10月2日、8時15分の遭遇(前編)

ライヒェル

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最後の一週間

天の邪鬼な自分

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「実は……土曜日に、プロポーズの返事を、しなきゃいけないの」
「えっ」
今度はアナマリーが驚いて声を上げた。
「リオ、恋人がいたの?!いないって、ヴィクターもクリスティアンも言ってたけど」
「それが、いないはずなんだけど……別れたつもりの元彼が、仕事でベルリンに来てて、この間少しだけ会った時に、突然、プロポーズしてきて」
「元彼が?あの、ヴィクターがはち合わせしたっていう人?」
「そう」
「そうなんだ!ヴィクターからも聞いたよ。リオのこと、ものすごく大事に想っている人らしかったって言ってた」
「うん、そうなんだけど……でも」
「心が決まらないってことなんだね」
「そうなの。私って、物事を決めるのが得意じゃないみたいで、特に、こういう人生に関わることって、何度も何度も考えてしまって、答えまでなかなか辿り着けなくて」
「そんなに難しいことなの?」
「難しく、なっちゃったのかなぁ……」
私は、この複雑な心境をどうしたら端的に説明出来るか考えてみたけれど、やっぱりそれは不可能だと思い、結局、なれそめからバレンタインのトパーズの話も含め、ベルリンでの再会時のことを時系列で順序良く説明した。
最初はウンウンと頷きながら話を聞いていたアナマリーだが、ベルリンでの再会の話のあたりから、完全に呆然とした感じで私の顔を見ていた。
「えーっと……話を聞いている限りだと、断る理由が見つからないんだけど」
戸惑った様子で私を見るアナマリー。
やっぱりそう思うのか、と何故か納得して、心なしかほっとする。
「そう思う?やっぱり、そうかな?」
「うん。バレンタインのトパーズの件は、完全にお互いの誤解からきたものだし、彼の意図することがわかったら、リオもまた気持ちが変わって来たんでしょ?もしかすると、マリッジブルーみたいな感じになってるだけじゃない?」
「マリッジブルー?もう、今から?」
「これでいいのかって不安になるのは普通みたいだよ。もしかしたら、私もこれからそうなるのかもしれないけど」
「えー、アナマリーとジョーなら幸せのまま結婚まで行くよ!」
「だといいけどね」
アナマリーが可笑しそうに笑うと、携帯を取り出した。
「ね、その、タクミって、SNSやってるの?写真、見たい」
「SNS?」
アナマリーに携帯を渡されて、ネットで久しぶりに自分のSNSにログインしてみる。まだ、友達リストに載っている拓海を見つけて、彼のSNSサイトを開いてみると、買付けの出張の様子がアップされていた。
巨大な倉庫の外に所狭しと並ぶアンティーク家具の前で、ディーラーと話している様子や、打ち合わせ中の様子の写真が載っている。
「拓海は、プライベートというよりは、仕事用にSNSを使ってるの。今、ノルウェーにいるみたい」
拓海のSNSページを見せると、アナマリーが写真をいくつか拡大して覗き込む。
「わぁ、すごくハンサム!映画俳優みたい!私、タイプかも」
「えっ」
びっくりしてアナマリーを見ると、彼女はいたずらっ子のようにウインクして笑う。
「私、アジア映画とか大好きなのよ。えーと、ほら、台湾と日本のハーフ?の、ものすごいハンサムな俳優がいるでしょ? タケシ! 甘いマスクで演技も最高! 私、ずっと彼のファンなの!タクミ、なんかタケシに似てる」
「ああ、あの俳優さん」
言われてみれば、確かに背格好、顔も似ているかもしれない。
ただし、性格は全然違うだろう。
「素敵な大人の男性って感じね!」
写真を見ながらテンションが上がっているアナマリーを前に、私も少し気が楽になり笑顔が出る。
友達と同じ時期にプロポーズされて、同じ時期に結婚する、なんてドラマにありそうな話だ。
婚約して幸せそうに微笑むアナマリーを包む明るさが眩しい。
「あ、もうすぐ2時!もうそろそろ仕事に戻らないと……今日は11時出社したから、夜7時までなの」
アナマリーが携帯の時刻を見て、残念そうにそう言って大きく溜め息した。
「明日の夜も会えるしね。そういえば、明日はね、オリビアって子もくるの」
「オリビア?貴女の友達?」
「ううん、ジョーの会社の子で、スペイン系アメリカ人のインターン生。スペイン語をしゃべる相手が欲しいって言ってたから、この間、ヴィクターを紹介したのよ。あれから会ってないみたいだけど、オリビアはヴィクターに会いたいらしいから、ジョーが連れて来ることにしたって言ってた」
「スペイン語?あ、そうか、ここにいたらドイツ語か英語ばかりで、スペイン語喋りたくなるんだろうね」
私も、日本語をしばらく話していないので、少しだけ禁断症状が出て来ている気がする。自分の言語を話す機会がないと、知らないうちにストレスが溜まって来るのかもしれない。
「リオはこれからどうするの?」
「そうだなぁ、洋服とか見てみようかなと思ってる。おすすめの場所、ある?」
トレイやカップを片付けながら席を立つ。アナマリーは少し考えるように首を傾げていたが、やがて思い出したように手を叩いた。
「あるある!リオに似合いそうなブランド物があるお店」
「ブランド物?」
「会社の近くにある通り道の店なの。セレクトショップなんだけど、そこにあるKaffe Clothingというブランドの服、リオにすごく似合いそう。たしか、デンマークのブランドだったかな」
「Kaffe Clothingっていうの?聞いたことないなぁ。デンマークのブランド自体、始めてかも」
聞いた事もないブランドだから、まず、日本じゃ入手が難しいものだろう。それに今、日本は北欧ブームだし、もし似合いそうなのがあったらラッキーだ。
賑やかなアレクサンダー広場を通り過ぎて交差点を渡ると、急に人通りが減って静かになる。しばらく歩くと、そのセレクトショップに到着する。
「仕事にも着ていけそうな感じだね」
外からディスプレイを見ると、モノトーンをベースに、単色系のすっきりしたラインの服が多く、オフィスウエアにも良さそうだ。
「あれ、二人揃って、買い物?」
背後から聞き慣れた声がして振り返ると、ヴィクターが他の数人と立っていた。どうやら会社の仲間達とのランチ帰りらしい。
「私達もランチの帰りなのよ。リオに、このお店勧めてたところ。あぁ、もう、オフィスに戻らないでこのままリオとショッピングしたくなってきたなぁ」
アナマリーが冗談混じりにそう言って私と腕を組むと、ヴィクターと並んでいたアジア人の女の子が悲鳴をあげた。
「ダメよ!アナマリーが抜けたら、インドネシア語のスタッフが私だけになっちゃう!」
「わかってるー!冗談よ、ちゃんと戻るから」
アナマリーが可笑しそうに笑って私から離れた。
とても楽しそうな同僚グループのようだ。
私も自分の職場の仲間を思い出して笑顔になる。
「それじゃ、明日ね」
「うん、じゃぁまた」
アナマリーに手を振ると、彼等全員が私に笑顔を向け、そしてその場から歩き出した。お店の前で立って彼等を見送っていると、一番後ろを歩いていたヴィクターが立ち止まり、私を振り返った。
「リオ、明日の夜のやつ、行く?」
「うん、行くよ!メキシコ料理、大好物だし」
そう答えると、ヴィクターが目を細めて笑顔で頷いた。
「オッケー。明日は俺も早番で4時頃には戻ってるから、6時すぎくらいに出るか」
「あ、そうだね。場所、わからないし、一緒に行けたら助かる」
詳しい場所のこともまだ聞いてなかった。
連れて行ってもらえるなら、レストランまでの移動方法を調べる手間も省ける。
「じゃ、明日だな。呼び鈴鳴らすから。お腹を空かせて行こう」
「勿論!じゃ、明日ね!」
嬉しくなって大きな声でそう返事をすると、笑顔のヴィクターの澄んだ青い目が、子供のように輝いたのに気がつく。ベビーフェイスの彼が笑うと本当に少年のようだ。
「チャオ」
ヴィクターは可笑しそうに笑って私の肩を軽く叩くと、先に行ってしまった同僚達を追いかけて走って行く。
あっという間に小さくなっていくその後ろ姿を眺めながら、もしかすると彼も短距離選手だったのかなと思った。

