは確かにそうだ。息抜き旅行に言った娘が、突然退職願を出し、旅先で会った人間と国際結婚するだなんて、常識の範囲を越えた奇行と思われるかもしれない。
「ありがとう……」
その心配りが嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「お礼を言われることじゃない。俺達二人のことなんだし」
彼はそう言って笑うと、私の肩を抱いて頬にキスをした。
薬指で咲いている花の指輪を見下ろして、私は本当に彼と結婚するんだと確信する。
iPadの電源を入れた彼が、Listen on Repeatのアイコンに気がついて、クリックした。Listen on Repeatは、Youtubeの動画を自動リピートしてくれるので、好きな音楽PVを再生する時に使っている。
昨晩聞いていた、Enrique Iglesias のBailamos のPVが流れ始めると、ヴィクターが目を細めて微笑み、私の肩を抱き寄せた。
耳もとで優しく囁かれるスペイン語の歌詞に、目を閉じる。
Esta noche bailamos
Te doy toda mi vida...
彼の優しく甘い歌声に、すべてを忘れて聞き入ると、昨晩、1人でこれを聞いていた時とは全く違う気持ちになる。切ない想いにかられていたあの時とは違って、彼の歌声で胸が燃えていく。
Tonight I'm yours
We can make it happen I'm so sure...
PVが終り熱くなった胸を押さえると、彼がぎゅっと私を抱きしめた。
「Te quiero amor mio, te quiero」
歌詞の中にあった言葉だと気がつく。スペイン語なのでその意味はわからないけれど、情熱的な響きがある言葉だ。顔をあげると、まっすぐに私を見つめている彼の力強い目が間近にあった。
「I want you, my love, Te quiero amor mio, te quiero」
ヴィクターはそう繰り返して囁くと、私の左手をとってキスをした。
「Bailamos は、Let's dance という意味。あの晩、気がつけば俺の目はずっと踊るリオを追っていたんだ」
「私も……貴方の姿ばかり見てたよ。貴方の歌声に夢中で気が狂いそうになってた」
「君もこのまま、時が止まればと思ってた?」
「うん。永遠に、歌って踊り続けたかった」
あの晩は魂が喜びに震えるくらい楽しくて最高の時間だった。
それはきっと、彼に出会って、運命の恋に落ちた瞬間だったからだ。
そして私は今、彼と一緒にいる。
初めて愛というものを教えてくれた、運命の人。
私が生まれた日本から、遥か遠くに居た彼と、やっと出会うことが出来た。
私を抱きしめる彼の背中に手を回して、その胸に顔を押し付けると、言葉に出来ないくらいの幸せに包まれる。
「Te quiero amor mio」
耳もとの甘い囁きがくすぐったくて、笑いながら彼を見上げた。
「リオ、会えない期間を耐えられるように、この3日は、一瞬も離さないから」
「うん!今日から3日間、ずっと一緒に居られるなんて、とても嬉しい。こんなに幸せな気持ち、初めて」
目が合うと、引き寄せられるようにキスを交わして、微笑み合う。
こんな風に、自然に誰かに抱きついたりキスするなんて、一度もなかったことを思い出した。
自分の心と体が同調して、こんなに素直に言葉や行動に出せるなんて、初めてだ。
