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最後の一週間
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日曜日の9時50分、私は出かける準備を整えていた。
私の2週間のリフレッシュ・ホリデーも残す所半分となったこの日、昨日蓮美ちゃんが企画してくれたBBQで知り合ったアントーニオと出かける約束をしていた。
10時に表まで迎えに来てくれることになっているので、そろそろ外に出て待つことにする。昨晩、観光情報誌を丹念に読んで、今日行きたいところを決めた。ユネスコ世界遺産にも登録された、ポツダム、宮殿と湖の間に広がる庭園都市だ。類い稀な宮殿や庭園が数多く残っているらしく、大規模な歴史的建築物は必見らしい。せっかくベルリンまで来たし、少し遠出になるけれど、半日もあれば充分往復出来る距離だ。情報誌にいくつか掲載されていた美しい庭園や建造物の写真を見て、プロイセン王国の栄華を是非、この目に見てみたいと思った。
今のところ、曇り空で日差しがないため、昨日よりも肌寒く感じる。少し暖かめの服装で行くことにして、ストレッチタイプのブラックのスリムパンツ、上にはダークブラウンのコットンシャツの上に、ホワイトのウールセーターを着た。ワインレッドのストールを肩にかけて、準備は完了する。カメラも入れたダークブラウンのくり手トートバッグを肩にかけて、玄関を出た。
鍵をかけていると、階下から何やらガタガタと引越屋のような音が聞こえて来る。同時に、聞き覚えのある声が耳に入って来て、それが、サビーナとヴィクターのものだと気がついた。
あの二人が何かを運び出しているらしい。
階段を下りて行くと、思った通り、二人で本棚を運び出しているところだった。
「おはよう」
声をかけると二人が私に気がつき、笑顔で挨拶を返し、運び出そうとしていた本棚を踊り場に一度置く。
「今日、家具の一部を引き取ってくれる人が来るから、表に出さなくちゃいけないの」
サビーナが肩を回しながらそう言って本棚をぽんぽん、と叩く。
「年明けに彼のアパートに移る時に、持って行ける量は限られてるしね。このアパートの家具は、殆ど全部、私のものなのよ」
「そうなんだ!何か、手伝おうか?丁度、下に行くところだったし」
私がそう言うと、ヴィクターが玄関先に置いてあった曇りガラスのランプを指差した。
「じゃぁ、リオ、悪いけどコレ、いい?」
「うん。もうひとつくらい一緒に運べるけど?」
私はランプを取り、隣にあった木製のハンガースタンドも、もう片方の手で抱えた。
「ちょっと多すぎない?大丈夫?」
サビーナが少し心配げに聞いたけど、私は余裕で頷いた。
「全然、平気。私も数回、引っ越ししたから、慣れてるの」
「そうなの?東京で?」
「うん。今も、転職を考えてるから、勤め先が変わったら通勤が楽な場所に引っ越そうと思ってて。仕事も、アパートもまとめて心機一転」
「へぇ、転職するんだ?どんな仕事?」
ヴィクターが興味深げに聞いて来たが、すぐに返事が出来なくて苦笑いした。
「それが、まだよくわからないんだよね。単に、今の仕事は永遠にはしないかなと思ってて……」
「何がやりたいの?」
サビーナに聞かれて、しばし本気で考えてみたものの、これと言って思いつかず、ふと、頭に浮かんだアイデアを口にする。
「それを見つけるために、また勉強するとかもいいかなぁ、なんて」
「そうね。リオ、まだ若いし」
サビーナがニコニコしてそう言うので、私は首を振った。
「そうでもないよ。もう27歳だし……転職するなら、30歳前にはって感じ」
「え、27歳なの?」
サビーナがびっくりしたように私を見て、それからヴィクターを振り返った。
「てっきり、22、3歳かと思ってた!私より年上なんて、信じられない」
それを聞いて私は逆にびっくりした。彼女は大人びて見えるから、私より下だとは思わなかったのだが、それを正直に言うのは女性に対しては失礼だろう。
「サビーナは何歳なの?」
単刀直入に聞いてみた。
「私は25歳になったばかりよ。ちなみにヴィクターは30歳」
「えっ、30歳?!」
