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最後の一週間
近づくタイムリミット
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私のベルリン滞在、残すところ6日弱。
ついにカウントダウンが始まった月曜日だ。
その日は朝の7時からやたら騒々しく、なにか金属がぶつかるような工事音や、作業をしている人達の会話が聞こえていた。一体何事だろうと思って、ベッドルームの窓から外を見てみると、階段のある壁の真下の庭のところに鉄枠が組まれて、何か工事の足場のようなものを組み始めて居るのが見えた。
あんなところに駐車場かなにかを作るのだろうかと一瞬思ったが、すぐに、その理由を思い出す。
蓮美ちゃんが、このウイークリーアパートの予約をしてくれた時に言っていた、エレベーター設置工事が始まったらしい。
このアパートは100年以上の古い建物で、最上階の6階まで階段のみとなっているが、ようやくエレベータを設置することになったらしい。恐らく私の滞在中にその工事が始まるため、騒音が予想されるとのことをアパートのオーナーから聞いていた。
古い建物だから、建物内部にエレベータをつけることが出来ないため、建物の外部にエレベータを設置し、偶数階の2階、4階、6階のみで乗降出来るようにして、その階の踊り場の窓部分の壁を壊しエレベーターの乗降口を繋げるというやり方らしい。
足場の組み立て作業で生じる金属音が響いてすごいが、何より驚いたのは、朝の7時からそんな作業をしているということだ。
これからどれくらいの時間をかけてエレベータ設置が完了するのかは知らないが、ここに住んでいる人は、当分の間はこの騒音に耐えなければならないわけだ。でも、これで重い荷物を持って階段をずっと上まで上って行く必要がなくなるので、上階に住む人にとってはその騒音も嬉しいものかもしれない。
ハンマーの音をBGMに軽い朝食を取ると、私は今日の予定をどうするか考えた。
昨日、職場の同僚へのお土産は買ったので、後は、学生時代の友達や家族の分だ。
弟からは、お気に入りのドイツのサッカーチームのオフィシャルユニフォームや、スポーツバッグ等のリクエストもされていたし、こういうことを後回しにすると、最後の数日で見つからないとか時間がないなんて場合に困るので、今日、明日でやるべきことは済ませることにした。
iPadでショッピング情報を調べ、当日チェックする店をリストアップし、昼前には出発。
月曜日は夕方まで終日、お土産の購入に費やして終る。
火曜日は、前日の買い物疲れのせいか、工事音にも関わらず起きだしたのは10時。実際には8時前から目は覚めていたけれど、なかなか起きることが出来ずにだらだらとしてしまった。でも、東京に戻ったらまた、規則正しい日々をこなさないといけないから、バケーションに来ている時くらい、だらだらと過ごすべきだろう。
今朝の朝食は、前日駅前のキオスクで買って来たクロワッサンと、オレンジジュースのみ。
昨日はお土産の紙袋を両手で抱えていたから、スーパーに寄れなかった。でも、今日はもう一度食料品の買い出しに行って、残りの滞在で使う分だけをまとめて仕入れるつもりだ。
今日は、実家に持って行くつもりの調味料やキッチン用品を買うことに専念しようと思う。
こちらには、様々なハーブや、香辛料が揃っていて、日本の普通のスーパーでは手に入らないものも手頃な値段で買うことが出来る。母が料理好きなので、お土産は香水や化粧品ではなく、肉料理、魚料理、スープやお菓子作りに使えるハーブや香辛料を買って来て欲しいとリクエストしてきている。せっかくなので、ミトンやピーラーなどもかわいいデザインがあったらお土産として購入したい。