新しい自分に気がついて、ふと、蓮美ちゃんが言っていたことを思い出す。
私が変わって、成長したと。
きっと、このことを言っていたのだろう。
ふと、テーブルのiPadに映る時間に目を落とし、重要なことを思い出した。
「ヴィクター!私、ここ、今日のお昼にはチェックアウトしなきゃいけないんだった!」
ウイークリーアパートの滞在は今日で最後になっている。しかも、今晩、次の滞在者がチェックインするということも聞いていた。
つまり、ここに延長滞在は出来ない。
「どこか、ホテルとか探してみないと……」
近場で滞在出来るところを探そうかと、iPadに手を伸ばそうとしたら、ヴィクターが代わりにそれを取る。
「平気。泊まれるところはあるんだ」
「えっ?」
「今からメールして、クリーニングしてもらうところ」
「別のウイークリーアパート?」
少しほっとしながら聞くと、彼はネットメールにログインしながら笑って首を振った。
「違う。俺、荷物を置いている場所があるんだ。整理してないから住んでないけど、クリーニングしてもらえば、泊まることは出来る。ただし、冷蔵庫の中は当然」
「……空っぽ?」
「ビンゴ!」
即座に答えた彼に、思わず吹き出した。
ヴィクターは手短かにメールを送信すると、iPadの電源を落とし、楽しそうな笑顔で私を振り返る。
「荷物を持って空港に行って、その後、そこへ直行。荷物を置いて、必要な物を買いに行けばいい。有難いことに、今日は土曜日で店は開いてるし」
「うん、わかった!ありがとう、ヴィクター」
「そうと決まったら、出る準備を始めるか」
「オッケー!」
私はコーヒーテーブルの上のプレートとカップを持って、元気よく立ち上がった。
空港に行くまでまだ充分時間があるので、キッチンで、昨晩作り損ねたボカディージョの準備を始めた。ヴィクターに投げつけたものの、形が崩れることもなかったバゲットを、1/3と2/3の長さに切り分け、横に切り目を入れてオリーブオイルを塗る。
パプリカ、ズッキーニとタマネギをフライパンで炒めていると、玄関のドアが開く音がして、ヴィクターが戻って来た。
「いい匂いがする」
キッチンに入って来た彼が、窓際のテーブルに携帯と鍵を置くと、椅子を引いて座る。
目の覚めるような真っ白なシャツに、ブラックデニムの彼。今朝は、髪をバッグへ流したスタイルで、寝起きのベビーフェイスが急に大人びた男らしい表情に見えて、ドキンとした。
そのときめきの理由はもうはっきりと分っている。
やっぱり、今日のフライトでなく、3日後に変更したのは正解だった。
「ほんとは、昨晩食べようと思ってたものなんだけど」
「ボカディージョ?」
テーブルの上のバゲットを見て、ヴィクターが嬉しそうに笑う。
「うん、そうだよ。でも、作った事ないから、どうだろう?挟むの、手伝ってくれる?」
「オッケー」
ヴィクターは私が差し出したイベリコ豚の生ハムのパックを受け取った。
炒めた野菜と、生ハムをバゲットに挟むと、アルミホイルにくるんで、オーブンに入れてみる。
うまく出来るだろうか。
コーヒーの準備をすべく、コーヒーマシンにミネラルウォーターを入れたりセットしていると、後ろに来たヴィクターが黙って私を抱きしめた。ドキンと胸が弾むのを感じながら、なんとかコーヒーマシンのスイッチを押すと、私はくるりと回って彼に向き直る。
見上げると、とても穏やかで幸せに満たされたように微笑むヴィクターが、まっすぐに私を見つめた。
「リオ、これからのことを話したいんだ」
これからのこと?