私はびっくりしてヴィクターを振り返った。彼は私と同じくらいか、下手したら年下と思っていたので、まさか3歳も年上だとは思わなかった。大体、コールセンターのカスタマーサービス担当という仕事をする男性と聞くと、思い込みもあって、年齢は大学を卒業してまもないくらいかとイメージしてしまったのもあるだろう。それに、顔立ちがベビーフェイスだから、実際より若く見えたのかもしれない。
「なんで驚いてんの」
少し不機嫌になったヴィクターがこちらを睨む。
「えっと、別に深い意味はないから」
3つも上だと知って驚くが、欧米では特に、職場以外の場所では多少の年齢差では上下関係が自動的に決まるわけじゃないし、私も特に失礼な態度は取っていなかったはずだ。
「さ、運びましょ」
サビーナの声で、私は頷くと、ランプとハンガースタンドを抱え、先に階段を下り始めた。私の後ろから二人が、本棚を抱え、ゆっくりと下りて来る。アパートの外へ出て、柵の表のほうに出ると、彼等が先に出したらしい箱や写真フレームなどが置いてあった。その隣にそっとランプとハンガースタンドを置く。後方から、彼等がゆっくりと本棚を抱えてやって来るのが見えたので、柵を開ける。サビーナもいつもランニングしているだけあって、思ったよりずっと力持ちらしい。
「次で最後だな。俺が行って来る」
ヴィクターがすぐにアパートのほうへ戻って行った。
サビーナが出してある箱や家具を確認して、置き場を柵の目の前から、少し離れた場所へ移し始めたので、私も手伝う。ピックアップの車が駐車しやすい場所に、無事移動を完了させる。
「リオは今から出かけるの?」
サビーナに聞かれて、私はあたりを見渡しながら答えた。
「うん、今日はポツダムの庭園を見に行こうと思って」
「ポツダム?そうね、天気もなんとか持ちそうよね」
サビーナが曇り空を見上げたので、私も一緒に空を見上げる。どんよりとはしているけれど、雲の厚さはそれほどでもないので、雨は降らないだろう。
通りの向こうからゆっくりと車がこちらのほうへやってくるのに気がついて、そちらを見ると、昨日乗せてもらった黒光りするポルシェ・ニューケイマンだった。静かでエレガントなエンジン音が耳に響いて来る。
丁度、家具を出してあったところの駐車スペースが空いていたので、車はゆっくりとその場所に停まった。
運転席のドアが開くと、車体の向こうにすっと立ち上がったアントーニオがこちらを振り返り、爽やかな笑顔で手を挙げる。
「おはよう、リオ。待たせたかな」
「おはよう。今、出て来たところだから」
本棚の上に置いていたトートバッグを取ると、こちらへ回って来たアントーニオが、私の隣にいたサビーナに、軽く、ハローと声をかけながら、助手席のドアを開けてくれた。
あくまで完璧な紳士の動作に緊張し、アントーニオを見上げる。昨日のカジュアルな感じとは違って、今日は少しスポーティな雰囲気だ。デニムパンツに、ホワイトのコットンシャツ、上に黒のライダースを着ていて、どう見ても技術部門勤務には見えない。やっぱりサッカーチームに所属しているから、インドアな感じがしないのだろうか。
「あれ、リオ、遠出するんだ」
後ろから声がして振り返ると、大きな鉢植えを二個持ったヴィクターが笑顔でこちらを見ていた。
「ポツダムに観光に行くんだって」
サビーナがそう言って、車に乗り込もうとしている私に手を振る。
「楽しんで来てね」
「うん、ありが……」
ありがとう、と言おうとした時、ガタンと重い物が落下する音がして、片足を車の淵に乗せたまま振り返ると、ヴィクターが両手に持っていた鉢植えを落とし、目を大きく見開いてこちらを見ていた。
その視線の先を追うと、その目は、助手席のドアを支えているアントーニオに向けられている。そのアントーニオのヘーゼルカラーの目が、訝しげにヴィクターの方を見据え、やがて彼は何か気がついた様に、眉間に皺を寄せた。
嫌悪の色を帯びたその表情に、妙な胸騒ぎを覚える。
だが、アントーニオはすぐに元通りの落ち着いた表情に戻り、ヴィクターから目を離すとそっと私の背中を押す。
「さぁ、リオ。行き先は、ポツダムに決めたんだね」
「え、あ、うん……」
異様な雰囲気を感じつつ、もう一度、車に乗り込もうとしたら、背後からヴィクターの声がした。
「リオ、行かないほうがいい」
突然そんな言葉が耳に飛び込んで来て驚いて振り返ると、目を大きく見開いたヴィクターが真剣な表情でこちらへ歩いて来て、助手席のドアの前に立つ私にきっぱりと言う。
「行ったらダメだ!」
何を根拠にそんなことを言うのかと、唖然として目の前のヴィクターを見上げた。