それからしばらくあちこちのお店を回り、思ったより収穫があった。
アナマリーが教えてくれたセレクトショップでは、オフィス着になりそうなトップスにパンツ、ジャケットを何着か購入し、通りかかったお店でも、デニムやワンピを購入。すべてをひとつの紙袋に入れたけれど、思ったよりかさ張る。スーツケースはもうシャツ1枚入らないくらい一杯になっているので、機内持ち込みのバッグになんとか入れるか、それでも入らなかったら、最悪このまま紙袋で持って行くしかない。
さすがにこれ以上買うのはやめておこう。
予想外に衝動買いしてしまったと少しだけ反省しつつ、ふとあることに気がつく。
拓海と本当に結婚するとしたら、年末前には仕事を辞めてしまうことになるのに、私はまた、すっかりそのことを忘れて、仕事に着ていけるものを重点的に買いまくっていた。
そう、今は10月半ば。
退社日の一ヶ月前に退職願を出すとして、有給休暇の消化をする期間を考えたら、11月頭にはもう、退職願を提出して、12月の2週目以降は有給休暇の消化になる。
クリスマス前にはもう、出社しないということだ。
ありえないくらい急な退職になってしまう。
後任を探すのも大変じゃないだろうか。
大体、プロポーズの返事をしなければならないという、こんな重要なことを、ことあるごとに忘れてしまうなんて、私はどこかおかしいのじゃないだろうか。
いや、忘れているのでなくて、もしかすると、意識的にそのことを思考から取り除くという、現実逃避をしているのだろうか。
自分の深層心理を覗こうとしても、根底に実はそれを知りたくないという気持ちがあって、私はまた、この疑問そのものを頭の隅に押しやる。
自分から逃げている自分。
知りたいのに、知りたくない。
どこまでも天の邪鬼な自分に嫌気がさしていた。
結局、4時半すぎにアレクサンダープラッツ駅に戻り、スタバを通りかかった時、喉が乾いていたのでそのまま店内に入る。



何を注文するか悩んだ挙げ句、ヴァニラ・ルイボスティをテイクアウトで注文。コーヒーがメインのスタバでハーブティを注文するのは始めてだった。私はコーヒーを飲むと最初、カーッと体が熱くなり、その後、だんだん冷えて来るタイプなので、これから夕方になり少しずつ気温が下がることを考えると、体が冷えるとわかっている飲み物は避けた方がいいはずだ。セルフサービスのコーナーで、カップの蓋をあけて、湯気のたつ、奇麗に透き通るオレンジ色のヴァニラ・ルイボスティの中に、蜂蜜とミルクをたっぷり入れてゆっくりとスティックでかき混ぜると、ミルクオレンジ色に変わる。とろりとしていかにも温まりそうだ。見ているだけで心が落ち着く優しいクリーム色。
目を閉じて、一口飲んでみる。キャラメルのような甘ったるさだけど、しつこくない。滑らかに喉を滑り落ちていくヴァニラ・ルイボス・ミルクティにうっとりとしながら、そうっと目を開く。
ガラスの向こうに見えるのは、忙しそうに構内を歩く利用客が交差する風景。
とろりと滑らかに煌めくミルクオレンジ色のルイボスティを見下ろして、少し考えてしまう。
東京でもスタバにはたまに行くけれど、ベルリンの駅構内にあるこじんまりとしたスタバは、内装はそっくりでも雰囲気が違う。人の出入りが激しくて、視界に映る風景も秒刻みで変わって行く。やはり、ゆっくり座って自分の時間を過ごすという感じではなく、持ち帰り用に買う人が殆どなのだろう。
やっぱり、本当にリラックスする場所は、こういうチェーン店ではなくて、自分のお気に入りのブレンドのコーヒーやティーがあったり、焼きたてのケーキが並ぶ、それぞれの個性があるカフェ。
ふと、あのウイークリーアパートの近くにあるカフェを思い出すと、心がふわりと温かくなった。
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