まだ、この先の3日を彼と過ごすことしか頭になかった私は、その先のことはまだ何も考えていなかった。
そうだった。
ヴィクターはベルリンに住んでいて、私は東京。
いわゆる、遠距離恋愛だ。
そう考えて、さっきまでの幸福感が急にしぼみ、悲しくなってくる。
でも、私はその気持ちを振り切るように笑顔で彼を見上げた。
「3月にまた来るから、すぐに会えるよ。今度は、2週間以上滞在出来るようになんとかしてみる」
離れてしまうのは辛いけれど、遠距離恋愛をしている人は星の数ほどにいるはずだ。
彼等に出来て、私達に出来ないはずはない。
ヴィクターは目を細めて笑うと、窓辺に飾ってあるブーケに手を伸ばし、その中から、一本の千日紅を抜き取った。
深紅で丸い球形の可愛らしい小花。
ヴィクターは私の目の前にその花を持ってくると、茎を指で押さえくるりと巻いて、茎を二重に捻りながら小さな輪を作っていく。
緑の茎の輪の上に乗る、深紅の千日紅。
その形はまるで、指輪のようだった。
「俺達」
ヴィクターの声に、その花輪から目を離し彼を見た。
青い澄んだ目が、強く輝いて私の心を捕らえる。
「結婚しよう」
驚きのあまり息が止まりそうになった。
千日紅。
過酷な環境でも長期に渡り花を咲かせ続け、乾燥してドライフラワーになっても色あせることなくその可愛らしい形を留める、特別な花。
その花言葉は永遠に色あせぬ愛。
彼は私の左手を取ると、優しい眼差しを私に向けた。
「この先、ずっと君の側にいるから」
それは昨晩、私が彼に言った願いへ応える言葉だ。
ずっと、私の側にいて。
それは偽りのない私の心の叫び。
私はゆっくりと頷いて、彼の手をぎゅっと握りしめた。
感動に震えて瞬くと、一粒の涙が頬を滑り落ちる。
「私も、貴方から離れたくない。ずっと一緒にいて」
溢れる気持ちを絞り出すようにそう答えると、彼は眩しいほどの明るい微笑みを浮かべて、その赤い花の指輪を私の左手薬指に通した。柔らかな緑の茎のリングが肌を滑り、やがて、その深紅の千日紅の小花が私の左手の薬指に止まる。
これが、彼がくれた婚約指輪だ。
彼の手から生まれた、この世にたったひとつの、世界で一番美しい指輪。
強い命を宿し、永遠に咲き続けるこの花の指輪が、私達の誓いを見届けてくれた。
「ありがとう。幸せすぎて、他に言葉が見つからない」
私は泣き笑いしながら、思い切り彼に抱きついた。
「当分、他の何も考えられない。頭の中、リオのことで完全に埋まって、爆発しそう」
ヴィクターも楽しそうに笑いながらぎゅっと私を抱きしめた。
爆発、という言葉にはっとする。
「あっ、ボカディージョ!」
慌ててオーブンの電源を消して、テーブルにあったピンク色のミトンを取ると、そっとオーブンの扉を開く。もわっと熱気が吹き出すのを待ってから、トレイを取り出しカウンターに置くと、ヴィクターがアルミホイルに手を伸ばして包みを開けた。
二人で中を覗いてみる。
中はいい具合に温まっていた。
「美味しそう!」
「これは上出来だな」
二人で顔を見合わせて頷く。
バゲットの皮はパリパリの金色、挟んだ色とりどりの野菜もピカピカ、生ハムも温まって汗をかいている。
「リビングに持って行って、あっちで食べるか」
ヴィクターが棚からカップを取り出して、コーヒーポットに手を伸ばす。
私もテーブルに置いてあった二枚のプレートに、ほかほかのボカディージョを乗せると、彼の後ろをついてリビングルームへ行く。
昨晩、彼が突如現れたこの場所。
コーヒーテーブルにプレートを置くと、私は窓辺に行ってガラスの扉を開けた。
雨上がりの柔らかい風が部屋に流れこんでくる。