唐突すぎてどう反応したらいいのかもわからない。
彼の真っ青な目が、突き刺さすように鋭く私を見つめている。彼が、本気で私を止めようとしているのは間違いなかった。
「君にはもう、うんざりだ」
ふいにアントーニオの厳しい声音がしたかと思うと、彼はヴィクターの肩を掴み荒っぽく後ろへ押し退け、やや急かすように私の背を押す。呆然とこちらを見ているヴィクターに動揺しつつも、アントーニオに促され、そのまま車に乗り込む。彼はすぐに助手席のドアを閉め、早足で運転席のほうへ回った。
明らかに機嫌を害したアントーニオが、苛ついた様子でシートベルトを締め素早くエンジンをかけるのを見る。
「リオ!」
また、ヴィクターの声が聞こえ、窓の外へ目をやると、あろうことか、助手席のドアのアウターハンドルを掴み無理矢理開けようとしているヴィクターがいた。思わず私もドアを開けようとインナーハンドルに手をかけたが、オートロックされているのか、ドアは開かない。
無理だと諦めて、こちらを見ているヴィクターを見上げた。
危ないからもう車から離れて、と言おうと窓ガラスを開けるボタンを押した途端、車が急発進する。
「あっ、あぶないっ!!!」
思わず叫んでアントーニオを止めようとしたが、彼は私の静止に構う事無くそのまま更にアクセルを踏み込み、車は一気に加速する。開いた窓から慌てて後方を振り返ると、追って走るヴィクターの姿が目に入り、更に驚く。
「……っ」
バックミラーでヴィクターの姿を確認したらしいアントーニオが、忌々しそうに舌打ちしたのが聞こえる。彼の目は憎しみの色を帯びて前方を見つめていた。
この二人の間に、一体、何があったんだ!?
やがて赤信号で車が少し減速した時に、風の音に紛れてヴィクターの声がした。
「リオ!」
まだ追いかけて来ているのかと驚いて、もう一度窓の外を見ようと、少し身を傾けて後方を見る。車の減速で追いついたヴィクターが、もうすぐそこに迫っていた。
その姿を見て、アレクサンダープラッツの駅で、酔っぱらい達に絡まれていた時に走って来たヴィクターを思い出す。ふと、このアントーニオが良くない人間だと知っているから私を止めようとしているのかという考えが脳裏に浮かぶ。
もう車の真後ろまで追いついたヴィクターが、バンッ、と車の車体を叩いて叫んだ。
「彼女を、降ろすんだ!」
その瞬間、車が再発進し、私は窓から身を乗り出して後ろを振り返る。
強い風に煽られたストールがふわりと浮いて私の肩から離れると、一気に外へと吹き飛ばされた。ワインレッドのストールが、車を吹き抜けた風に乗って勢い良く空へ舞い上がり、後方へ飛んで行く。ついに立ち止まったヴィクターがそのストールを拾うのが見えたが、その姿はあっという間に遠くへと消えて行った。
何が何だかわからない状況に、言葉も出ず、座席に座り直すと黙ってアントーニオを見た。
彼はやや怒りを帯びた表情でじっと前方を見つめていたが、やがて、自嘲するように微笑んで私を見た。
「まさか、2年ぶりにあの男に会うとは思わなくて、大人げないことをしてしまった。情けないところを見せてしまって、すまない」
「2年ぶり?ヴィクターと知り合いだったの?」
一体どういういきさつだったのだろうか。二人の関係が悪いものだということだけは一目瞭然だが、この二人にどういう接点があるのか想像も出来ない。
アントーニオは少し、言いたくなさそうに苦笑していたが、やがて諦めたように大きな溜め息をついた。
「君もすでに知っているだろうが、俺は、以前、婚約解消したことがある」
「それは、聞いた」
「随分と面倒な裁判になって、最終的には、俺は敗訴して、多額の慰謝料を払うことになってね」
「ふうん……?」
それが一体ヴィクターと何の関係があるのか理解出来ず、釈然としないままアントーニオの顔を眺めていると、アントーニオがちらりと私を見て、落ち着いた余裕の微笑みを浮かべた。
「すっかり忘れていたくらい昔のことだ」
そう言って、彼は丁度赤から青に変わった信号に目を向け、独り言のように呟いた。
「俺は、ハメられたんだ。あいつさえいなければ、俺は敗訴しなかったはずだった」
「あいつさえいなければ、って?」
一番不可解なことを尋ねると、アントーニオは両手でハンドルをゆっくり切りながら答えた。
「ヴィクター。あの男が、婚約者側の弁護士」
「……え?」
私は目が点になって、アントーニオの横顔を眺めた。
弁護士?
婚約者側の、弁護士……
ヴィクターが?
彼は、オンラインホテル予約の会社で、カスタマーサービスのクレーム処理の仕事をしているのに?
そのヴィクターが、弁護士のはずはない。
人違いだろう、と言おうとしたけれど、さっきのヴィクターの反応を思い出せば、アントーニオの言うように、二人が敵対していたというのは事実で、それは人違いでないことを示していた。
つまり、少なくとも2年前の時点では、ヴィクターは弁護士だったということだ。
なら、何故、ヴィクターは今、全然違う仕事をしているんだろう?
そして、私を止めようとした理由は?
アントーニオは、私にとって良くない相手だと確信を持っているから?
友達想いの、優しいヴィクターだ。
その他に理由は考えられないだろう。
私は今、自分の隣に座るアントーニオを見つめた。
まっすぐに前方を見据える、ヘーゼルカラーの目。
目は心の鏡という。
でも、アントーニオの目を見ても、私には、その目に宿る思惑を読み取ることは出来ない。
昨晩、宵の明星を見ていた時に感じた胸騒ぎは、これだったのかと思いながら、窓の外へ目を向けた。
私の2週間のリフレッシュ・ホリデーも残す所半分となったこの日、昨日蓮美ちゃんが企画してくれたBBQで知り合ったアントーニオと出かける約束をしていた。
10時に表まで迎えに来てくれることになっているので、そろそろ外に出て待つことにする。昨晩、観光情報誌を丹念に読んで、今日行きたいところを決めた。ユネスコ世界遺産にも登録された、ポツダム、宮殿と湖の間に広がる庭園都市だ。類い稀な宮殿や庭園が数多く残っているらしく、大規模な歴史的建築物は必見らしい。せっかくベルリンまで来たし、少し遠出になるけれど、半日もあれば充分往復出来る距離だ。情報誌にいくつか掲載されていた美しい庭園や建造物の写真を見て、プロイセン王国の栄華を是非、この目に見てみたいと思った。
今のところ、曇り空で日差しがないため、昨日よりも肌寒く感じる。少し暖かめの服装で行くことにして、ストレッチタイプのブラックのスリムパンツ、上にはダークブラウンのコットンシャツの上に、ホワイトのウールセーターを着た。ワインレッドのストールを肩にかけて、準備は完了する。カメラも入れたダークブラウンのくり手トートバッグを肩にかけて、玄関を出た。
鍵をかけていると、階下から何やらガタガタと引越屋のような音が聞こえて来る。同時に、聞き覚えのある声が耳に入って来て、それが、サビーナとヴィクターのものだと気がついた。
あの二人が何かを運び出しているらしい。
階段を下りて行くと、思った通り、二人で本棚を運び出しているところだった。
「おはよう」
声をかけると二人が私に気がつき、笑顔で挨拶を返し、運び出そうとしていた本棚を踊り場に一度置く。
「今日、家具の一部を引き取ってくれる人が来るから、表に出さなくちゃいけないの」
サビーナが肩を回しながらそう言って本棚をぽんぽん、と叩く。
「年明けに彼のアパートに移る時に、持って行ける量は限られてるしね。このアパートの家具は、殆ど全部、私のものなのよ」
「そうなんだ!何か、手伝おうか?丁度、下に行くところだったし」
私がそう言うと、ヴィクターが玄関先に置いてあった曇りガラスのランプを指差した。
「じゃぁ、リオ、悪いけどコレ、いい?」
「うん。もうひとつくらい一緒に運べるけど?」
私はランプを取り、隣にあった木製のハンガースタンドも、もう片方の手で抱えた。
「ちょっと多すぎない?大丈夫?」
サビーナが少し心配げに聞いたけど、私は余裕で頷いた。
「全然、平気。私も数回、引っ越ししたから、慣れてるの」
「そうなの?東京で?」
「うん。今も、転職を考えてるから、勤め先が変わったら通勤が楽な場所に引っ越そうと思ってて。仕事も、アパートもまとめて心機一転」
「へぇ、転職するんだ?どんな仕事?」
ヴィクターが興味深げに聞いて来たが、すぐに返事が出来なくて苦笑いした。
「それが、まだよくわからないんだよね。単に、今の仕事は永遠にはしないかなと思ってて……」
「何がやりたいの?」
サビーナに聞かれて、しばし本気で考えてみたものの、これと言って思いつかず、ふと、頭に浮かんだアイデアを口にする。
「それを見つけるために、また勉強するとかもいいかなぁ、なんて」
「そうね。リオ、まだ若いし」
サビーナがニコニコしてそう言うので、私は首を振った。
「そうでもないよ。もう27歳だし……転職するなら、30歳前にはって感じ」
「え、27歳なの?」
サビーナがびっくりしたように私を見て、それからヴィクターを振り返った。
「てっきり、22、3歳かと思ってた!私より年上なんて、信じられない」
それを聞いて私は逆にびっくりした。彼女は大人びて見えるから、私より下だとは思わなかったのだが、それを正直に言うのは女性に対しては失礼だろう。
「サビーナは何歳なの?」
単刀直入に聞いてみた。
「私は25歳になったばかりよ。ちなみにヴィクターは30歳」
「えっ、30歳?!」
私はびっくりしてヴィクターを振り返った。彼は私と同じくらいか、下手したら年下と思っていたので、まさか3歳も年上だとは思わなかった。大体、コールセンターのカスタマーサービス担当という仕事をする男性と聞くと、思い込みもあって、年齢は大学を卒業してまもないくらいかとイメージしてしまったのもあるだろう。それに、顔立ちがベビーフェイスだから、実際より若く見えたのかもしれない。
「なんで驚いてんの」
少し不機嫌になったヴィクターがこちらを睨む。
「えっと、別に深い意味はないから」
3つも上だと知って驚くが、欧米では特に、職場以外の場所では多少の年齢差では上下関係が自動的に決まるわけじゃないし、私も特に失礼な態度は取っていなかったはずだ。
「さ、運びましょ」
サビーナの声で、私は頷くと、ランプとハンガースタンドを抱え、先に階段を下り始めた。私の後ろから二人が、本棚を抱え、ゆっくりと下りて来る。アパートの外へ出て、柵の表のほうに出ると、彼等が先に出したらしい箱や写真フレームなどが置いてあった。その隣にそっとランプとハンガースタンドを置く。後方から、彼等がゆっくりと本棚を抱えてやって来るのが見えたので、柵を開ける。サビーナもいつもランニングしているだけあって、思ったよりずっと力持ちらしい。
「次で最後だな。俺が行って来る」
ヴィクターがすぐにアパートのほうへ戻って行った。
サビーナが出してある箱や家具を確認して、置き場を柵の目の前から、少し離れた場所へ移し始めたので、私も手伝う。ピックアップの車が駐車しやすい場所に、無事移動を完了させる。
「リオは今から出かけるの?」
サビーナに聞かれて、私はあたりを見渡しながら答えた。
「うん、今日はポツダムの庭園を見に行こうと思って」
「ポツダム?そうね、天気もなんとか持ちそうよね」
サビーナが曇り空を見上げたので、私も一緒に空を見上げる。どんよりとはしているけれど、雲の厚さはそれほどでもないので、雨は降らないだろう。
通りの向こうからゆっくりと車がこちらのほうへやってくるのに気がついて、そちらを見ると、昨日乗せてもらった黒光りするポルシェ・ニューケイマンだった。静かでエレガントなエンジン音が耳に響いて来る。
丁度、家具を出してあったところの駐車スペースが空いていたので、車はゆっくりとその場所に停まった。
運転席のドアが開くと、車体の向こうにすっと立ち上がったアントーニオがこちらを振り返り、爽やかな笑顔で手を挙げる。
「おはよう、リオ。待たせたかな」
「おはよう。今、出て来たところだから」
本棚の上に置いていたトートバッグを取ると、こちらへ回って来たアントーニオが、私の隣にいたサビーナに、軽く、ハローと声をかけながら、助手席のドアを開けてくれた。
あくまで完璧な紳士の動作に緊張し、アントーニオを見上げる。昨日のカジュアルな感じとは違って、今日は少しスポーティな雰囲気だ。デニムパンツに、ホワイトのコットンシャツ、上に黒のライダースを着ていて、どう見ても技術部門勤務には見えない。やっぱりサッカーチームに所属しているから、インドアな感じがしないのだろうか。
「あれ、リオ、遠出するんだ」
後ろから声がして振り返ると、大きな鉢植えを二個持ったヴィクターが笑顔でこちらを見ていた。
「ポツダムに観光に行くんだって」
サビーナがそう言って、車に乗り込もうとしている私に手を振る。
「楽しんで来てね」
「うん、ありが……」
ありがとう、と言おうとした時、ガタンと重い物が落下する音がして、片足を車の淵に乗せたまま振り返ると、ヴィクターが両手に持っていた鉢植えを落とし、目を大きく見開いてこちらを見ていた。
その視線の先を追うと、その目は、助手席のドアを支えているアントーニオに向けられている。そのアントーニオのヘーゼルカラーの目が、訝しげにヴィクターの方を見据え、やがて彼は何か気がついた様に、眉間に皺を寄せた。
嫌悪の色を帯びたその表情に、妙な胸騒ぎを覚える。
だが、アントーニオはすぐに元通りの落ち着いた表情に戻り、ヴィクターから目を離すとそっと私の背中を押す。
「さぁ、リオ。行き先は、ポツダムに決めたんだね」
「え、あ、うん……」
異様な雰囲気を感じつつ、もう一度、車に乗り込もうとしたら、背後からヴィクターの声がした。
「リオ、行かないほうがいい」
突然そんな言葉が耳に飛び込んで来て驚いて振り返ると、目を大きく見開いたヴィクターが真剣な表情でこちらへ歩いて来て、助手席のドアの前に立つ私にきっぱりと言う。
「行ったらダメだ!」
何を根拠にそんなことを言うのかと、唖然として目の前のヴィクターを見上げた。
唐突すぎてどう反応したらいいのかもわからない。
彼の真っ青な目が、突き刺さすように鋭く私を見つめている。彼が、本気で私を止めようとしているのは間違いなかった。
「君にはもう、うんざりだ」
ふいにアントーニオの厳しい声音がしたかと思うと、彼はヴィクターの肩を掴み荒っぽく後ろへ押し退け、やや急かすように私の背を押す。呆然とこちらを見ているヴィクターに動揺しつつも、アントーニオに促され、そのまま車に乗り込む。彼はすぐに助手席のドアを閉め、早足で運転席のほうへ回った。
明らかに機嫌を害したアントーニオが、苛ついた様子でシートベルトを締め素早くエンジンをかけるのを見る。
「リオ!」
また、ヴィクターの声が聞こえ、窓の外へ目をやると、あろうことか、助手席のドアのアウターハンドルを掴み無理矢理開けようとしているヴィクターがいた。思わず私もドアを開けようとインナーハンドルに手をかけたが、オートロックされているのか、ドアは開かない。
無理だと諦めて、こちらを見ているヴィクターを見上げた。
危ないからもう車から離れて、と言おうと窓ガラスを開けるボタンを押した途端、車が急発進する。
「あっ、あぶないっ!!!」
思わず叫んでアントーニオを止めようとしたが、彼は私の静止に構う事無くそのまま更にアクセルを踏み込み、車は一気に加速する。開いた窓から慌てて後方を振り返ると、追って走るヴィクターの姿が目に入り、更に驚く。
「……っ」
バックミラーでヴィクターの姿を確認したらしいアントーニオが、忌々しそうに舌打ちしたのが聞こえる。彼の目は憎しみの色を帯びて前方を見つめていた。
この二人の間に、一体、何があったんだ!?
やがて赤信号で車が少し減速した時に、風の音に紛れてヴィクターの声がした。
「リオ!」
まだ追いかけて来ているのかと驚いて、もう一度窓の外を見ようと、少し身を傾けて後方を見る。車の減速で追いついたヴィクターが、もうすぐそこに迫っていた。
その姿を見て、アレクサンダープラッツの駅で、酔っぱらい達に絡まれていた時に走って来たヴィクターを思い出す。ふと、このアントーニオが良くない人間だと知っているから私を止めようとしているのかという考えが脳裏に浮かぶ。
もう車の真後ろまで追いついたヴィクターが、バンッ、と車の車体を叩いて叫んだ。
「彼女を、降ろすんだ!」
その瞬間、車が再発進し、私は窓から身を乗り出して後ろを振り返る。
強い風に煽られたストールがふわりと浮いて私の肩から離れると、一気に外へと吹き飛ばされた。ワインレッドのストールが、車を吹き抜けた風に乗って勢い良く空へ舞い上がり、後方へ飛んで行く。ついに立ち止まったヴィクターがそのストールを拾うのが見えたが、その姿はあっという間に遠くへと消えて行った。
何が何だかわからない状況に、言葉も出ず、座席に座り直すと黙ってアントーニオを見た。
彼はやや怒りを帯びた表情でじっと前方を見つめていたが、やがて、自嘲するように微笑んで私を見た。
「まさか、2年ぶりにあの男に会うとは思わなくて、大人げないことをしてしまった。情けないところを見せてしまって、すまない」
「2年ぶり?ヴィクターと知り合いだったの?」
一体どういういきさつだったのだろうか。二人の関係が悪いものだということだけは一目瞭然だが、この二人にどういう接点があるのか想像も出来ない。
アントーニオは少し、言いたくなさそうに苦笑していたが、やがて諦めたように大きな溜め息をついた。
「君もすでに知っているだろうが、俺は、以前、婚約解消したことがある」
「それは、聞いた」
「随分と面倒な裁判になって、最終的には、俺は敗訴して、多額の慰謝料を払うことになってね」
「ふうん……?」
それが一体ヴィクターと何の関係があるのか理解出来ず、釈然としないままアントーニオの顔を眺めていると、アントーニオがちらりと私を見て、落ち着いた余裕の微笑みを浮かべた。
「すっかり忘れていたくらい昔のことだ」
そう言って、彼は丁度赤から青に変わった信号に目を向け、独り言のように呟いた。
「俺は、ハメられたんだ。あいつさえいなければ、俺は敗訴しなかったはずだった」
「あいつさえいなければ、って?」
一番不可解なことを尋ねると、アントーニオは両手でハンドルをゆっくり切りながら答えた。
「ヴィクター。あの男が、婚約者側の弁護士」
「……え?」
私は目が点になって、アントーニオの横顔を眺めた。
弁護士?
婚約者側の、弁護士……
ヴィクターが?
彼は、オンラインホテル予約の会社で、カスタマーサービスのクレーム処理の仕事をしているのに?
そのヴィクターが、弁護士のはずはない。
人違いだろう、と言おうとしたけれど、さっきのヴィクターの反応を思い出せば、アントーニオの言うように、二人が敵対していたというのは事実で、それは人違いでないことを示していた。
つまり、少なくとも2年前の時点では、ヴィクターは弁護士だったということだ。
なら、何故、ヴィクターは今、全然違う仕事をしているんだろう?
そして、私を止めようとした理由は?
アントーニオは、私にとって良くない相手だと確信を持っているから?
友達想いの、優しいヴィクターだ。
その他に理由は考えられないだろう。
私は今、自分の隣に座るアントーニオを見つめた。
まっすぐに前方を見据える、ヘーゼルカラーの目。
目は心の鏡という。
でも、アントーニオの目を見ても、私には、その目に宿る思惑を読み取ることは出来ない。
昨晩、宵の明星を見ていた時に感じた胸騒ぎは、これだったのかと思いながら、窓の外へ目を向けた。
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