後は、父のネクタイだ。
外資で重役をしている父の唯一の楽しみといえば、スーツに合わせるネクタイのコレクション。出張に行くたびに自分でも買っているようだが、やっぱり、自分で選ぶものはワンパターンになりがちらしく、私が、誕生日や父の日などでプレゼントするととても喜んでくれるのだ。
これらを購入するために、どのエリアに向かおうか調べようとiPadの電源を入れ、先にメールチェクをする。今日のメールは2通のみで、それは、アナマリーと、そして拓海からだった。
先にアナマリーのメールを開けてみると、明日のランチを一緒にどうかというお誘いだった。彼女もヴィクターと同じ会社に勤めているので、出来れば、昼過ぎに、アレクサンダープラッツで待ち合わせ希望とのことだ。
勿論、即、OKの返事を送る。
そして、なんとなく不安を感じつつ、拓海のメールを開けてみる。
内容は相変わらず簡潔だった。
拓海の出張予定はもともと、日曜日からアムステルダム入りして、月、火と買付けをし、水曜日にアムステルダム発で成田に飛ぶ予定になっていた。
それを、土曜日の早朝便でオスロからベルリンのテーゲル空港へ飛び、午後の便でベルリンからアムスへ飛ぶように変更したので、テーゲル空港で会いたいとのことだった。
つまりそれが、その日、ベルリンのテーゲル空港で、プロポーズの返事を聞かせろという意味だとことくらい、いくら鈍い私でもわかる。このために、オスロから直接アムステルダムに行けるのを、わざわざベルリンへ寄り道するというわけだ。ただ空港で会ってお茶するなんていう理由じゃない。
開いたメールの活字を見つめ、私の胸が激しくざわめく。
もう、時間がない。
本当は、まだ全然、気持ちは定まっていないのだ。
でも、これ以上、拓海を待たせて苦しめるわけにもいかない。待っている彼の気持ちを想うと、こうして待たせている申し訳なさと、なかなか気持ちがはっきりしない自分に対する情けなさで頭がおかしくなりそうだ。
誰かが、私の背中をどんっと前へ押すか、あるいはぐいっと後ろへ引いてくれたらいいのに!
蓮美ちゃんなら、そうしてくれるのだろうか。
いや、蓮美ちゃんは、最終決断は絶対に自分でしろと言うはずだ。
将来有望で自他とも認めるモテ男の拓海と結婚して、年明けからフランスのパリに住む。
普通の女の子なら、舞い上がるようなシナリオだ。
周りの人が羨むに違いない、絵に描いた様な幸せな結婚。
きっと、私の家族も諸手を挙げて賛成するはず。
それに、私だって、やっぱり拓海は好きなんだろう。
嫌いな男であれば、近くに立つのさえ嫌なものだ。
そして、以前よりもずっとソフトになっていた彼は、私が戸惑うくらい、真剣で誠実だった。
何を迷うことがあるのだろう。
私は怖いのだろうか。
なにかを見過ごしているのではないかと、疑心暗鬼になっているのだろうか。
永遠に答えに辿り着かないような思考の中で、ひとつだけ決まっていること。
それは、土曜日の朝には、私は彼に返事をしなければならない。
そして、私は絶対に、その答えを翻さない。決めたら、それが最後の答えだ。
拓海と生きて行くか。それとも、また1人の道を選ぶか。
自分のためにも、拓海のためにも、決めなくては。
残す所、数日。
最後の最後まで、悩み続けるしかないだろう。
拓海は、乗り継ぎにも関わらず一度、カスタムを出るので、搭乗手続きをするカウンターの近くで10時頃の待ち合わせと指定した。
私は大きく溜め息をつくと、その待ち合わせの件を了解した旨、短く返信を送る。
余計なことを書いて、プロポーズの返事を想像させることはしたくなかったからだ。
タイムリミットへのカウントダウンが始まる。
ずっしりと重いプレッシャーを抱えつつ、その日は予定通り、父と母へのお土産探しをこなした。
月、火、とお土産準備に奔走し、やっと無事に全部揃えることが出来た。
リストを再度チェックして、買い忘れがないことを確認してほっとする。
スーツケースもなんとか閉まるくらいまでに膨れ上がり、機内持ち込み用のバッグももう、これ以上は持てないくらい重くなった。
スーツケースの重量が果たして規定内の23kgなのかどうかが疑問だが、もし、ひっかかったら中から荷物を出して機内持ち込みにするしかない。
アパートの外のほうは、ドリル音が鳴り響いてすごい騒音だ。
庭だった部分を掘って、コンクリートの基盤を入れるのだろう。今日は終日この地響きのする音が続きそうな感じだが、今日は、お昼にアナマリーとランチをして、その後はまたしばらく出歩いて夕方帰って来るので、きっとその頃にはこの騒音も止んでいるはずだ。
アナマリーの休憩時間に一緒にランチをしたら、その後は近辺で自分が欲しいものがないか探してみることにする。今のところ、自分用にはこれといって何も買っていないけれど、せっかくなら数枚くらい、新しい洋服を買って帰りたい。薄手のものなら数枚くらいボストンバッグの外ポケットに入れることだって出来る。
そう考えると急に買う気満々になってきて、元気が出て来た。
今日は秋晴れで天気が良く、暖かめなので、服装も軽めにする。
ホワイトのスキニーパンツに、ライトブルーグレーのシャツ、ブラックのベルトと同じくブラックのパンプス、最後に薄手のブラックのジャケットを羽織る。同じくブラックのショルダーバッグで、ちょっぴり辛めのコーディネイトにしてみると、まるで仕事に行く時みたいなスタイルになった。
日曜日の夜にヴィクターと来たアレクサンダープラッツ。
もう滞在中にここに来ることはないと思っていたのに、もう、4回目だ。もう、すっかり地元気分でアレクサンダープラッツ駅のホームに下りる。
一度目は、ヴィクターに観光に付き合ってもらって来た。
二度目は、拓海との待ち合わせし、そして、明け方にヴィクターに助けてもらった。
三度目は、ヴィクターと買い物と観光に来た。
そして今日が四度目。アナマリーとのランチだ。
待ち合わせは駅構内のスタバの前。
「リオ!」
スタバの前に来るなり、ドアが開いて中からアナマリーが出て来た。
「アナマリー!ごめん、待たせた?」
「ちがうわよ、少し早く来たから、飲み物買ってたの」
持ち帰り用のカップを見せて、アナマリーがにっこりした。
「とりあえず食べに行こう。何食べたい?」
人の流れにそって駅の出口のほうへ向いながら彼女が聞く。
「そうだねー、天気もいいし、今日は、外で食べるとかどう?」
「あ、いいね!別にレストランに行かなくてもいいし、だったら、サンドイッチとか買って外に座ろう」
EXITを出るとすぐ右手に、Back Factoryがあった。このチェーン店は、ウイークリーアパートの近くにもあるので、もう何回かお世話になっている。種類も豊富だし、サンドイッチは結構美味しかったことを思い出し、私はアナマリーに聞いてみた。
「Back Factoryはどう?」
「うん、いいよ。私も、ここのベーグルサンドは好き」
「じゃ、そうしよう!」
「オッケー!ちょっと待って」
アナマリーは残りのコーヒーを一気に飲み干し、空になったスタバのカップをゴミ箱に捨てた。
そして私達は意気揚々と店内に入り、トレイを持ってそれぞれのお目当てのサンドイッチを探す。アナマリーは、セサミベーグルにピリ辛チキンフィレのサンドを選び、私はプレーンベーグルのスモークサーモン&クリームチーズサンドを選ぶ。紅茶のテイクアウトをして、会計を済ませると表に設置されているピクニックベンチのほうへ出た。足下にはやっぱりハトがうろうろしておこぼれを探している。
心地よいゆるやかな秋の風に、過ぎ去った夏の名残りを感じるくらい、今日は暖かい。
「そうそう、忘れないうちに!」
一口、ベーグルサンドを食べたアナマリーが思い出したように顔をあげた。
「リオ、明日の夜、空いてる?」
「明日?うん、別になにもないよ」
金曜日のランチを蓮美ちゃんの職場の近くで約束しているだけで、もう、人との約束はない。
「よかった」
アナマリーはほっとしたように笑顔で頷いた。
「クリスティアンの仕切りで、明日の晩、今度はメキシコ料理のお店に集まろうってことになったの。リオ、来れるよね?」
「うん!もちろん、行く。メキシコ料理、大好き!」
私は嬉しくて思わず大きな声でそう答えた。
アナマリーが楽しげに目を細めて笑う。
「よかった!金曜日は、私もヴィクターも夜勤で出れないから、木曜日しか空いてなかったのよ。じゃ、後で場所とかメールするね。時間は7時からになってる」
「わかった。ありがとう」
ベルリンでメキシコ料理が食べれるなんて楽しみだ。
明るい雰囲気のメキシコ料理レストランを想像し、タコスやブリトー、マルゲリータの並ぶテーブルを思い浮かべて頬が緩む。
「それでね、実は」
アナマリーが声を潜めて、一息ついた後、ちょっぴり恥ずかしそうに私を見た。
「来年の3月、また、ベルリンに来れる?」
「え?3月に?」
私はびっくりして手に持っていたベーグルサンドをプレートに置いた。
「特に予定はしてなかったけど……どうして、3月?」
「3月の終わりにね」
アナマリーはそっと左手を私の前に差し出した。
その薬指には、きれいなダイアモンドの指輪が星のようにキラキラと輝いている。私はすぐにその意味に勘づき、ドキンと胸が弾んだ。
思わず彼女のその手に触れる。
「おめでとう!!!もしかして、3月末に結婚式を挙げるってこと?!」
興奮に声が裏返りそうになった。
アナマリーは頬を赤らめて頷くと、彼女の左手に触れている私の右手の上に自分の右手を重ねた。
「実は、あの晩、帰り際にこれもらって……リオは、まだ一回しか会ってない間柄だとわかっているんだけど、是非、来て欲しいの」
「あの晩だったんだ!」
「酔っぱらってたから、やっぱり運転はまずいだろうって、クリスティアンもマーラも車は置いて行くことにして、4人でタクシーに乗ってたの。そしたら、その車内でいきなり指輪を出してきて」
「えええっ、すごい、タクシーの中でプロポーズ?!」
驚いて目が点になる。
散々パーティで飲んで踊って疲れ切った直後にプロポーズというだけでもびっくりなのに、タクシーの中で、運転手や他の友達も一緒の時にプロポーズに踏み切るとは、ある意味すごい勇気があるんじゃないだろうか。
「驚くよね!私もまさか、タクシーの中であんなことするなんて思わないから、最初は冗談かと思ったの」
アナマリーが思い出したようにクスクスと笑う。
「ジョーが言うには、周りにちゃんと見届けてくれる人が居て欲しかったから、あえてタクシーの中で決行したらしいんだけど」
「そうなんだ!でも、思い出になるね!タクシーに乗る度にその時のことが蘇って来るね。素敵だと思うよ!なんだかジョーらしい発想かも」
「うん、そうね。それで、クリスマス休暇あたりはお互いの家族に報告に行って、3月の終わりに、ベルリンで式をしようと話してるの」
「うん、わかった!」
私は大きく頷いた。
「喜んで、出席させて!有給休暇、まだたっぷり残ってるし、絶対に来る!」
私ははっきりとそう答えた。
アナマリーの嬉しそうな笑顔に胸が温かくなる。頬を染めて、目がキラキラと輝いて、まるで天使のように無垢な、幸福に満たされた微笑みを浮かべていた。
その瞬間、私ははっと我に返る。
今、この時まで完全に頭から抜けていたことだ。
自分も、プロポーズされていたんだった。
もし、これを受けたら、1月からはパリ住まいになっているじゃないか。
こんな重要なことをすっかり忘れていたなんて、私はどうかしてる!
「……リオ?」
「えっ」
声をかけられてはっとしてアナマリーを見ると、彼女が怪訝そうに私を見つめている。
「どうしたの?急に青ざめて……具合が悪いの?」
「あ、ううん……違うの……ごめんね、ちょっと」
私はしどろもどろになって苦笑いした。
アナマリーの婚約という喜ばしい報告をもらったこの場で、私の突然の取り乱し方はおかしいと思われても仕方がない。
アナマリーはしばらく黙って私を見ていたが、やがて、遠慮がちに私の顔を覗き込んだ。
「なにか、悩んでるんだったら、聞くよ?私でよければ、だけど」
その優しい言葉に、思わず目頭が熱くなり、私は慌てて瞬きをした。
プロポーズを受けいれた彼女に話せば、私がどういう状態なのか、客観的によく見えるのだろうか。
私は顔を上げて、アナマリーの目を見た。まっすぐで純粋な彼女の目に、悩む私の顔が映っている。
私は、彼女に打ち明けてみようと決心した。
ついにカウントダウンが始まった月曜日だ。
その日は朝の7時からやたら騒々しく、なにか金属がぶつかるような工事音や、作業をしている人達の会話が聞こえていた。一体何事だろうと思って、ベッドルームの窓から外を見てみると、階段のある壁の真下の庭のところに鉄枠が組まれて、何か工事の足場のようなものを組み始めて居るのが見えた。
あんなところに駐車場かなにかを作るのだろうかと一瞬思ったが、すぐに、その理由を思い出す。
蓮美ちゃんが、このウイークリーアパートの予約をしてくれた時に言っていた、エレベーター設置工事が始まったらしい。
このアパートは100年以上の古い建物で、最上階の6階まで階段のみとなっているが、ようやくエレベータを設置することになったらしい。恐らく私の滞在中にその工事が始まるため、騒音が予想されるとのことをアパートのオーナーから聞いていた。
古い建物だから、建物内部にエレベータをつけることが出来ないため、建物の外部にエレベータを設置し、偶数階の2階、4階、6階のみで乗降出来るようにして、その階の踊り場の窓部分の壁を壊しエレベーターの乗降口を繋げるというやり方らしい。
足場の組み立て作業で生じる金属音が響いてすごいが、何より驚いたのは、朝の7時からそんな作業をしているということだ。
これからどれくらいの時間をかけてエレベータ設置が完了するのかは知らないが、ここに住んでいる人は、当分の間はこの騒音に耐えなければならないわけだ。でも、これで重い荷物を持って階段をずっと上まで上って行く必要がなくなるので、上階に住む人にとってはその騒音も嬉しいものかもしれない。
ハンマーの音をBGMに軽い朝食を取ると、私は今日の予定をどうするか考えた。
昨日、職場の同僚へのお土産は買ったので、後は、学生時代の友達や家族の分だ。
弟からは、お気に入りのドイツのサッカーチームのオフィシャルユニフォームや、スポーツバッグ等のリクエストもされていたし、こういうことを後回しにすると、最後の数日で見つからないとか時間がないなんて場合に困るので、今日、明日でやるべきことは済ませることにした。
iPadでショッピング情報を調べ、当日チェックする店をリストアップし、昼前には出発。
月曜日は夕方まで終日、お土産の購入に費やして終る。
火曜日は、前日の買い物疲れのせいか、工事音にも関わらず起きだしたのは10時。実際には8時前から目は覚めていたけれど、なかなか起きることが出来ずにだらだらとしてしまった。でも、東京に戻ったらまた、規則正しい日々をこなさないといけないから、バケーションに来ている時くらい、だらだらと過ごすべきだろう。
今朝の朝食は、前日駅前のキオスクで買って来たクロワッサンと、オレンジジュースのみ。
昨日はお土産の紙袋を両手で抱えていたから、スーパーに寄れなかった。でも、今日はもう一度食料品の買い出しに行って、残りの滞在で使う分だけをまとめて仕入れるつもりだ。
今日は、実家に持って行くつもりの調味料やキッチン用品を買うことに専念しようと思う。
こちらには、様々なハーブや、香辛料が揃っていて、日本の普通のスーパーでは手に入らないものも手頃な値段で買うことが出来る。母が料理好きなので、お土産は香水や化粧品ではなく、肉料理、魚料理、スープやお菓子作りに使えるハーブや香辛料を買って来て欲しいとリクエストしてきている。せっかくなので、ミトンやピーラーなどもかわいいデザインがあったらお土産として購入したい。
後は、父のネクタイだ。
外資で重役をしている父の唯一の楽しみといえば、スーツに合わせるネクタイのコレクション。出張に行くたびに自分でも買っているようだが、やっぱり、自分で選ぶものはワンパターンになりがちらしく、私が、誕生日や父の日などでプレゼントするととても喜んでくれるのだ。
これらを購入するために、どのエリアに向かおうか調べようとiPadの電源を入れ、先にメールチェクをする。今日のメールは2通のみで、それは、アナマリーと、そして拓海からだった。
先にアナマリーのメールを開けてみると、明日のランチを一緒にどうかというお誘いだった。彼女もヴィクターと同じ会社に勤めているので、出来れば、昼過ぎに、アレクサンダープラッツで待ち合わせ希望とのことだ。
勿論、即、OKの返事を送る。
そして、なんとなく不安を感じつつ、拓海のメールを開けてみる。
内容は相変わらず簡潔だった。
拓海の出張予定はもともと、日曜日からアムステルダム入りして、月、火と買付けをし、水曜日にアムステルダム発で成田に飛ぶ予定になっていた。
それを、土曜日の早朝便でオスロからベルリンのテーゲル空港へ飛び、午後の便でベルリンからアムスへ飛ぶように変更したので、テーゲル空港で会いたいとのことだった。
つまりそれが、その日、ベルリンのテーゲル空港で、プロポーズの返事を聞かせろという意味だとことくらい、いくら鈍い私でもわかる。このために、オスロから直接アムステルダムに行けるのを、わざわざベルリンへ寄り道するというわけだ。ただ空港で会ってお茶するなんていう理由じゃない。
開いたメールの活字を見つめ、私の胸が激しくざわめく。
もう、時間がない。
本当は、まだ全然、気持ちは定まっていないのだ。
でも、これ以上、拓海を待たせて苦しめるわけにもいかない。待っている彼の気持ちを想うと、こうして待たせている申し訳なさと、なかなか気持ちがはっきりしない自分に対する情けなさで頭がおかしくなりそうだ。
誰かが、私の背中をどんっと前へ押すか、あるいはぐいっと後ろへ引いてくれたらいいのに!
蓮美ちゃんなら、そうしてくれるのだろうか。
いや、蓮美ちゃんは、最終決断は絶対に自分でしろと言うはずだ。
将来有望で自他とも認めるモテ男の拓海と結婚して、年明けからフランスのパリに住む。
普通の女の子なら、舞い上がるようなシナリオだ。
周りの人が羨むに違いない、絵に描いた様な幸せな結婚。
きっと、私の家族も諸手を挙げて賛成するはず。
それに、私だって、やっぱり拓海は好きなんだろう。
嫌いな男であれば、近くに立つのさえ嫌なものだ。
そして、以前よりもずっとソフトになっていた彼は、私が戸惑うくらい、真剣で誠実だった。
何を迷うことがあるのだろう。
私は怖いのだろうか。
なにかを見過ごしているのではないかと、疑心暗鬼になっているのだろうか。
永遠に答えに辿り着かないような思考の中で、ひとつだけ決まっていること。
それは、土曜日の朝には、私は彼に返事をしなければならない。
そして、私は絶対に、その答えを翻さない。決めたら、それが最後の答えだ。
拓海と生きて行くか。それとも、また1人の道を選ぶか。
自分のためにも、拓海のためにも、決めなくては。
残す所、数日。
最後の最後まで、悩み続けるしかないだろう。
拓海は、乗り継ぎにも関わらず一度、カスタムを出るので、搭乗手続きをするカウンターの近くで10時頃の待ち合わせと指定した。
私は大きく溜め息をつくと、その待ち合わせの件を了解した旨、短く返信を送る。
余計なことを書いて、プロポーズの返事を想像させることはしたくなかったからだ。
タイムリミットへのカウントダウンが始まる。
ずっしりと重いプレッシャーを抱えつつ、その日は予定通り、父と母へのお土産探しをこなした。
月、火、とお土産準備に奔走し、やっと無事に全部揃えることが出来た。
リストを再度チェックして、買い忘れがないことを確認してほっとする。
スーツケースもなんとか閉まるくらいまでに膨れ上がり、機内持ち込み用のバッグももう、これ以上は持てないくらい重くなった。
スーツケースの重量が果たして規定内の23kgなのかどうかが疑問だが、もし、ひっかかったら中から荷物を出して機内持ち込みにするしかない。
アパートの外のほうは、ドリル音が鳴り響いてすごい騒音だ。
庭だった部分を掘って、コンクリートの基盤を入れるのだろう。今日は終日この地響きのする音が続きそうな感じだが、今日は、お昼にアナマリーとランチをして、その後はまたしばらく出歩いて夕方帰って来るので、きっとその頃にはこの騒音も止んでいるはずだ。
アナマリーの休憩時間に一緒にランチをしたら、その後は近辺で自分が欲しいものがないか探してみることにする。今のところ、自分用にはこれといって何も買っていないけれど、せっかくなら数枚くらい、新しい洋服を買って帰りたい。薄手のものなら数枚くらいボストンバッグの外ポケットに入れることだって出来る。
そう考えると急に買う気満々になってきて、元気が出て来た。
今日は秋晴れで天気が良く、暖かめなので、服装も軽めにする。
ホワイトのスキニーパンツに、ライトブルーグレーのシャツ、ブラックのベルトと同じくブラックのパンプス、最後に薄手のブラックのジャケットを羽織る。同じくブラックのショルダーバッグで、ちょっぴり辛めのコーディネイトにしてみると、まるで仕事に行く時みたいなスタイルになった。
日曜日の夜にヴィクターと来たアレクサンダープラッツ。
もう滞在中にここに来ることはないと思っていたのに、もう、4回目だ。もう、すっかり地元気分でアレクサンダープラッツ駅のホームに下りる。
一度目は、ヴィクターに観光に付き合ってもらって来た。
二度目は、拓海との待ち合わせし、そして、明け方にヴィクターに助けてもらった。
三度目は、ヴィクターと買い物と観光に来た。
そして今日が四度目。アナマリーとのランチだ。
待ち合わせは駅構内のスタバの前。
「リオ!」
スタバの前に来るなり、ドアが開いて中からアナマリーが出て来た。
「アナマリー!ごめん、待たせた?」
「ちがうわよ、少し早く来たから、飲み物買ってたの」
持ち帰り用のカップを見せて、アナマリーがにっこりした。
「とりあえず食べに行こう。何食べたい?」
人の流れにそって駅の出口のほうへ向いながら彼女が聞く。
「そうだねー、天気もいいし、今日は、外で食べるとかどう?」
「あ、いいね!別にレストランに行かなくてもいいし、だったら、サンドイッチとか買って外に座ろう」
EXITを出るとすぐ右手に、Back Factoryがあった。このチェーン店は、ウイークリーアパートの近くにもあるので、もう何回かお世話になっている。種類も豊富だし、サンドイッチは結構美味しかったことを思い出し、私はアナマリーに聞いてみた。
「Back Factoryはどう?」
「うん、いいよ。私も、ここのベーグルサンドは好き」
「じゃ、そうしよう!」
「オッケー!ちょっと待って」
アナマリーは残りのコーヒーを一気に飲み干し、空になったスタバのカップをゴミ箱に捨てた。
そして私達は意気揚々と店内に入り、トレイを持ってそれぞれのお目当てのサンドイッチを探す。アナマリーは、セサミベーグルにピリ辛チキンフィレのサンドを選び、私はプレーンベーグルのスモークサーモン&クリームチーズサンドを選ぶ。紅茶のテイクアウトをして、会計を済ませると表に設置されているピクニックベンチのほうへ出た。足下にはやっぱりハトがうろうろしておこぼれを探している。
心地よいゆるやかな秋の風に、過ぎ去った夏の名残りを感じるくらい、今日は暖かい。
「そうそう、忘れないうちに!」
一口、ベーグルサンドを食べたアナマリーが思い出したように顔をあげた。
「リオ、明日の夜、空いてる?」
「明日?うん、別になにもないよ」
金曜日のランチを蓮美ちゃんの職場の近くで約束しているだけで、もう、人との約束はない。
「よかった」
アナマリーはほっとしたように笑顔で頷いた。
「クリスティアンの仕切りで、明日の晩、今度はメキシコ料理のお店に集まろうってことになったの。リオ、来れるよね?」
「うん!もちろん、行く。メキシコ料理、大好き!」
私は嬉しくて思わず大きな声でそう答えた。
アナマリーが楽しげに目を細めて笑う。
「よかった!金曜日は、私もヴィクターも夜勤で出れないから、木曜日しか空いてなかったのよ。じゃ、後で場所とかメールするね。時間は7時からになってる」
「わかった。ありがとう」
ベルリンでメキシコ料理が食べれるなんて楽しみだ。
明るい雰囲気のメキシコ料理レストランを想像し、タコスやブリトー、マルゲリータの並ぶテーブルを思い浮かべて頬が緩む。
「それでね、実は」
アナマリーが声を潜めて、一息ついた後、ちょっぴり恥ずかしそうに私を見た。
「来年の3月、また、ベルリンに来れる?」
「え?3月に?」
私はびっくりして手に持っていたベーグルサンドをプレートに置いた。
「特に予定はしてなかったけど……どうして、3月?」
「3月の終わりにね」
アナマリーはそっと左手を私の前に差し出した。
その薬指には、きれいなダイアモンドの指輪が星のようにキラキラと輝いている。私はすぐにその意味に勘づき、ドキンと胸が弾んだ。
思わず彼女のその手に触れる。
「おめでとう!!!もしかして、3月末に結婚式を挙げるってこと?!」
興奮に声が裏返りそうになった。
アナマリーは頬を赤らめて頷くと、彼女の左手に触れている私の右手の上に自分の右手を重ねた。
「実は、あの晩、帰り際にこれもらって……リオは、まだ一回しか会ってない間柄だとわかっているんだけど、是非、来て欲しいの」
「あの晩だったんだ!」
「酔っぱらってたから、やっぱり運転はまずいだろうって、クリスティアンもマーラも車は置いて行くことにして、4人でタクシーに乗ってたの。そしたら、その車内でいきなり指輪を出してきて」
「えええっ、すごい、タクシーの中でプロポーズ?!」
驚いて目が点になる。
散々パーティで飲んで踊って疲れ切った直後にプロポーズというだけでもびっくりなのに、タクシーの中で、運転手や他の友達も一緒の時にプロポーズに踏み切るとは、ある意味すごい勇気があるんじゃないだろうか。
「驚くよね!私もまさか、タクシーの中であんなことするなんて思わないから、最初は冗談かと思ったの」
アナマリーが思い出したようにクスクスと笑う。
「ジョーが言うには、周りにちゃんと見届けてくれる人が居て欲しかったから、あえてタクシーの中で決行したらしいんだけど」
「そうなんだ!でも、思い出になるね!タクシーに乗る度にその時のことが蘇って来るね。素敵だと思うよ!なんだかジョーらしい発想かも」
「うん、そうね。それで、クリスマス休暇あたりはお互いの家族に報告に行って、3月の終わりに、ベルリンで式をしようと話してるの」
「うん、わかった!」
私は大きく頷いた。
「喜んで、出席させて!有給休暇、まだたっぷり残ってるし、絶対に来る!」
私ははっきりとそう答えた。
アナマリーの嬉しそうな笑顔に胸が温かくなる。頬を染めて、目がキラキラと輝いて、まるで天使のように無垢な、幸福に満たされた微笑みを浮かべていた。
その瞬間、私ははっと我に返る。
今、この時まで完全に頭から抜けていたことだ。
自分も、プロポーズされていたんだった。
もし、これを受けたら、1月からはパリ住まいになっているじゃないか。
こんな重要なことをすっかり忘れていたなんて、私はどうかしてる!
「……リオ?」
「えっ」
声をかけられてはっとしてアナマリーを見ると、彼女が怪訝そうに私を見つめている。
「どうしたの?急に青ざめて……具合が悪いの?」
「あ、ううん……違うの……ごめんね、ちょっと」
私はしどろもどろになって苦笑いした。
アナマリーの婚約という喜ばしい報告をもらったこの場で、私の突然の取り乱し方はおかしいと思われても仕方がない。
アナマリーはしばらく黙って私を見ていたが、やがて、遠慮がちに私の顔を覗き込んだ。
「なにか、悩んでるんだったら、聞くよ?私でよければ、だけど」
その優しい言葉に、思わず目頭が熱くなり、私は慌てて瞬きをした。
プロポーズを受けいれた彼女に話せば、私がどういう状態なのか、客観的によく見えるのだろうか。
私は顔を上げて、アナマリーの目を見た。まっすぐで純粋な彼女の目に、悩む私の顔が映っている。
私は、彼女に打ち明けてみようと決心した。
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