今朝は静かだなと思って下を見下ろすと、工事の人達は一番下のところで、固まったコンクリートの土台の周りに煉瓦を積み始める作業をしていた。
「リオ、こっち」
ソファに座った彼が手招きをしている。
ちょっぴり照れくさく感じながら、窓を離れて彼の隣に腰掛けた。肩が触れ合う近さで、顔を見合わせる。昨日まで、こんなに近い距離にいなかったのに、今はもう、隙間なんてないくらいだ。
「いただきます」
私が手を合わせたのを合図に、それぞれのボカディージョに手を伸ばした。
パリッとしたバゲットの皮と香ばしい小麦の味、熱々で歯ごたえと甘みのある野菜、塩気とコクのある生ハム。
初めて二人で作って、一緒に食べるボカディージョ。
喋ることも忘れて食べてしまうくらい、美味しくて満足感のあるものだった。
一息ついて、コーヒーカップを片手にソファの背もたれによりかかったヴィクターが、お日様のように明るい笑顔で私に微笑みかける。
「こんな朝が、ずっと続くと思うと夢みたいだ」
「うん、ほんとに」
私も嬉しくて笑いながら同じくコーヒーに手をつけた。
「リオ、帰国したらすぐに書類を集めて、準備して」
コーヒーを置いたヴィクターがiPadに手を伸ばしながらそう言った。
「書類?」
「市役所で、戸籍謄本と婚姻要件具備証明書をもらって、それを、外務省で認証してもらうんだ。それから、ドイツ大使館の指定の翻訳者か翻訳事務所に送って訳文を添付してもらうこと。日本国内ですることはそれで終わり。ベルリンに戻ってきたら、戸籍役場で婚姻手続きするから。 配偶者ビザの申請はその後」
まるで移民局の人が言いそうな具体的な指示にびっくりしていると、彼は可笑しそうに笑う。
「リオ、忘れてるだろ?弁護士は職業上、こういう法手続き関係は全部把握してるって」
「あっ、そうだったね」
思い出して納得する。
彼の本業は弁護士。
婚姻関係に関する法律も当然、彼が知っているわけだ。
「俺の方の書類も11月中に準備して、12月の頭には君を迎えに行くから」
「ヴィクター、東京に来てくれるの?」
「君の家族に会わせて。突然すぎて、かなり心配するだろうから、ちゃんと挨拶する」
それは確かにそうだ。息抜き旅行に言った娘が、突然退職願を出し、旅先で会った人間と国際結婚するだなんて、常識の範囲を越えた奇行と思われるかもしれない。
「ありがとう……」
その心配りが嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「お礼を言われることじゃない。俺達二人のことなんだし」
彼はそう言って笑うと、私の肩を抱いて頬にキスをした。
薬指で咲いている花の指輪を見下ろして、私は本当に彼と結婚するんだと確信する。
iPadの電源を入れた彼が、Listen on Repeatのアイコンに気がついて、クリックした。Listen on Repeatは、Youtubeの動画を自動リピートしてくれるので、好きな音楽PVを再生する時に使っている。
昨晩聞いていた、Enrique Iglesias のBailamos のPVが流れ始めると、ヴィクターが目を細めて微笑み、私の肩を抱き寄せた。
耳もとで優しく囁かれるスペイン語の歌詞に、目を閉じる。
Esta noche bailamos
Te doy toda mi vida...
彼の優しく甘い歌声に、すべてを忘れて聞き入ると、昨晩、1人でこれを聞いていた時とは全く違う気持ちになる。切ない想いにかられていたあの時とは違って、彼の歌声で胸が燃えていく。
Tonight I'm yours
We can make it happen I'm so sure...
PVが終り熱くなった胸を押さえると、彼がぎゅっと私を抱きしめた。
「Te quiero amor mio, te quiero」
歌詞の中にあった言葉だと気がつく。スペイン語なのでその意味はわからないけれど、情熱的な響きがある言葉だ。顔をあげると、まっすぐに私を見つめている彼の力強い目が間近にあった。
「I want you, my love, Te quiero amor mio, te quiero」
ヴィクターはそう繰り返して囁くと、私の左手をとってキスをした。
「Bailamos は、Let's dance という意味。あの晩、気がつけば俺の目はずっと踊るリオを追っていたんだ」
「私も……貴方の姿ばかり見てたよ。貴方の歌声に夢中で気が狂いそうになってた」
「君もこのまま、時が止まればと思ってた?」
「うん。永遠に、歌って踊り続けたかった」
あの晩は魂が喜びに震えるくらい楽しくて最高の時間だった。
それはきっと、彼に出会って、運命の恋に落ちた瞬間だったからだ。
そして私は今、彼と一緒にいる。
初めて愛というものを教えてくれた、運命の人。
私が生まれた日本から、遥か遠くに居た彼と、やっと出会うことが出来た。
私を抱きしめる彼の背中に手を回して、その胸に顔を押し付けると、言葉に出来ないくらいの幸せに包まれる。
「Te quiero amor mio」
耳もとの甘い囁きがくすぐったくて、笑いながら彼を見上げた。
「リオ、会えない期間を耐えられるように、この3日は、一瞬も離さないから」
「うん!今日から3日間、ずっと一緒に居られるなんて、とても嬉しい。こんなに幸せな気持ち、初めて」
目が合うと、引き寄せられるようにキスを交わして、微笑み合う。
こんな風に、自然に誰かに抱きついたりキスするなんて、一度もなかったことを思い出した。
自分の心と体が同調して、こんなに素直に言葉や行動に出せるなんて、初めてだ。
新しい自分に気がついて、ふと、蓮美ちゃんが言っていたことを思い出す。
私が変わって、成長したと。
きっと、このことを言っていたのだろう。
ふと、テーブルのiPadに映る時間に目を落とし、重要なことを思い出した。
「ヴィクター!私、ここ、今日のお昼にはチェックアウトしなきゃいけないんだった!」
ウイークリーアパートの滞在は今日で最後になっている。しかも、今晩、次の滞在者がチェックインするということも聞いていた。
つまり、ここに延長滞在は出来ない。
「どこか、ホテルとか探してみないと……」
近場で滞在出来るところを探そうかと、iPadに手を伸ばそうとしたら、ヴィクターが代わりにそれを取る。
「平気。泊まれるところはあるんだ」
「えっ?」
「今からメールして、クリーニングしてもらうところ」
「別のウイークリーアパート?」
少しほっとしながら聞くと、彼はネットメールにログインしながら笑って首を振った。
「違う。俺、荷物を置いている場所があるんだ。整理してないから住んでないけど、クリーニングしてもらえば、泊まることは出来る。ただし、冷蔵庫の中は当然」
「……空っぽ?」
「ビンゴ!」
即座に答えた彼に、思わず吹き出した。
ヴィクターは手短かにメールを送信すると、iPadの電源を落とし、楽しそうな笑顔で私を振り返る。
「荷物を持って空港に行って、その後、そこへ直行。荷物を置いて、必要な物を買いに行けばいい。有難いことに、今日は土曜日で店は開いてるし」
「うん、わかった!ありがとう、ヴィクター」
「そうと決まったら、出る準備を始めるか」
「オッケー!」
私はコーヒーテーブルの上のプレートとカップを持って、元気よく立ち上がった。
1
お気に入りに追加
72
あなたにおすすめの小説
思い出のチョコレートエッグ
ライヒェル
恋愛
失恋傷心旅行に出た花音は、思い出の地、オランダでの出会いをきっかけに、ワーキングホリデー制度を利用し、ドイツの首都、ベルリンに1年限定で住むことを決意する。
慣れない海外生活に戸惑い、異国ならではの苦労もするが、やがて、日々の生活がリズムに乗り始めたころ、とてつもなく魅力的な男性と出会う。
秘密の多い彼との恋愛、彼を取り巻く複雑な人間関係、初めて経験するセレブの世界。
主人公、花音の人生パズルが、紆余曲折を経て、ついに最後のピースがぴったりはまり完成するまでを追う、胸キュン&溺愛系ラブストーリーです。
* ドイツ在住の作者がお届けする、ヨーロッパを舞台にした、喜怒哀楽満載のラブストーリー。
* 外国での生活や、外国人との恋愛の様子をリアルに感じて、主人公の日々を間近に見ているような気分になれる内容となっています。
* 実在する場所と人物を一部モデルにした、リアリティ感の溢れる長編小説です。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?
石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。
ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。
ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。
「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。
扉絵は汐の音さまに描いていただきました。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる